32.Lost in Wild Turkey2)
「ねぇ、沙由流」
「何?」
食事を終えて、片付けの為に席を立ったアラタが、窓の外を指していた。
「あの子たち、何かこっちを見てるようだけど、知り合い?」
「私じゃなくて、アラタさんとマスターを見てたんじゃないの?」
珍しいことにこの店の二枚看板がこの傍で休憩をしていたのだ。
大きく窓が切り取られたこの一角は、外からもいい具合に丸見えで、休憩と称して、いつになく寛いだ表情をしていた二人は、身内びいきを抜きにしても、傍目には思いがけない程のいい絵となって映るだろう。だから、窓の外で女の子達が噂をしていても、そういう場面を見慣れている私としては、別段、不思議はなかった。
そう思って振り返ったのだが、アラタが指し示す先にいたのは一固まりの男女混合のグループだった。
女の子の方の服装に見覚えがあった。明るい色の花柄のワンピース。ここに来る前に駅前のロータリーで楽しそうにお喋りに興じていた一団に違いない。
小さな路地を挟んで、向こう側、ふわふわの黄色いスカートが風に揺れている。
「あの女の子達? 二人を見てたんじゃないの?」
こちら側を向いていた女の子達は、中を指差すようにして騒いでいるようだった。
外部の音は全く聞こえないが、雰囲気からそんな感じであることが見て取れた。ここでは、よくある光景の一つにすぎない。そう思って、隣を見たのだが、アラタは別の方向を見ていた。
目があうと、軽く顎をしゃくってみせる。
「ん?」
「違う。そっちじゃなくて。あっち」
どうやら私はアラタとは違う方向を見ていたようだ。
同じ方向を指し示されて、目に留まるものは、やはり人それぞれ違う。それは個人差なのか。性差なのかはよく分からない。
ぐいと頭を掴むように方向調整をされて、視界に入って来たものに、私は目を見開いた。
同じようにガラス越しで、傍目には分かりずらいが、驚きの表情を浮かべて立っていたのは、何と今しがたまで話題に上っていた張本人だった。
噂をすれば何とやら。実にタイミングが良過ぎる。
時が止まったかのように感じたのも束の間、次の瞬間には、私はその子に向かって微笑んでいた。
別に何も後ろめたいことなど無い。あの子は今日用事があると言っていた。だから私は久しぶりに一人で買い物に出かけて。
偶々、外で顔を合わせたということに過ぎないのだ。
小さく手を振ると、あの子はハッとしたように我に返って、すぐさま、いつもの無表情に戻ると、口を開いた。
『何してんの?』
小さく開いた口がそう言葉を形作っているように見えた。
そう言い掛けて、離れている距離に気が付いたのか、ポケットをごそごそと漁った。
何をする気なのだろう。
「知り合い?」
隣に立っていたアラタに頷いて見せる。
と椅子の上に置かれた鞄から小さな電子音が鳴り響いた。
シンプルで何の変哲もない面白みに欠けるアラーム音は、私の携帯だ。私は、半ばギョッとして携帯を取り出し、画面で掛けてきた相手を確認すると通話ボタンを押した。
「はい」
『やっぱり、沙由流さんだったんだ』
道を挟んだ向こう側、ガラス越しに、小さく見える人物が携帯を片手に、こちらに向かって微笑んでいた。
「どうしたの?」
『なにしてんの?』
疑問に疑問で返事が返ってくる。
「何って、お昼ごはん食べてたところよ」
相変わらずやや噛み合わない会話に苦笑をしつつ、私は店内の他のお客に迷惑にならない様に窓辺に移動した。
『ふーん』
「キミはお友達と一緒なんでしょ?」
「ああ、前のクラスの奴等とだけど」
新しい学年が始まる前の春休み。もうすぐあるクラス替え。別れてしまう友人達も多いだろう。名残を惜しむように皆で集まっているということなのだろうか。
「ひょっとして今日のこと、まだ気にしてるの?」
前回の渋い顔を思い出して、まさかとは思うことを一応、聞いてみる。
『んー、半々?』
益々訳が分からない。
『てか、さっきの人達、誰。随分親しそうだったけど』
二回目の変化球。
あの子は一体何がしたいのだか。こうなるとずれた問いは意図的であることが分かる。
「ん?」
『今もすぐ後ろにいるじゃん』
指摘されて視線だけで確認すると、マスターとアラタが興味深々といった具合に左右に仁王立ちしていた。
「マスター、アラタさん、ほら、仕事、仕事」
小声で慌てて二人にあっちへ行けと手を振るが、二人ともにやりと意地の悪い笑みを浮かべるだけだった。
その合間も電話口の小さなスピーカーからは、明瞭な声が聞こえる。
『すげぇ気になるんだけど』
あのねぇ。
「浬クン」
咳払いを一つして、声を低めれば、
『何ですか』
打てば響くように、こちらの些細な変化を感じ取って口調を改める。
「相手の質問にはちゃんと答えようね」
『勿論。で、オレの質問に対する答えは?』
だけれどもそれは単なるじゃれ合いに似て、我が道を行くこの子には効き目がないのだ。
慇懃無礼。いや、それをお遊びのロールプレイ的なものとしてやっている時点で、向こうがもう一枚も二枚も上手だ。私がそれを理解していることを承知なのだ。我儘路線継続中。
どうやら折れるのは、私の方らしい。
私は仕方がないとばかりに顔を上げた。
「後ろで背後霊みたいになってるのは、ここのカフェのマスターとギャルソン。ここは、もう随分前から顔を出してる、要するに馴染みのお店なのよ。だからマスターともスタッフさんともそれなりに知り合いな訳。You got it?(分かった?)」
『ふーん』
浬は、随分、勿体ぶったような間を開けて、懐疑的さえするようなトーンで返事をした。
ここからではその表情はよく見えないが、きっと片方の眉を器用に跳ねあげているのではなかろうかと思われる。
「それで、キミはどうしたの?」
後ろから忍び笑いが聞こえる。私がいいようにあしらわれているのが、さぞかし可笑しいのだろう。
噛み殺している積りでも、近すぎてバレバレだ。
肘で応戦して、業とらしく笑顔を作れば、いよいよ堪え切れないような爆笑に変わった。
『…【い、浬、どうすんだ…よ】………あ、わりぃ、先に行ってて。…【分かった】……』
こちら同様、向こうも大分混線してきたようだ。このままでは埒が明かない。
「浬クン? 何も無いなら切るわよ?」
『あ、待って、沙由流さん』
少し慌てた声がした。
『今から、時間、空いてる?』
「まぁ、空いてると言えば、空いてるけど……」
今日はぶらりと買い物をする予定で、先に食事をとることにしたので、本来の目的はまだ果たしていないが、別に今日どうしてもすぐ必要なものというのはなかった。
元々行き当たりばったり、計画なんて無かった。
『本当? じゃぁさ、オレに付き合わない? 今からボーリングに行くんだけど、一人メンバーが足りなくて困ってたんだ。沙由流さん、やらない?』
「はい?」
いきなりの話の展開に私は耳を疑った。聞き間違いだろうか。
『だから、ボーリング。今からそっち行くから、用意して待ってて』
「あ、ちょっと。待っ……浬クン?」
弾む語尾に気取られて、固まったままの私の耳元では、ツーツーという電話が切れた音が虚しくもこだましていた。
私は呆気に取られつつも日頃の習慣からか、切れた電話に殊更ゆっくりと携帯のフリップを閉じた。
「何だって?」
実に楽しそうな含み笑いで、アラタが横から見下ろしていた。
「今からここに来るって」
対する私は気の抜けたような声だ。
「ボーリングするんだって」
「だそうだよ」
アラタが愉快げに振り返ると、カウンターの中で、火の付いていない煙草を銜えたまま、マスターはグラスを磨いていた手をちょっと止めた。
「それが、例の高校生なんだろ?」
にやりと目を細めて口の端を吊り上げる。相変わらずの勘の鋭さに私は内心冷汗をかいた。
「若さだねぇ。ホント」
しみじみと感心する風にアラタが口にしたかと思うと満面の笑みを浮かべた。
嫌な予感がする。これは何かを企んでいる時の顔だ。
「沙由流、心配はいらないよ。ちゃんと俺たちが見てあげるから。なぁ、睦月?」
「ああ、任せておけ」
小学生でもあるまいし。
似非兄達は過保護な兄貴ぶりを発揮し出した。
自分はそんなに頼りなく見えるのだろうか。
再び乗り気な二人を余所に、私は思い切り脱力して、空いていた椅子に腰を下ろしたのだった。
リーンと新たな来客を知らせるドアベルに続いて、良く知った人物が静かに入って来た。
スタンドカラーのベージュのジャケットにシンプルなグレーのニットの隙間から白のカットソーを覗かせている。下は濃紺に近いカーキのアーミーパンツにごつめな黒いブーツ。
背が高い所為か、スライドを効かせて歩く姿は、ゆったりとしているのに涼やかで、少し冷たいきらいのある顔立ちに静謐ながらも若々しい印象を与えていた。
こうやって改めて見ると、その子が身に纏う雰囲気は大人びている。マスターやアラタとはまた違った系統であることがよく分かる。
浬は店内を見渡して、すぐさまこちらを探し当てると、ゆっくりとした足取りで、真っ直ぐにこちらにやって来た。口元に薄らと微笑みを乗せている。
まさか、こんな形で、鉢合わせするとは思いもよらなかった。
「お待たせ。沙由流さん」
「浬クン。私はまだ返事をした訳ではないけど?」
一応の抵抗を試みる。
「このあと、別に用事ないんでしょ? それなら付き合ってよ」
「本気? キミたちにいきなり私が混じったら、白けるんじゃないの?」
「それは、平気。沙由流さんが行くこと言ってあるし」
「女の子達も一緒だったでしょ。彼女たちにもいい迷惑よ」
友達同士で気兼ねなく騒いでいる所にいきなり見ず知らずの人物が乱入したら、普通は場の雰囲気が変わってしまうだろう。
折角の連帯感に水を差すようなことはしたくなかった。
「大丈夫。一人足りないのは、女の子の方でさ。抜けたままだとどうしても人数的にバランスが悪いんだ」
「そこで何で私なのよ」
他の友人を呼べば来るのではないか。今時の子は携帯を肌身離さずに持っているのだろうし、偶々外に遊びに出ている子を捕まえるのなんて苦ではないのではないか。
そんなことを思ったのだが、浬はごく当然のように言い放った。
「何でって、俺の知り合いだから。その方が俺の都合がいいんだよね」
「キミの都合?」
「そう。このままだと俺はあぶれるわけ。俺としてはそれで別に構わないんだけど、外野はそうもいかなくてさ。変な気を使われるのは嫌だし。……ダメかな?」
先程とはうって変って殊勝になった態度に私は心を揺さぶられた。
立っていれば目線はずっと上の筈なのに、相手の反応を伺う様に私の鞄が置かれている椅子の背もたれに腰を屈めるようにして寄りかかってこちらを覗きこむ。
チラと上目づかいに見た後、すっと横に視線を流した。主人の反応を待つ、ちょっと捻くれた犬のような仕草に、私はクスリと小さな笑いを漏らした。
今、この子の全神経は私の次の一手に寄せられている。
期待と不安の比率は一体、どれ位の割合なのだろう。
「こんなこと頼めるのは沙由流さんだけだし……」
小さく漏れた呟き。それが決定打となった。
なんという威力だろう。紛れもなく今、形の見えない矢が胸に突き刺さったと思った。
世の中の乙女たちはそれに別の言葉を当てるのだろうけれど。私には無理だった。恥ずかしすぎるではないか。いい年をして。
【死語】の世界は、出来るならば覗きたくはない。
「分かった。いいわよ。でも、……今回だけだからね」
この子に対して甘くなってしまうのは、何故なのだろう。
そんな単純で初歩的な疑問に対する答えをその時の私は持ち得ていなかった。
母性本能を擽るのが本当に上手い子だ。そんな感想の所為にしていた。
「ホント? やった。ありがと!」
私の言葉に浬はパッと顔を輝かせて立ち上がった。
対する私は、その顔に苦笑を張り付けながらも、内実は満更でもない気がしているのだから。本当に性質が悪い。
会計を済ませるべく鞄からお財布を取り出す。
「マスター、ご馳走様。お会計お願いできる?」
平静を装って振り返れば、
「今日はいいよ。サービスだ」
ニヤニヤとしながらカウンターでマスターが嘯いた。
「御蔭で面白いものも見れたからね」
それに、アラタが性懲りもなく合いの手を入れる。
「悪いからいいわよ。ちゃんと払わせて」
親しき仲にも礼儀あり。それは私のけじめだ。
私は、野口氏を二枚抜き出すと、するりとカウンターに滑らせる。ランチとカフェ・オレ。それだけあれば足りるだろう。
「今度来た時、ケーキでもご馳走して。ねぇ、アラタさん?」
それならいいでしょうとばかりに微笑めば、先に肩を竦めたのは向こうだった。
「まぁ、いいかな。それじゃぁ、とびきり美味しいのを用意しておくよ。―――但し、そっちの子も連れておいで」
アラタはどこまでもアラタだった。
「仕方ねぇな。じゃぁ、次は、その坊主も連れてこい」
しくじったのは思ったのは私の気の所為だろうか。
二人の妙な好奇心を満たすための玩具になりかねない。そんな危惧を感じるのは、それなりの経験から鍛えられたセンサーが点滅しているからだ。
会計を済ませる私の背後で、浬は何やら二人から耳打ちされていた。きっと碌でもないことを吹き込んでいるに違いない。
「二人とも、余計なこと言わないでよ?」
恨めしげに見やれば、
「とんだ誤解だな」
「いやだなぁ、沙由流。男同士の友情に水を差す気かい?」
二人は似たような反応を示した。
胡散くさい笑みで言われても説得力がないのだが。
すぐ傍に立つ浬は、何とも複雑な色をその瞳に浮かべていた。
ああ、この先、あの二人のことを何と説明しようか。きっと追加情報が必要となるのだろう。先が思いやられる。
私はひっそりと額に手を当てた。
いいと言うのに、二人はご丁寧にもドアまで見送りに付いてきた。何処までも野次馬をする気満々なのだ。
マスターとアラタが動けば、中にいる女性客の視線も同じように引っ張られる。引力で変化する店内の気圧バランスは、接近する二つの大型台風と新たに発生した未知数の温帯性低気圧に挟まれる形で、刻々と揺らいでいた。
すぐ傍にいる私は、その影響の余波を少なからずも受けることになり、吹きすさぶ突風と嵐のような雨風にずぶ濡れの状態だ。
可笑しいやら、心苦しいやらで、何とも言えない気分だ。
「それじゃ、ご馳走様でした。また来るわね」
これで最後とばかりに微笑むと、
「次、楽しみに待ってるから」
アラタがニッコリと人好きのする最大限の笑みを浮かべる。
それは、とても迫力のある笑顔だった。余計な一言をやけに強調するのも忘れない。
「おう」
対するマスターもやたらと上機嫌だ。
「精々頑張れよ、少年」
パシンと小気味よい音がして、浬が少し顔を顰めた。
どうやらマスターが思いっきり腰のあたりを叩いたらしい。
「ってぇ…」
「大丈夫?」
「ハハハ。平気」
心中はともかく、傍目には和やかな笑いの内に、私たちはカフェを後にした。――――ということにしておこう。




