01 まゆ 著 海岸 『マリンハウスの少年』
梅雨入り前の海は、沖からの風で白波をたてていた。まだ海水浴には早い六月初め、少年が一人サーフィンの練習をしているのが見える。少年はボードに体を預け、沖の方へ泳いでいっては立ちあがり、少し進んでは転倒し海に没する。それを飽きること無く繰り返していた。
その様子をしばらく見つめていたエイジは、ほぼ真上から照りつける日差しを避けるようにカンカン帽をかぶり直し、海辺に建つマリンハウスの方へ歩き始めた。
建物全体に塗られた白いペンキはひび割れ、所々はがれ落ち、木の板が露出している。壁に並べ立てかけられたサーフボードも何年も前からそのままのように色あせていた。板の階段を軋ませながら踏み、ドアに手をかけるとドアベルが乾いた音をたてた。
店の中は、マホガニーのテーブルと椅子が並び、カウンターに老人が一人グラスを磨いていた。
「おっ、エイジさん、いらっしゃい」
老人は皺と目の区別がつかなくなるようなしわくちゃな顔で笑った。
「宮さんは変わりなさそうだね」
エイジは、カンカン帽でうちわのように顔を仰ぎながらカウンター席に腰を下ろし、白髪交じりの頭をさすった。
「そういうエイジさんも元気そうだね」
「元気なものか。仕事に生きづまったから、ここに来たんだ」
「そうだね。でも、そのうち元気になるさ」
老人は棚からバーボンの瓶を取り出しホコリを布巾でぬぐい取った。
「あれから、三十年か。ずいぶんこの辺も変わったな」
「ああ、人がいなくなった。その分静かになって、海岸に流れ着くゴミが減った」
老人は冷蔵庫からレモンを取って、バーボンが入ったグラスに搾る。
「それはいいことだが、人口減は未だに止まらない」
エイジはグラスに口をつけながら言った。
三十年前、世界中で未知のウィルスの感染症により人口が激減していく事件が起こった。遺伝子操作で作られたものだとか、生物兵器によるテロだとか、異星人の陰謀だとかいろいろな仮説が囁かれたが真相は分からない。
最初の五年で人口が半分になり、十年で当初の三分の一になった。その後、終息したものの、三十年後の今も人口は回復していない。治療法も徐々に進歩しており、予防措置やワクチン接種も浸透してきてはいるが、まだまだ不十分だった。
人々はほとんど外出せずに屋内にとどまっていた。外を出歩くのは一度感染して命を取り留めた人間くらいだ。
エイジも宮さんも、感染症から生還した人間だった。
「変わらないのは、あいつくらいなものだ」
老人は窓から海へ視線を投げた。
「ああ、さっき見てきたよ。相変わらずへたくそなサーフィンをつづけているんだな」
すると、階段を叩く足音がして、勢いよくドアベルが鳴り響いた。
「じっちゃん、ただいま! あ、エイジも来ているのか!」
サーフボードを抱えた真っ黒に日焼けした少年が白い歯を見せた。
「お前も元気だな。よく飽きずに波乗りなんかやってんな」
「当たり前だ! 俺、プロのサーファーになるんだから!」
少年は屈託のない顔で笑った。
「そうか。がんばれよ!」
少年はエイジが口に運ぶバーボンのグラスを見つめ、宮さんに「俺も」と手を伸ばす。
「あいよ」
宮さんは、新しい工業用エチルアルコールのボトルを布巾で拭いた。ホコリ一つついていないボトルでも客に出す前に磨くのが宮さんの癖だった。
「油もおくれよ」
少年は、カウンターの椅子に腰掛け足を上げ、膝小僧の皮膚を剥きながら言った。
「あいよ」
宮さんは茶色に変色した油差しをテーブルにおいた。
少年は膝小僧の歯車に油を差しながら、「海に入った後は、ちゃんと油をささないとさびちゃうんだ」と言いながら、工業用エチルアルコールのグラスを傾けた。
「ほんとうにお前は変わらないな」
エイジは目を細め少年を見つめた。
エイジは、三十年前、未知のウイルスの初期の発病者だった。死亡率は九十%を超えていた。高熱で全身が沸騰しそうだった。エイジの両親は大金をはたいてアンドロイドを作った。その当時の最新技術の心コピー技術を使って、当時十五歳だったエイジの心をコピーし、アンドロイドに移植したのだ。
エイジは一命をとりとめたが、その後、相次いで両親が感染し死んだ。皮肉なものだとエイジは思った。
十五歳のエイジそのままのアンドロイドは、その当時の心で夢を追いかけ続けている。年を取ることもないかわりに、決して上達することのないサーフィンを三十年間練習し続けているのだ。
「じゃあ、宮さん、これ」
エイジはポケットから封筒を取り出しテーブルの上に置いた。
「そんなことをしなくても良いのに。ワシはこいつを本当の息子だとおもっているんだ」
「まあ、取っておいてくれ、養育費みたいなものだから」
エイジは、バーボンを一気にあおり立ち上がるとカンカン帽を頭に乗せた。
「じゃあ、また来るよ。ここに来ると元気がもどる」
「人類を救う良い方法でも思いついたのか?」
「いや、良いアイデアが出る気がしてきたんだ」
「エイジ、もう帰るのか」
少年が名残惜しそうに言う。
「またな」
「今度、エイジが来るときまで、ずっとうまくなっているからな!」
少年の言葉に片手をあげ答えるとエイジはドアを押した。
《おわり》