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31.Lost in Wild Turkey1)

少し時間を遡って、社会人としての沙由流の日常の一コマ。これより暫し少し長いお話になります。


 帰り際に次の週の予定を確認するのは、最早暗黙の了解事項となっていた。

 必ずしも毎週きっかりにと決まっている訳ではない。お互いの事情を最優先させること。それが、この勉強会を始めた時の取り決めのようなものだった。


 契約を交わすでもない。緩やかな楔。どちらか一方が終了を告げるまで、曖昧な時間の拘束は続くのだろう。

 だが、それは永遠ではない。いずれ終わりを迎えるその時まで。気まぐれで悪戯のような時間だ。


 であるから、来週は予定が入っていると告げられても、別段、なんの感慨も起こらなかった。

 ただ、習慣になり始めていた事柄が急に無くなって、当然の如く空いた時間をどうしようかと思案を巡らせる。

 それなのに用事があると告げた本人は、やけに具合の悪そうな顔をしていたものだから、私は可笑しくなってしまった。


「気にすることはないのよ。キミはキミの都合を優先させなさい。それが約束だったでしょう? どうしてそんなに申し訳なさそうな顔をするのよ?」

 苦笑気味に顔を覗きこめば、その子はちょっと頬を掻いてから小さく笑った。

「そうなんだけどさ。ここに来るのが、なんだか習慣になってたっていうか。オレは楽しみにしてるから……」

 嬉しいことを言う。

 それだけで、いい気分になるのだから、自分もお安いものだと思わずにはいられない。




 丸々一日開いた土曜日、私は久しぶりに買い物に出かけることにした。

 まだまだ肌寒い日はあるものの空気は途端に春めいてきて、早いところでは桜が花開き始めていた。


 新しい服を見に行きたくなった。新しい軽やかな色を一つでも身につければ、昨日までの冬の記憶は後ろへと追いやられる。一皮むけたような清々しい気持ちになるのは不思議だ。春らしいパステルカラーを目にするとやはり心が躍る。春という響きが、何か新しいモノへの予感を沢山秘めているのは、遺伝子の中に脈々と息づいている生命の息吹への賛歌だろうか。


 こういう時は、いい具合に力の抜けたお洒落を楽しみたいものだ。平日のようにスーツという名の戦闘服を脱ぎ捨てて、心身ともに寛げる服を身に纏う。春のやや冷たさの残る風に撓む布を体一杯に感じて、啓蟄の如くその息吹を全身に繋ぎとめるのだ。


 ストレートのデニムに膝上ぐらいのゆったりとしたワンピースを重ねる。

 素材はこの所気になっているリネン。木生りの穏やかな色合いが、ざっくりとした生地によく馴染んでいる。

 二十世紀初頭の貴婦人の下着のように白いコットンのペチコートのようなキャミソールを重ねて。少しだけくすんだ薄いさくら色のストールを首に巻きつける。

 手に持つのは、いつものお気に入りの革のバッグだ。ここ十年近く使い込んで飴色になった独特の柔らかさは、もう相棒の名に相応しい。

 私は、一つの気に入った物を長く使い続けるタイプだ。流行は一応、参考程度には気にする。それを取り入れるかいないかは自分のセンサーに引っかかるかに寄る。気が付くと選んでいるのは流行に左右されない、いつの時代にもあるような定番ものだった。その年によって若干の素材や形の変化は影響となって現われてはいるが、気になる程度でもない。

 最近の基本ワードローブは、めっきりベージュ、エクリュ、グレーのグラデーションになっていた。



 駅前は、多くの人で賑わっていた。

 時間帯はお昼を少し過ぎた辺り。暖かい午餐の日差しは汗ばむほどに強く、一年でこの時期が一番、紫外線が強いことを思い出させてくれる。


 ロータリーは人待ち顔で溢れていた。ランチの約束。映画の約束。デートの約束。

 頻りに時計を気にしている女の子。携帯とにらめっこをしている男の子。残りの友人たちを待って、お喋りに興じている集団。圧倒的に十代から二十代前半と思しき若い子達が多い。その間をゆったりとした足取りで歩いて行った。人間観察は密やかな楽しみでもある。


 今日はこのまま、あのカフェでランチを取ろうか。この所、無沙汰をしていたとあるカフェのマスターの髭面を思い浮かべて、知らず知らずに口元を緩める。

 その際、言い訳はなんとしよう。

 それなりに長い付き合いで、感の鋭い相手のことだ、きっと理由は想像の範囲内に収まってしまうのだろうけど。面と向って突きつけられて、それを認めざるを得ないのは少々癪だった。


 からかいを覚悟で久しぶりにそのカフェに向かうべく方向転換をすると、視界の隅に賑やかな集団が目に入った。

 高校生ぐらい、いや、大学生か、それとも社会人…な訳はないか。最近の若い子達を見ても実のところその線引きは自分でもよく分からなかった。はっきり言って見分けがつかないのだ。それは自分に見る目がないのか、最近の子たちが大人びて見えるのか、どちらなのかは分からない。恐らく、そのどっちでもあるのだろうけれど…。

 グループで固まっている所をみるとこれから集団で遊びにでも行くのだろう。合コンというやつか。それとも日頃から仲の良い友達繋がりのグループなのか。私は彼らを見ながら、そんなどうでもいいことに思考を巡らせていた。


 女の子達は皆、今時の雑誌から抜け出してきたような格好をしている。異性を惹きつけることを強烈に意識したワンピース姿が多い。春を先取りした明るい色使いに花柄をモチーフにしたふわふわと空気をはらんだスカート。少し気が早い気がしないでもないが、お洒落に気を使う年頃は、寒さなど気に病んではいられないのだ。


「あー、なんか緊張する」

「何言ってんの。バリバリ気合い入りまくりの癖に」

「アハハ、そっちこそ、人のこと言えんの?」

「でもさー、珍しいよね」

「そうそう。バスケ部の面子が参加なんて」

「確かに。幹事よくやったって感じ?」

「そうじゃなかったら来ないって」

「ホント、ホント」

「あんた達、正直過ぎ」

「だから今日こんなに参加率高いんだぁ」

「ねぇ、誰狙いなの?」

「そりゃぁ、勿論……でしょ」

「アハハハ」


 元気一杯、赤裸々ではしゃいだおしゃべりが聞こえてくる。

 その内容は、かなり身も蓋もない明け透けなものだ。

 成程、彼女たちが気合いを入れている理由が、なんとなくだが知れた。日頃気になっている相手となんとかお近づきになりたいと必死な所だろう。虎視眈々と獲物を狙う狩人(ハンター)。そんな図式が頭に浮かんで、最近は実に女の子の方が強いと妙な感慨に浸った。


 甲高い女の子特有の声。実は、こういうのは少し苦手だったりする。一人で立っている時はそうでもないのに、集団というのは妙な威圧感を出す。それが若さゆえのパワーなのかは分からないが、とにかく、近寄りがたいには違いなかった。

 あの子たちから見たら自分はきっと考えられないようなおばさんに思えてしまうのだろう。そんな自虐的なことを考えて、少し凹む。

 そう言えば、今日、勉強を見るはずだったあの子も、本当はあの位の世代なのだ。

 一緒にいるとついつい忘れてしまいそうになるのは、向こうが気を使っているという事なのだろうか。


 あの子の傍に同じくらいの若い女の子達が立つことを想像してみる。

 制服姿で寄り添って、楽しそうに顔を見交わす。

 それは、すごく自然で当たり前のことであるに違いないのに、何故か釈然としないような気持がどこかにあった。

 だが、それを敢えて追及しないことにした。


 気を取り直すように微笑んでみて、カフェがある路地を曲がった。

 後方で、先程の女の子達のグループが合流を果たしたのか、男の子達の声が混ざり合った。テノールからバスの重低音にソプラノからメゾソプラノの音域。先ほど耳にしたはずのアルトは鳴りを潜めている。

 見事な化けぶりに成程と感心をしつつ、新たに加わった男性諸君にほんの少しだけ同情をした。

 せいぜい頑張りたまえ。敵は虎視眈々とキミたちを狙っておるぞ。

 観察は、また次の機会にでも。




 通い慣れた嵌めガラスの重い扉を開くと、ドアについたベルが、涼やかな音を立てて静かに響き渡った。一歩足を踏み入れた途端、聞こえてくるのは、ゆったりとしたピアノソナタだ。

 穏やかな自然光が差し込む陰影のある店内は、外の喧騒がまるで嘘のように、静かで落ち着いた雰囲気に包まれていた。

「久し振り」

 カウンターに足を忍ばせつつ近づけば、相変わらずの髭面が、少し無愛想に私を迎えた。

 コーヒーを淹れる馥郁とした香りが煙のように立ち上り、鼻腔を擽る。

「こんにちは」

 長の無沙汰を詫びるように苦笑気味に微笑んで、ほぼ定位置になっていたスツールに腰を下ろした。

 さてさて最初の第一関門はクリアした。問題は、次だ。

「おや、沙由流じゃない、あんまり来ないから、見限られたかと思ったよ」

 心なしか身構えようとした矢先に、相手方に出鼻を挫かれた感となった。

 グサリ。

 やや後方右斜め四十五度から入って来た矢は、見事、私の体を貫通した。

 覚えのある痛みに懐かしさを感じつつ、振り返る。

 白い糊のきいたシャツに黒のダブリエを颯爽と着こなした青年が、お冷を持った手をカウンターに滑らせた。

 小気味よい程の毒舌も健在だ。これを聞かないうちは、ここにやって来た気がしない。それほどまでにここでの習慣が染みついていたのかと再認識する。

 何も変わっていないことに安心する。

「ふふふ。久し振り、アラタさん」

 態とらしい余所行きの微笑みを浮かべて対峙してみる。

 それから直ぐに仮面を取り外した。

「元気そうね。ちょっと…ね。…色々、あったのよ」

 日本語は便利な言葉だと実感するのはこういう時だ。

 理由を曖昧にしたいとき、実に絶妙で都合のいい言葉が沢山ある。

 少し間を開けて目くばせをすれば、打てば響くように予想通りの反応が返ってきた。

「何、その意味深な言い方は。なんか見ないうちに綺麗になった?」

 すぐ傍で、柔らかい茶色の髪がサラリと揺れ、色素の薄い瞳が猫のように眇められた。


 黙っていれば、そのままファッション雑誌から抜け出てきたような長身の男前なのに、この青年の言葉遣いは、少し変わっていた。

 昨今流行りの……かどうかは分からないが、段々と市民権を得つつあると思われる『おねぇ言葉』とまではいかないけれど、それを感じさせるような柔らかな口調だ。それが嫌みでないのは、実に彼の表情とそのさっぱりとした性格に似つかわしいからだろう。

 年齢は私より年上らしいのだが、ハッキリと尋ねたことはない。そんなことを初対面で尋ねたら、『失礼なことを』なんて、迫力のある笑顔でどやされることだろう。外見は全く年齢不詳。不思議な人だ。

 彼の場合、気心を許した相手に対しては素の部分が出るそうで、外では普通の言葉遣いなのだとその昔に耳にした。私は疑似おねぇ言葉以外の彼を知らないので、それがデフォルトとなって記憶にインプットされているせいか、普通に男言葉で話すアラタなどどうにも想像がつかなかった。

 このカフェは、髭面のマスターと相棒よろしく二人でやっているのだ。自分のテリトリーでは、気がねなく彼も地で話をしていた。


 アラタは、少し語弊があるかもしれないが、私にとっては姉のような人だ。

 ちょっと風変わりで、それでも人情味に厚い優しい人だ。

 私相手に社交辞令やお世辞なんて今更、口にはしない。

「そう?」

「何、無自覚? 余計に性質が悪い」

「へぇ、じゃぁ、この二週間の間に何かあったわけだな」

 アラタの言葉尻に被さるように疑問というよりも明らかな断定口調で、マスターが髭の間から白い歯を覗かせた。

 私はどっぷりと長い溜息を吐いた。来て早々、事情聴取を受ける気分になるとは。二人掛かりで攻められれば、経験値の差もあってか、どうも分が悪い。

「もう、二人して、意地が悪いんだから」

 恨めしげに見上げれば、マスターがニヤリと人の悪い笑みを浮かべた。

「観念するんだな。暫く顔を見せなかった罰だ」

 マスターはそう言って、すでに私が頼もうとしているカフェ・オレの準備を始めている。

 ここではカフェ・オレ以外のモノを自分から頼んだことはない。なので、マスターの中では私=カフェ・オレの図式が成り立っているのだろう。

「勝手なことばっかり言って」

「お昼まだなんでしょ。今日のお勧めは、ランチプレート。いいお魚が入ったから」

 このカフェを始める前、アラタは、レストランでイタリア料理のシェフをしていた。ここのメニューも彼自身の拘りが随所に表れていて、その味は絶品だった。

「それじゃ、それ、お願いするわ。もうおなかペコペコなの」

「了解」

 後で洗いざらい吐いてもらうからね。観念なさい。

 そんな笑顔を残して、アラタは再び厨房の方へ消えた。この分だと、中をもう一人のスタッフに任せて、自分も休憩を取るつもりなのだろう。


 休日、ランチタイム後半戦の時間ともあって、中はそれなりに客が入っていた。

 ここのランチメニューは、知る人ぞ知るといった感じの隠れ家的なものだった。外に出ている看板も風景に同化してしまいそうなひっそりとしたものであるし、基本はコーヒー等の飲み物がメインであるから、中に入らなければ分からない。でも、ここでそのランチを頼むとその意外性と美味しさに目を見張るのだ。だから、この時間、ここにいる客の多くはリピーターが多い。若しくは口コミでやって来た人たちだ。そして、無口でワイルドな髭の似合うマスターと爽やかで人当たりのいいアラタの対照的なコンビは、それこそ美形な組み合わせとして、近隣のOL達の噂の的になっているらしい。

 というようなことを会社で小耳に挟んだ時は、腹が捩れるほど笑いそうになった。

 身内が褒められるようなむず痒い感覚だ。それをこの間、からかいのネタとして提供したら、随分な反撃にあったのは可笑しくも苦い思い出だ。

 マスターはフンと鼻で一笑してから、実に人の悪い笑みを浮かべるように口の端を吊り上げた。アラタはアラタで含み笑い。私は嫌な予感がして、口元が引き攣るのを必死で堪えた。その後の顛末は……ここで思い出すのはやめにしよう。また今度、機会があったらということで。


 案の定、再び戻ってきたアラタは手に沢山のお皿を乗せていた。いつ見ても器用なことだ。

「お待たせ」

 アラタはカウンターの奥にあるテーブル席へお皿を並べると私を促した。

「休憩にしよう。沙由流もこっち」

 マスターもカウンターを別のスタッフに任せてから、こちらにやって来た。

「大丈夫なの?」

 こんな忙しい時間帯にマスターが休憩をとるのは珍しい気がして、念のため訊いてみる。

「ああ、心配いらない。店内にいることには変わりないからな」

「そうそう。従業員にも休憩は必要」

 飄々と口にする二人に、私はそっと溜息を吐いた。二人とも聞く気満々じゃない。

「左様でございますか……」

 椅子が三つ据えられた丸いテーブル席。左右を二人に囲まれるようにして、妙な圧迫感を感じながらも、目の前の料理に釘づけになった。

「美味しそう」

「これは鰆のソテー。掛かっているのは柚子のソース」

 付け合わせは菜の花にトマトのサラダ。同じグリーンが目にも鮮やかなリングイネ。固めのドイツパンも添えられて。春の気分満載な一皿だ。

「春なのねぇ」

 窓辺から差し込む光は優しくて、梢の縁を彩る光がキラキラと反射して眩しい。

「もうすぐ桜も見頃になるでしょ。そうしたらお花見しよう」

「今年もやるの?」

 去年の騒がしくも楽しい一時を思い出す。

「勿論。花見はこの時期にしかできないからな」

「ふふふ。楽しみにしておくわ」



「で、何があったんだ?」

 お皿の上のカナッペを摘まみながら、マスターが音もなく切り込んで来た。するりと懐に入り込んでくる。こういうところは本当にうまいと思わずにはいられない。

「何って。今は……そうねぇ。春になって、毎日が楽しいかしら。生活に張りが出てきたというか……新しい刺激が出来たというか」

 直近に起きた変化と自分の日常をそう分析してみた。

「へぇ。で、その刺激の基はなんなの?」

「端的に言って、男、か」

 淡々と述べられた呟きに、アラタが目を輝かせた。

「ようやく沙由流にも春が来たんだね!」

 相変わらず直球で痛い所を突いてくる。

 でも今回は、少々というよりも、かなり早とちりだ。

「そんなんじゃないわよ」

 苦笑気味に返せば、勿体ぶるなと詰め寄られた。

「ひょんなことからね。高校生に英語を教えることになったの」

 それから、私は、簡単に起こったことを正直に話した。


「―――ということ。ただ、それだけよ?」

 念を押すように口にすれば、二人の反応は、まぁ似たり寄ったりだった。

「高校生だなんて……」

 アラタがどこか遠い目をして窓の外を見た。

 彼は彼なりに遠い日の自分でも思い出しているのだろうか。

 『高校生』という響きは、ある一定以上、歳を重ねた大人にとっては、やはりどこか甘酸っぱくてほろ苦いものを想起させる何かをその中に隠しているようだ。

「あの…アラタさん? 何か物凄い勘違いをしてないですか?」

「ああ、犯罪的だ。どう見積もっても一回りは違うわけだし」

 恐る恐る声を掛けるが、アラタは俄然、考え込むようにブツブツと一人の世界に入ってしまった。

 私はその思考回路が辿りついた先を見越して、脱力したように大きく溜息を吐く。

「あのねぇ、これだけ離れてるのよ。普通、そういう対象になる訳ないじゃない」

 突然暴走を始めたアラタの妄想に呆れ返れば、

「恋に落ちるのに年齢なんて関係ないよ」

 と、どこぞの小説に出てきそうな文句。

 机上の空論と現実は違います。

「逆のパターンならあり得なくもないのだろうけどねぇ…」

 男の方がかなり年上で、年若い幼な妻を貰うという話は、昔からある訳であるし、分からなくもないが。

「いや、でもさ、真面目な話、向こうはそう思ってないんじゃないのか?」

 マスターが冷静な一言を発した。

「はい?」

 その時の私は、随分と素っ頓狂な声を出したのではなかろうか。

「元々、そいつの方から、声を掛けて来たんだろ?」

「確かに、そうだったけど……」

 そもそものきっかけを思い出しながら、私はマスターに相槌を打った。

「ということは、向こうに関心があったってことだ」


「……第一印象は、変な人だったかもしれないわね」

 当時のことを思い出すと、今でも若干の恥ずかしさと可笑しさが込み上げてくる。

「まぁ、仮にそうだとしても、だ。それ以後、なんだかんだ言って顔を合わせて、話が弾んだんだろ? ましてや、普通の会社員に家庭教師を頼むくらいだ。そんなのお互いに好意を持ってないと無理だと思うぞ。普通」

 至極、真っ当で冷静かつ客観的な意見だ。

「確かに…ちょっと踏み込み過ぎてるかなって気がしないでもないかな。お節介っていうの?」

 単なる知り合いの域は超えている。その自覚はあった。

「でも、向こうも喜んでるんだろ?」

「どうかしら?」

「いや、絶対、高校生、しかも遊びたい盛りだぞ。そんな時に態々土曜の昼間、勉強しに来ないって」

 首を傾げた私に、マスターは身を乗り出して力説した。やけに実感の籠った言い方をする。

「ボランティアの家庭教師にお昼ご飯付き。教えてくれるのは、美人で癒し系の年上のおねぇさん。なんて美味しいシチュエーションなんだ。それは絶対、下心ありまくりだね。断言できるよ!」

 今度は別サイドからも幾分ズレた悲鳴が上がった。

「二人とも、落ち着いて。現実と妄想の世界は違うのよ。アラタさん、戻ってきて」

 ヒートアップした二人に水を掛けるように向ける。

 が、逆にじっとりとした目で見返された。

「「沙由流。お前なぁ……」」

 呼吸もピッタリに、

「「―――男心を分かってない!」」

 二人同時にはもられて、私は手で千切った固いドイツパンを口の中に放り込んだ。

 咀嚼する度に小麦のほろ苦くて甘い味わいが増す。

「そんなの……分かるわけないじゃない……」

 私は男の子じゃないんだから。苦し紛れに呟いてみる。

 それから続いたのは、予想通り、男心についての講釈で、私は大人しく、繊細でロマンチストな男たるものの一面を聞かされることになったのだった。

 こんな所で説教を食らうと羽目になるとは。ここが店内の片隅でよかったとつくづく思う。変な所で熱いのだ。この二人は。外見から受ける印象は随分と違うし、基本的な性格もかなり差があるのに、妙な所で意気投合する。まぁ、だから二人でカフェなんてお店をやっていられるのだろうけれど……。

 一対二で攻められるというのは時として、面白くない。


「しっかしなぁ。そいつ、若いのに、意外に見る目あるんじゃねぇ?」

 どかりと丸椅子の背もたれに体全体を預けて、食後の一服、たなびく紫煙に目を細めながら、マスターが不意に口にした。

「そうだね。高校生にしてはなかなかやるよね」

 その隣で、アラタもコーヒーカップを傾けながら、ゆっくりと相槌を打つ。

「それは……褒めてるの?」

 カフェ・オレを啜りながら、怪しい雲行きの方向を見定めるように口を挟む。

「当たり前じゃない」

 キッと睨むようにこちらを向いて、それから、ふわりとアラタは優しく笑った。

「俺達にとって沙由流は自慢の妹みたいなものだからな」

 マスターが茶目っ気たっぷりに片目を瞑って見せると、

「大体、沙由流って、ぱっと見しっかりしてそうなのに、どっかのほほんとしてて、肝心な所で抜けてるんだから。こういうことには疎いし。こっちは気が気でないんだからね」

 散々な言われようだ。それでも、皮肉たっぷりのアラタの毒舌には、いつも以上に愛情が籠っていて、それを告げるアラタの目は、言葉とは裏腹にとても優しいものだった。

 二人の心遣いに涙が出そうになる。締め付けられるような心臓を私は自分の掌でそっと摩った。

「ありがと。お兄さん達」

 いつもなら反発する所だけれども、照れくささが勝って。混ぜっ返すように微笑んでみた。

「そうだぞ。兄貴としては……まぁ、複雑だな」

 こんな兄弟ごっこも楽しいかもしれない。胸の中がほんのり、じわりと温かくなる。

 私は嬉しくなって、まだまだ温かさの残るカフェ・オレカップをしっかりと両手で握った。


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