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35.野分のあした1)

揺らぐ女心。


 声を掛けようとして、その隣にもう一人似たような制服姿の子がいることに気が付いた。

 大通りを挟んで向こう側、二人並んで歩く姿は、どこから見ても自然で似つかわしいもので、途中まで出かかった音を溜息に変えてから、そっと飲み込んだ。


 女の子の方が顔を上げる。嬉しそうに目を輝かせて。

 白い歯を覗かせて、体一杯に楽しさを振りまいている。

 長い髪がさらりと風に靡いて、頬に掛かったそれを掻き上げた。


 どう逆立ちしても無理なことは、この世の中には沢山ある。

 巻き戻すことの出来ない時間に、ひょっとしたら間違っているのではないかとの疑問が、不意に頭の片隅を過った。


 やはりあの位の年頃には、あのような構図が自然なのだろう。

 胸を突くのは、ごく小さな鈍い痛みだ。それに気がつかない振りをして、誤魔化すように微笑んでみた。

 さらりと流してしまおう。それこそ水のように。嫉妬という程ではないけれども、もやもやとした言葉にはならない醜い感情には囚われたくない。

 あくまでも綺麗事だとしても、そうありたいと思っていた。


「いいですねぇ。制服デート」

 しみじみと漏れた呟きに、反射的に隣を振り向いた。

 偶々、会社を出た時に一緒になり、それなら駅までということで帰路を共にしていた職場の後輩も、どうやら同じ方角を見ていたようだ。

「高校生に戻りたい?」

「あの頃が、人生で一番楽しかったですからね」


 その子は前を見ながら懐かしそうに目を細めた。

 緩くカールされた髪の合間から、艶々とした下唇が弧を描く。

 彼女の目には、当時の記憶が映写機の如く現実の光景に重なって映し出されているのかも知れない。

 前方を歩く少女とは違う制服を身に纏って、小さく振り返った横顔には、きっと今のような化粧の跡はない。


 その軌道に齟齬が生じるのを待って、私は相槌を打っていた。

「確かに、そうかもしれないわね」

 あの頃、未来はそれなりに明るくて、まだまだ希望に満ちていた。

 他愛もないことで大騒ぎをし、笑い転げる。たとえ嫌なことがあったとしても、家に帰って寝てしまえば、翌朝には忘れることが出来た。当時はそんなことを思いもしなかったというのに。


「橘さんもああいう風にデートしたりしましたか? 学校帰りに。制服で」

 懐古から来る優しい微笑みを口元に残したまま、同僚が茶目っ気たっぷりに振り返った。

 流れからくれば自然だが、突然向けられた矛先に少々戸惑いを隠せない。

「私には……縁がなかったから」

「本当ですか?」

 その答えにマスカラが黒々と重ねられた一重の目が大きく見開かれた。

 いつになく大げさな反応に小さく笑いを零す。

 そう言えば、こういう話を会社ではしたことがなかった。


 当時の自分を頭の片隅に思い描きながら、私は口を開いた。

「女子高でしたしね」

「そうなんですか? でも吃驚ですよ。あ、女子高っていうのは雰囲気にあってると思いますけれど」

「そう?」

「はい。でも女子高でもそういうのって無かったですか。私にも女子高に通っていた友達がいましたけれど、その子には普通に彼氏がいましたから。橘さんみたいな人なら、てっきり色々あったんじゃないかと思ったんですけれど……」

「色々って……どういう意味かしら?」

「そのままの意味ですよ。さぞかし楽しい日々を送っていたのではという勘ぐりですかね」 

 妙な期待に満ちた声音に可笑しさを禁じ得ない。

「ふふふ。残念だけれども。私にはそういう浮いた話っていうのはなかったわね。全く」

「ええ? それは何……というか、意外です」

 恋などとは無縁だった。それなりに憧れはあったけれども、渇望は無く、友人たちと過ごす毎日で十分だった。

「―――ということで、私の話はおしまい」

 パチパチと目を瞬かせる彼女を余所に、私は穏やかな微笑みを浮かべながら、自分の話題を強制終了させた。

「黒木さんはどうだったの?」

 そして流れるように話を別の軌道に乗せる。

 お互い大人同士、ささやかな変化を嗅ぎ取った彼女は、素直にそれに乗って来た。

「懐かしいですね」

 ただ、一言。それだけで十分だった。


「それにしても、あの男の子の方、何かカッコ良くないですか。雰囲気があるっていうか」

 道路の反対側、交差点で同じように赤信号で立ち止った二人組を横目に見ながら、彼女は再び話を引き伸ばしていた。

「ああいうのが好み?」

 無難にそう尋ねると、隣からはくすぐったそうな小さな笑いが漏れた。

「あくまでも観賞用として、ですかねぇ。流石に高校生と付き合うっていうのはちょっと。というよりは相手にされないですよ」

 地味に痛い所を突かれた気がした。

 私は誤魔化すように愛想笑いを返す。

「ただ、将来が楽しみな感じですよね。きっと、大人になったらいい男になりそう。スーツが似合うインテリ系」

 流石に目の付けどころが違う。彼女の許容範囲はスーツを着た男なのだろうか。

「青田買いみたいね」

 どこぞの芸能事務所に所属するタレントの追っかけをしている女性たちの心理のようなものか。

「そんなあからさまではないですよ。多分」

「ふふふ。あんまりそんなこと言ってると彼氏に怒られるわよ?」

 人懐っこい笑顔を浮かべる彼女は、さっぱりとした所のある気持ちのよい子だった。

「アハハハ、残念ながら今、フリーなんです」

「あら、そうなの?」

「はい。ですから恋人絶賛募集中です」

 そう言って茶目っ気たっぷりに微笑む彼女は、可愛らしかった。

「橘さんはいますよね、彼氏」

 同じように問われて、私は少し首を捻った。

「どうかしら……」

「またまたぁ」


 大切な人はいますか。

 そう問われて、思い浮かぶ顔は一つある。

 だが、これまで、そこに横たわる関係を言葉で明確に定義付けたことはなかった。

 恋人というのとは違うだろう。友人というのとも少し違う。知り合い。顔見知り。

 なんだか、しっくりこない。


 好きかと問われれば、好きだと胸を張って答えられる。

 ただ、その成分を分析したことはない。

 親愛の情。愛しさ。

 それは、おそらく肉親に対するものに近いかもしれない。


「彼氏……というのとは違うかしらね」

「じゃぁ、質問を変えて。気になる人、もしくは、好きな人はいますか?」

「なんだか事情聴取みたい」

「だって気になりますもん。橘さんのこういう話って会社でも全く聞こえてきませんよね。みんな密かに気になってるんですよ」

「そうなの? 私のことなんか気にすることないのに」

 初めて耳にする事実に、私は苦笑をするしかない。

 ここで本当のことを明かしたら、それは噂としてすぐに広まってしまうのだろうか。

 それは困る。甚だ。

「社内でも橘さんファンは多いんですよ。狙ってる人だって絶対いますから」

 小さく拳を握りしめて力説をした彼女は、妙に気合いが入っていた。

「なんだか話が大きくなってない?」

「もう、そういう控えめな所も橘さんらしいですね」

「そんなことないわよ」


 私も多分に漏れず、女としての狡賢さや打算的な一面を持っている。

 周囲の認識と本当の私は随分と違う。

 率先して猫を被っているという自覚はないが、多かれ少なかれ、他人との衝突を嫌う八方美人的な部分があり、素の自分を隠している。

 だが、それは会社での人間関係としては当然のことだ。


「で、実際のところ、どうなんですか?」

 うまい具合に話が逸れたと思ったのだが、再び元の位置に戻ってきてしまった。中々に侮れない。

「忘れてくれてもよかったのに……」

「そういう訳にはいきませんよ、折角のチャンスですもの」

 意気込む彼女に私は小さく肩を竦めた。

「仕方無いわね。好きな人…というのかしら、気になる人……はいます」

「社内ですか?」

 途端に開いた瞳孔に、この子が社内でも情報通であると言われていることを思い出した。

 やはり余り迂闊なことは口には出来ない。口は災いのもとである。

「違いますよ。職場恋愛はパス」


 毎日顔を会わせる狭い空間で、恋愛ごとのいざこざは御免だ。上手くいっている間はよいが、関係が悪化した時には苦労をすることが目に見えている。縺れた人間関係と対人感情を仕事場に持ち込みたくはない。私には無理だ。


「そうなんですかぁ……」

 随分と様々な感情を含んだ声音で彼女が相槌を打った。

「ご期待に添えたかしら?」

「ついでにもう一つ聞いてもいいですか?」

「答えられる範囲でね」

「橘さんのタイプってどんな感じなんですか?」


 これはまた難しい質問だ。

「そうねぇ……」

 きっと私の答えから、今気になると聞いた人物像を描き出そうという魂胆なのだろう。

「具体的に言うのは難しいかしら」

 ちょっと逃げてみた。

「芸能人で言ったら?」

 余計に私は首を傾げる羽目になった。


 昔から余りドラマを見る習慣はなかった。その所為か、特別好きな俳優というのはいたことがないし、芸能人を相手に妄想を繰り広げるなんてこともしたことはない。

 が、まぁ個人的に好きで、その人が出ていると結構見てしまうという俳優がいるので、苦渋の選択として、その名前を二三上げてみた。

 すると案の定、彼女は何とも言えないような複雑な顔をした。

「橘さんって……おじさま好きなんですか?」

「そういう訳でもないと思うんだけど」

 好きな俳優と実際に恋愛対象になり得る好ましい人物というのは、また別の話だ。

 第一、次元が違うだろう。


「もしかして、その気になる人って言うのも随分と年上なんですか?」

 そこから導き出された安易な方程式に、私は可笑しくなって笑いを零した。

「そうだとしたら?」

「え? 本当ですか?」

 真顔になって詰め寄られる。

 簡単に引っ掛かったことに思わず噴き出した。

「冗談、冗談。残念ながら違うわよ」

「あー、吃驚した。って言っても、それが本当でもきっと違和感がなかったと思いますよ。うん。ほら高級スーツをさらりと着こなす素敵なおじさまも捨てがたいですものね」

「あら、黒木さんはそういうのがタイプなの?」

 その最後の一言で彼女の許容範囲がまたまた広がった。意外な一面が覗く。

 自然とお互いに顔を見交わして、笑いを零し合った。




 そんなこんなで気が付くと駅に辿り着いていた。

 帰宅ラッシュの時間と相まってか、駅構内は一段と混み合っていた。彼女とは路線が違うので、改札を潜ったらお別れだ。

 券売機でチャージをしてくると言った同僚を見送って、ジャケットのポケットから定期券の入ったパスケースを取り出した所で、不意に聞き覚えのある声がした。


「沙由流さん」

 改札前の太い柱の傍に、知った顔が体を凭れさせていた。

「……浬クン」

 体を起こすと癖のない黒髪がサラリと揺れる。

 その隙間から涼しげな目元が、穏やかにこちらを見ていた。

「今、仕事帰り?」

「ええ」

 微笑んで、肩の上、少しずり下がった鞄の位置を直す。

「お疲れ様」

 いつしか大人顔負けの台詞を口にするようになった。


 この時間帯に会うのは珍しい。

「キミは随分遅かったのね」

「ん。部活の後、ミーティングがあったから」

 視線を彷徨わせて、先ほどまで一緒にいたはずの人物を無意識に探す。

「どうかした?」

「ううん。なんでもない。キミ、一人なの?」

「うん。沙由流さん、見かけたから、待ってた。一緒に帰ろうかと思ってさ」

 そう言って浬は、口角をくいと吊り上げた。


 さっきの今で、タイミングが良過ぎた。

 どうしてこの子は、嬉しいことを言ってくれるのだろう。


 それにしても、先程まで一緒にいた女の子はどうしたのだろうか。女の子の方は明らかに浬を好ましく思っているようだった。折角の一緒に帰宅するチャンスを無駄にはしたくないだろうに。

「あの女の子はどうしたの?」

 思わず口を突いて出たその一言に、浬はじっとこちらを見た。

 探るような眼差しと出会う。

「先に帰った」

 鋭いきらいのある目をすっと細め、

「なんだ。気が付いてたんなら、声掛けてくれればよかったのに」

 拗ねたように言う。

 どうやら自分から墓穴を掘ってしまったようだ。

「そういう訳にもいかないでしょ」

「変なとこで遠慮するんだから」


「橘さん、お待たせしました……って、あ!」

 私の傍にいた浬を見て、戻ってきた同僚が声を上げた。

 小さく驚きの表情をその顔に浮かべている。

 内心、しまったと思う。

 私と彼女の話は、元はと言えば、浬達を見かけたことがきっかけだった。

 そこから恋人談議に発展して、ああでもないこうでもないとの噂話にかこつけた。

 何も知らない浬は、私たちの話題に上っていたなどとは思い寄らないだろう。

 彼女も彼女で話の魚にした人物が、まさか私と繋がりがあるとは思ってもみなかったに違いない。

 私もそこは敢えて触れなかったことであるし。

 今、ここで浬を引き合わせるのは何とも気まずかった。

「どうかしたんですか?」

 好奇心に満ちた眼差しで、彼女は浬を見上げている。

 仕方がない。居なかったことにする訳にはいかないようだ。

 誤魔化すように私は微笑みを浮かべた。

「ちょうど知り合いの子に会ってね」

 ちらりと学生服を着た長身を横目に見てから、正直に白状すると、浬が隣で小さく頭を下げた。

 彼女は尚もキラキラとした眼差しで浬を見上げている。その瞳はとても雄弁だ。彼女の顔にはありありと言いたいことが書かれている。

『こんなカッコいい子と知り合いだったなんて水臭いですね。紹介して下さいよ』

 高校生は範囲外だったのではないだろうか。

 浬の方は顔にはあまり出ていないが、強すぎる視線に居心地の悪さを感じているのだろう。肩に掛けた鞄を持ち直すように身じろいだのが空気で分かった。

 “Target Lock on.” 

 やはり今の時代。女の子のパワーは凄い。“肉食女子”なんて物騒な言葉が出てくるくらいだ。

 社会に出ることが当たり前になって、比較的大人しくなってゆく若い男の子達とは違い、女の子達の間には精神的にも攻めの姿勢が広まって来ている。

「そうだったんですかぁ」

 含みのありそうな声音に内心焦りを覚えた。


「それじゃぁ、ここで。黒木さん、また来週。お疲れ様でした」

 こちらを見ている浬に、素早く目くばせをして、私は改札を潜り抜けた。

「え? 橘さん?」

「気を付けてね。私はこっちだから」

 少し強引に線引きをして、私は顔に微笑みを張り付けたまま、彼女に手を振った。

「お疲れさまでした」

 苦笑いをする彼女の顔が、視界の隅に映っていた。


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