02 そんなことより空が綺麗。
そんなわけで偵察行動そのものは、<通路>出現当初から行われていたが、対策としての偵察行動が決まったのは、2日も経った頃。
これがアメリカなら翌日には対策を取っていただろうなあと思いつつも、百里基地中部航空方面隊第七航空団・第305飛行隊のイーグル・ドライバー、鷲巣玲音二等空尉は、愛機F-15Jのコクピットで機体の最終チェックを行っていた。
今年27歳になる、飛行時間も長いベテランの域に入りつつある自分だが、それでも空を飛ぶ直前のこのドキドキ感は未だ色褪せることはない。
親はいい加減、身を固めろと言っているが、何というか
「イーグル以上のいい男なんてこの世に存在しないよね」
という気持ちのほうが勝って、そちらに全く興味が湧かない。
仕事が恋人というのはよく聞くが、自分の恋人はパイロットならぬ戦闘機だ。
同じイーグル・ドライバーやアグレッサーの面々、渋いファントム・ライダーや職人気質の多いF-2チャーマーなら、「まあいいかな?」と思わないでもない男はいるが、さりとて付き合う、結婚するまで行くとなると、今の自分を振り返って、
「いや、妻子より飛行機のほうが大事だとか言い出しかねないしなー」
なんてことを考えると、二の足を踏んでしまうのも仕方のないところだろう。
というか自分なら言う。
そんなことを考えていると、管制塔から入電。
『おーい、“ピクシー”、飛べるかー?』
「はいはーい、こちらピクシー、いつでもー」
ちなみに彼女のイーグルは、そのTACネームにちなんで片翼が赤く塗られている……わけではない。
やろうとしたら元ネタ知ってる連中が総出で、
「お前に片羽の妖精が務まるかー!」
と猛反発食らったのだ。
ちなみにTACネームにも猛反発だったが、それを予想していた玲音は、こっそりと上司に申請してこの名前を通してしまった。
TACネームは伝統的に先輩から付けられたりすることが多い。
「マーヴェリックがいいです」
と言っても笑顔で却下されるのが事実。
名前負けしていては駄目というのがその理由らしい。
幸いなことにその上司は元ネタを知らなかったので、不思議そうな顔をしながらも了承。
あとは書類にTACネームが記載されてしまえば、もうこっちのもの。
当然、「やり直しを要求する!」と血涙流して先輩同輩から文句を言われたが、こういうのは言ったもん勝ちである。
既成事実さえ作ってしまえば、片翼を赤く塗ることもできると思ったのに、整備班までもが、先輩とスクラム組んで、自腹の赤ペンキのバケツを持った玲音を阻止妨害。
夢は泡と消えた。
そんな苦い思い出を反芻しつつも、再度計器類とベルトをチェック。
問題なし。
ふう、と息を吐いて、口調を仕事モードに切り替える。
「百里タワー。コンディション・オールグリーン」
『了解。ワイバーン1、エンジン始動せよ』
「了解」
JFSスタータ・ハンドルを引くと、作動油が圧縮されて流れ出し、READYライトが点灯。
消化系統のテストを手早く終えて、フィンガー・リフト・アップ。スロットルにあるレバーを持ち上げる。右エンジンが始動。
スロットルをアイドルに。
燃焼室に燃料が送られ、イグニッションが作動。
ライト・オフ(着火)。
たくましい唸り声と共に回転数が上がっていく。
起動に問題がないことを確認。続いて左エンジンも同様の手順で点火。
格納庫内に轟音が響き渡る。
整備班が、問題ないことを合図。
それに返答すると、ギアを抑えていたチョーク(車輪止め)を外し、F-15はゆっくりと滑走路に向けてタキシングを開始する。
滑走路手前で停止。
時刻は12時47分。
梅雨の切れ間の、晴れやかな天気だった。
ただ、風はある。
「ワイバーン、チェックイン」
『百里タワー、ワイバーン・フライト、リクエスト・タクシー』
背後をちらりと振り返れば、僚機も同じように待機している。
ひらひらと手を振ると、律儀な敬礼が返ってくる。
『ワイバーン・フライト、タクシー・トゥ・ランウェイ04』
指示の通りに4番滑走路に進入。
“例のアレ”が東京上空に出現した結果のひとつとして、羽田・成田空港に進入する便の激減があった。
誰も怖がって入らなくなってきたのだ。
そのためか、民間機の離陸までさんざっぱら待たされることが少なくなった。これは良いことだ。自分にとっては。
まあ時間の問題だろう。
アレが何なのかは未だ不明だが、何もないとなれば観光名所くらいにはなるかもしれない。
そんなことを呑気に考えつつ、離陸位置に着く。
「ワイバーン1、イントゥ・ポジション」
『ツー』
『ワイバーン1、クリア・フォー・テイクオフ。ウインド、スリーツーゼロ・ディグリーズ・アット・ワンファイブノッツ』
「ワイバーン1、テイク・オフ」
『ツー、テイク・オフ』
シグナル・グリーン。
アフター・バーナーに点火。
ブレーキから手を離して、左手をスロットルに。
ぐっと力を籠め、
一気に押し込む。
ガタガタと地面の凹凸を伝えながら、走り出す機体。
滑走路の表示が飛ぶように流れ、やがて線のようにしか見えなくなる。
ふ、と。
音が消える。
機体を揺るがす無粋な振動も消えて、
躰が、軽くなる。
キャノピィから地上が消えた。
待っているのは、青い空。
どこまでも続く、青い空だ。
アフター・バーナーの尾を曳きながら――
しかし、このフライトが彼女の運命を大きく揺さぶることになるとは、鷲巣玲音を含めた誰もが予想し得なかった。