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05 BENクー 著  海岸 『大とぐろ』

『とぐろは恐ろしか!』

 囲炉裏の前で呟くお(じい)の姿が辰之助の頭に何度も浮かんでいた。海岸線には、離岸流(りがんりゅう)という急流並みの早さで沖に流れる引き潮が生じる。特に湾曲した海岸線では日常的に発生する。それでも普通の離岸流であれば、船上にいる限り何も心配することはない。まして辰之助ほどの操船上手であれば、引き潮の中に起こる一筋の寄せ波にさえ乗ることもできた。

 ところが、希に渦を巻きながら沖へ流れる特殊な引き潮が発生することがある。地元の漁師たちは、この突然発生する渦巻く引き潮の小さいものを“とぐろ”、大きいものを“大とぐろ”と呼び、龍神が漁師の技量を試すために起こしているものだと考えていた。

 いずれにしろ、とぐろから抜け出した者はいるが、大とぐろに遭遇して生きて戻った漁師は一人もおらず、ニ刻(4時間)前、辰之助は入り江近くまで戻って来たところでこの大とぐろに捕まってしまったのだ。大とぐろの中はゴオーっという音しか聞こえず、それだけ勢いよく波が渦に呑まれている証拠だった。『とぐろにハマったら何でん我慢たい。逆らうとひっくり返って土左衛門になるけんね。よかか辰、とにかく波に乗るこったい。なんしてん龍神さんに船ば持ってかるっこつは、信心の足らん証拠で恥ずかしかけんね。それに「辰が龍神さんに呼ばるっなんて洒落にならん」って、仲間うちに笑わるっとがオチばい。ふぁふぁふぁ!』

 湯呑み酒に酔って語ったお爺の言葉が、優しさに溢れた教えであることは小さかった辰之助にもよく分かった。それでなくとも、今の辰之助には歯の抜けたお爺の笑い声さえ心の支えになっていた。ニ刻の間、辰之助はひたすら船を安定させることに必死だった。渦に引き込まれないためには、流れに逆らわないようにしながら舳先を斜上に立て続けるしかなく、辰之助は波の壁にへばりつくように全身で櫓を押さえながら舳先を立て続けた。この間、少しでも船がヨレると、波のぶつかる音と共に大量の飛沫が飛び込んで来た。この飛沫が当たると、まるで鞭で打たれたような痛みが走り、まさしく大とぐろの呼び名の通り、龍神に爪を立てられてる思いがした。

 だが、辰之助がいくら操船上手でも、人間であるからには体力にも限界がある。ニ刻が過ぎようとする頃、辰之助は龍神の爪にさえ痛みを感じなくなり、最後は櫓を抱きしめたままゆっくりと船底に倒れ込んだ。

 波を押さえてきた櫓が水面から離れた途端、船は一度大きく揺れると流れのまま大きな弧を描きながらゆっくりと渦の中心へと向かっていった。

「お(さき)…」

 倒れる間際、ここまでお爺の言葉を忠実に守ってきた辰之助が吐いたのは、愛しい女房の名前だった。「あの音…まさか!」

 お早は、繕い物の手を止めて耳をすませた。漁師の家に生まれたお早には、腹に響く異様な音が何を意味するかを知っていた。辰之助の聞いていた轟音は、お早の祖父を奪った龍神の唸り声と同じものであった。

 お早は、手中の繕い物を放り出すと裸足のまま海岸線を見下ろす岬へと駆け出した。すでにそこには兄の姿があり、惣太はじっと沖の一点を見ていた。惣太の目には、ゆっくり弧を描きながら渦の中心に向かって流されていく一艘の船が映っていた。

「にいちゃ…」

 お早は、肩が震えるほどに強く拳を握り締めている惣太を見て声を飲み込んだ。波を眺めるしかないなど、漁師にとってはこの上ない悔しさであることを知っていたからだ。

「来るな!」

 逆にお早に気付いた惣太は、大声を張り上げると両手を広げてお早を制した。その瞬間、悪夢を感じたお早は、兄の制止を振り切らんばかりに身を乗り出して海を見た。渦中を巡る船には、舳先から船尾にかけて赤と黒の二本線が見えた。辰之助の船だった。

「あ、あああ…」

 言葉を失ったお早は、崩れるように膝をつくと這いつくばったまま海に手を伸ばした。今度は魅入られたお早を押さえつけるのに惣太は必死になった。

 船は、徐々に速度を上げながら中心へと弧を縮めていく。辰之助は微動だにしない。そして、終には呑み込まれる木の葉ように船は渦中へと落ちていった。その瞬間、お早はうなだれ、惣太は渦を睨みつけた。すると、突然それまで響いていた轟音が鳴り止み、真っ黒だった渦の中心から水柱が吹き上がった。水柱の吹き上がる音は、それまでの重々しい唸り声と違って空気が抜けるような甲高い音であり、惣太には龍神の断末魔だと思われた。

 吹き上がった水柱は粒となって降り注ぎ、瞬時立ち昇る水飛沫が霧となって辺りを真っ白にした。そして、白い霧が晴れ上がると渦は消え去っており、海岸線はまるで何事もなかったかのように穏やかになっていた。

 すると、それまで渦の中心だったところに船が浮いているのが見えた。

「辰!」

 思わず惣太が叫ぶと、お早は兄の腕を振り払って海岸へと駆け下りた。駆けながら帯を解き、素っ裸になって海へ飛び込むと、ひたすら船に向かって泳いだ。船は海岸から1丁半(約170m)ほどしか離れておらず、お早はあっという間に船縁に手を懸けるとそのまま一気に船へ乗り込んだ。そこには、櫓を抱いたまま動かない辰之助の姿があった。

「うわあぁぁぁ…」

 辰之助が呼吸をしていないのを見ると、お早は辰之助の胸に顔を埋めて泣き叫んだ。

すると、突然辰之助は水を吐き出し、もがくように喘ぎ始めた。どうやら気を失ったのが幸いしたらしく、ほとんど水を飲まずに済んだおかげですぐに息を吹き返すことが出来たらしい。

「うわあぁぁぁぁ!」

 悪夢一転、お早はうれし泣きの声を上げながら辰之助を力いっぱい抱きしめた。

「お早、く、苦しか…」

 お早が腕を緩めると、辰之助はお早の涙を払ってやり、大きく息を一つ吐いて周囲を見回した。周りの景色はニ刻前と変わらず、大とぐろが海岸からたかがニ丁足らずの場所で起こったことが信じられなかった。

 辰之助は、一つ大きく嘆息すると思わずこう口走った。

『とぐろは恐ろしか…』-おしまい-


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