7.予測不可能な数式
主人公渡良瀬浬視点。
「おい、中にすっげぇ美人がいる」
興奮気味にバックヤードに戻って来たクラスメイトに、周囲の奴等が湧いた。
ここはやはり年頃の男子高校生。異性の存在は大いに気になるところ。
無論、ここの店のコンセプトもあわよくば彼女を作りたい、可愛い女の子とお近づきになりたいという下心から出たものだった。盛り上がる男どもにクラスの半分を占める女子たちはよくもゴーサインを出したと思わずにはいられない。
「え、何、マジ? 何処の席?」
手の空いていた奴も空いていない奴も早速食いついた。
「五番テーブル」
「一人?」
「そう」
五番テーブル。窓際の席だ。確か、念のためリザーブ扱いで空けていた場所。廊下に並ぶ列の長さを見て、解禁にしたということだろうか。
朝からいい加減、慣れないことをして疲労感は極限に達していた。肉体的にと言うよりも圧倒的に精神的な意味合いで。これは苦行以外の何物でもない。初対面の見ず知らずの相手にニコニコとただでさえ苦手な愛想笑いをし続けるのだから。顔の筋肉が痙攣しそうだ。
やたらとテンションの高い客達。キンキンと響く声に媚を売るような目線。それを優雅に流して……って、そんな芸当を俺に強要する方が間違ってるだろ。
こっちの機嫌の急降下とは裏腹に他の奴等はやけに楽しそうだ。いや、張り切っていると言った方がいいだろうか。好みに合致する子が現れると皆噂話をし、隠れて野次を送った。一体どこの中学生男子だ。 暖簾一枚隔てただけでは筒抜けもいいところなのでボリュームはそれこそ気をつけなければならないが、よくもまぁ飽きないことだ。
俺は好い加減うんざりとしたように暖簾越しに様子を覗いている集団を振り返った。
「注文は?」
半ば不機嫌を隠さずに低く問えば、注文を取って来た奴は、ギクリと肩を揺らしてから慌ててオーダーを告げた。
「あ、ああ、カフェ・オレ、ホットのな」
「了解」
カフェ・オレか。
カフェ・オレが好きな人を一人知っている。優しくて温かくて穏やかな人。綺麗に微笑むあの人の笑顔を思い出すだけで、自然に口元が緩んでくる。
後十五分でここのシフトが終わる。それからは待ちに待った約束の時間だ。何事にも控えめなあの人が、自分の良く知る空間に来てくれるのだ。それだけを頼みにこの苦行を耐え抜いてきた。
招待状を渡す時は、柄にもなく手が震えた。でも、次の瞬間、こちらの緊張をあの人はいとも簡単に解してくれた。
穏やかな微笑み一つで。
あの柔らかい空気は癖になる。ささくれ立った気持ちを凪ぎに変えてくれる。
もう少しの辛抱だ。あと少しであの人に会える。優しい微笑みを湛えた自分史上最高に美しい人を思い描いて、底辺に落ち込んだ気分を引き上げた。
そこからは、もう妄想のままに脳内シュミレーションが続いてゆく。
逢ったら、真っ先に抱きつこう。サユルさん補給をたっぷりしなくては。あの人はきっと『どうしたの?』って少し呆れたように苦笑しながらそっと抱きしめ返してくれる。
顎辺りで切りそろえられた真っ直ぐな黒髪に映えるのは、剥き出しになった白い首筋だ。そこから仄かに香るいい匂いを吸いこんで……って思考がいつになく変態くさくなっていはしないか。
いや、でも確実に、このすり減った精神は、あの人に会うだけで復活できる。癒しの効果は絶大なのだ。それが自分限定でないのがどうにも癪だが。
いつかあの人に美味しいと言って貰いたくて、これを機にカフェ・オレの淹れ方を勉強した。
温めたミルクにコーヒーを注いで、匂い立つふくよかな香りに脳内妄想を炸裂させているとクラスメイト達の話が耳に入ってきた。
「なんつうか、和風な美人だよな。清楚っての?」
「そうそう、着物なんか似合いそう」
「ああ。でも、なんか色気があるよな。こう醸し出すものっての?」
「品があって、と同時に大人のエロさがある。あれはヤバイ」
あああ、自分の知るあの人もまさにそんな感じなのだ。清潔感があるのに、何処となく艶めかしさがあるなんて、一体全体どういうことなのだろう。あれが年上の、大人の女性の色香というものなのだろうか。
脳内のサユルさんは、今や着物姿で藺草の香り立つ和室に寛いでいた。縁側で膝枕をしてもらいながら、そっと上を見上げると、いつかのように襟元をゆったりとさせた着方で、『本来、着物は楽なものなのよ』なんて微笑んでいる。『苦しくねぇの?』、つい気になって、細い腰に巻かれた帯につと手が伸びれば、『そうならないように加減してるから、平気。それに締め付けられるのは案外気持ちがいいものよ』なんて言って自由に彷徨おうとする俺の手を上から軽く押さえ付けるのだ。『こら。おイタはいけません』って困ったように微笑みながら口にして…………うぁぁ、これ以上は不味い。禁断の世界だ。確実に鼻血が出る。
あの匂い立つような色気は、確実に午前中から応対してきた客達にはないものだ。
俺は堪らない気分になった。
今すぐあの人に会いたい。
とうとう禁断症状が出てきたか。
「それに……なんか、いい匂いがした」
注文を取って来た奴の呟きに皆が一斉に反応した。
「え? どんな?」
「柔らかい……お香ってやつ? よくわかんねぇけど、どぎつい香水とかじゃなくてさ、近くに来てふわりって分かるようなの」
「うぉー、マジか」
何を想像したのか悶えるような唸り声がする。
いや、その気持ちは分からなくはないが。同じ男としては。
俺が思い描くあの人も、そんな感じだった。
抱きしめるような距離で漸く分かる匂いなのだ。白檀って言ってたか。寺の線香なんかと同じだなんてあの人は笑っていたけれど、昔の衣に焚き染める香みたいに甘さの残る、それでいてしつこくない清涼感のある、個人的には好きな匂いだ。
何でもクローゼットに匂い袋を入れているらしくて移り香だなんて言っていた。
あの白い項に顔を埋めたい。くすぐったいってあの人は肩を震わせるだろうけれど、その柔らかい温かな肌を舐めて、キスしたい。
エスカレートしてゆく脳内では、外野の反応が一々あの人へと変換されてゆく。
「綺麗なおねぇさんは好きですか」
大分前にCMでそんな文句があった。
「永遠の憧れのテーマだな」
心中で相槌を打つ。
「幾つぐらいだろ」
「二十代? 前半? いや、後半?」
カフェ・オレを淹れ終えた俺の意識は噂話に向いていた。
客に渡すための用意をしつつ屋内を見渡せば、休憩に行っていたはずの英がいつの間にかバックヤードに戻っていて、少し離れた所から壁に寄りかかって、クラスメイト達を遠目に見ていた。
腕組みをしている顔は何故かニヤついている。先ほどまでは自分と同じように精神的に疲労困憊で気分は低空飛行だったのに、何故だ。
目が合うと何かを企んでいるような顔をして英が口の端を吊り上げた。
嫌な予感がする。
「浬。お前、それ持ってけ」
偉そうな口ぶりに思わず顔を顰めれば、
「いいから、四の五の言わずにとっとと行け。それで最後だろ?」
人使いの荒い友人は、有無を言わせない迫力のある笑みを張り付けて言い放った。
英にはサユルさんが来ることを言ってあった。それでシフトを調整してもらった手前、強く出られないのが痛いところだ。仮にも便宜を図ってもらったのだ。機嫌を損ねて午後からの一時を不意にされては堪らない。
俺は諦めて小さく溜息を吐いた。
「了解。テーブルは?」
「五番」
小さかった声の筈なのに、その番号が口にされた時点で皆が一斉に振り返った。
ああ、そうか。これは、どうやら件の噂の人物の注文だったという訳だ。
「あー、誰か代わりに持ってくやつ、いる?」
急に静かになったバックヤードに自分の声がやけに響いた。
個人的には興味がないので別にどうでもいいのだ。俺的には脇目を振っている余裕なんてないんだから。俺には、あの人しか見えていない。
同じギャルソンの衣装に身を包んだ奴等を見渡せば、皆、口を引き攣らせながらブンブンと首を横に振った。
視線の先を辿れば、英の顔。そこから漏れてくる黒い何かに気が付いて盛大に溜息をついた。
どうやらアイツは何が何でも俺に行かせたいらしい。
「分かったよ。行けばいいんだろ」
「ん。序に俺も挨拶してくる」
その台詞に足を止めた。
「何? お前の知り合い?」
だが、英は俺の疑問を全く気にすることなく、さっさと一人、先に暖簾を潜った。
足取りがいつになく軽い。やたらと上機嫌の様子を訝しく思いながらも、俺は漸く慣れてきた手つきで、淹れたてカフェ・オレをお盆に載せると、最後の任務を果たすべく、背筋を伸ばしたのだった。
主人公の目には、きっと色々、フィルターが掛かってます。