3.ささやかな日常に潜む
主人公の日常をクラスメイトの視点から。
昼休み、いつも無表情がデフォルトで何を考えているんだか分からないクラスメイトが、珍しくも小さな微笑みを浮かべていた。
それだけでも驚きの事実であるのに、そいつの視線の先には手にした携帯電話の画面。長い指を器用に動かして懸命に何かを打ち込んでいる。
メールか。
いや、別に今時の高校生なんだから、携帯を持っていたり、メールをしたりするのはごくごく普通の事なのだけれども、アイツとメール、プラスやに下がった笑みの方程式は、生憎、俺の中には存在していなかったから、状況を理解するのに、暫し思考が固まった。
視覚から入ってくるその構図は、相当のインパクトがあったようで、余りにも意外性があり、珍しい映像に、頭が追い付いていかなかったのは、どうやら俺だけではなかったようだ。
「うへぇ、なんだなんだ、明日は雪か?」
「いや、どっちかっつうと槍じゃねぇ?」
今日の天気は快晴。窓から差し込む日差しは燦々として、新緑が目に痛い季節だ。
俺の隣で頬杖を突いている友人達が、信じられないものを目にしてか、口々に噂する。
そりゃあもう大声で。態と聞こえるように、だ。
それが許されるくらいには、アイツは一応、このクラスに馴染んではいた。
滅多に笑ったりはしない奴。
俺は、まだそいつが笑うのを目の当たりにはしたことがない。
聞くところによれば、そいつは、ほんの少し口の端を吊り上げる位で、そんな自虐的でニヒルな表情さえもやけに決まって見えるのだそうだ。とクラスの女どもが騒いでいるのを遠くに聞いた。
そんな素っ気ない態度でも慣れてしまえば、別に普通で、同じクラスメイトは気にはしていない。概ね好意的と言う所だろうか。
馬鹿騒ぎに混じる訳でもなく、いつも淡々としていて、他人とはやや距離を置いた立ち位置。
その他大勢に埋もれるには存在感が有り過ぎて、しかし、おいそれと近づくにはどうにも躊躇われて、クラスメイト達は遠巻きに様子を窺う様な塩梅だ。
皆、それなりに興味はあるのだろう。ストイックな風貌に冷徹な感さえする仮面を取りつけて。ピリリとした痛いような緊張感は、ちょっとした硬派を思わせるらしく、アイツは男女共に陰で人気があった。
そう、陰でというところが重要だ。本人の前では不用意に騒ぎ立てない。迂闊なことをしようものなら、あの鋭い目でぎろりと睨みつけられる。
それこそ、人一人を射殺せそうな程の絶対零度の冷たさは、はっきり言って心臓に悪い。公言するのも妙ではあるが、一定の暗黙のルールみたいなものが、赤外線トラップのように、そいつの周りには張り巡らされていた。
アイツは、漣のように揺れる外野の騒音に反応を返すことなく、チラリとこちらを一瞥しただけで、すぐさま視線を携帯の画面に戻した。俺達のからかいは総無視。不発に終わる。相手にされないのはちょっと悲しいが、それだけ、アイツにとっては目の前の事象が大事な事なのだろう。
それは何なのだろうか。皆、口に出さずとも、アイツの注意を集めているモノが気になって仕方がないのが、辺りを取り巻く空気から感じられる。
だが、そんな周囲の思惑に捕らわれることなく、そいつは、暫し思案した後、漸く満足のゆくものが出来たようで、ボタンを押した。
と不意に微笑んだ。本当に穏やかで柔らかな微笑み。
頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。
アイツにそんな表情が出来ることを初めて知った。そして、すぐさま刺激された好奇心がムクムクと頭を擡げてきた。
あの微笑みを引き出したモノは、一体何だったのだろう。
「おい、浬。いい加減その気持ち悪い顔をひっこめろ。寒気がする」
友人の一人がゆっくりと近づき、呆れた顔を浮かべながら、そいつの肩口から手元を覗き込んだ。
アイツに対してああいう言い方が出来るチャレンジャーは、今のところ、このクラスではただ一人。
市川英だ。
そいつは一年のころからアイツと仲が良いらしく、俺たちからしてみれば実に絶妙な間合いで接していた。口から出てくる市川の言葉は結構辛辣だが、切れ味が鋭い割には、悪意は籠っていない。だからであろうか、後腐れなくさっぱりとしていて、相手が誰であろうとも言いたいことをずけずけ言う基本姿勢は一貫して揺るぐことなく、それがいつも正論だったりするものだから、友人たちは特に気分を害することも反発することもなく接していた。人徳というものなのかもしれない。割りと面倒見がよくて兄貴肌な性格も一理あるのだろう。
「うるせぇ」
アイツは、市川を睨みつけてから携帯のフリップをゆっくりと閉じた。その手つきが何だか名残惜しそうに見えたのは気の所為だろうか。
「大方、サユルさんの写メでも見てたんだろ」
ニヤリと人の悪い笑みを市川が浮かべる。
聞きなれない言葉にクラス中が俄かに色めき立った。勿論、音量は抑えて、ひっそりとだが。
皆、耳をダンボのようにして続く言葉を待っている。
「いいだろ。別に」
ぼそりと低く呟かれた言葉は、否定ではなかった。
俺たち観衆は目を見合わせた。
これは、ひょっとして、ひょっとするのか。
アイツは陰でモテている。
だが、校内ではこれまで浮いた噂というものを耳にしたことが無かった。私生活もかなり謎に包まれている。バスケ部に所属しているということを除いては。
告白をされても片っぱしから断っているようで、理想が高いのか、はたまた異性に興味がないのか(それは同じ男としては考えられないが)、要するにちょっと気になる所であった。
「コレクションは増えたのか?」
市川はひょいとそいつの携帯を取り上げると、カチカチと操作をし始めた。
「成程ね。さながらストーカーだな、浬君。君の涙ぐましい努力はつくづく賞賛に値するよ」
似つかわしくない優等生キャラの口ぶりで画面を見ながら大げさに言った。
周囲はその発言に度肝を抜かれている。
アイツがストーカー。どう並べても結びつかない単語同士だ。
クールで無関心。そんな評判の男には熱すぎるだろう。
「あ、コレ、なんかいいね」
市川の指が止まり、満面の笑みを浮かべて振り返った。
「あ、おい、英、てめぇ、何すんだよ」
慌てて制止に入ったアイツの手をいとも簡単にかわして、
「俺にも癒しを分けて欲しくてね」
市川は、いつの間にか取り出した自分の携帯をそいつのものと突き合わせて、赤外線でデータを送っているらしかった。なんという早業だ。
「だあぁぁぁぁ」
そいつが、いつになく情けない声を出した。
「勿体ないことすんな」
「別に減るもんじゃねぇんだし、いいだろ。固いこと言うな。ケチな男は嫌われるぞ」
「いや、ぜってぇ、何か減った気がする。俺の癒しがぁ……」
「ほらほら、人類の財産は共有しないとな」
「お前にはやらねぇ」
「はいはい」
「ムカつく言い方だな」
「あれぇ、そんなこと言っていい訳? 陰で誰が努力したと思ってるんだかねぇ、浬君。俺もメールしちゃおうかなぁ。よろしくと任された身としては義務を果たさないとな」
「バッ…カ、待て、おい」
白々しい口ぶりに容赦無い凶悪な笑顔で迫った市川に、そいつは少し焦ったようにたじろいだ。
逡巡した後、渋々というように眉根を寄せる。
「分かったよ。……それだけ、だからな」
だが、すぐに鼻を鳴らした。
「心の狭いやつ」
「うっさい」
そんな、普通の人間が聞いたら心臓に悪そうな軽口の応酬を繰り返して、市川はやけにすっきりとした顔をしてこちらにやって来た。手には先程の戦利品(?)らしい携帯をぶら提げている。
「おい、市川、なんだよ。さっきの」
友人の一人が小声で詰め寄った。俺同様、二人の間で出てきた未知の人物の名前がいたく気になって仕方がないという具合だ。
「ん? 何が?」
分かっているだろうに、にこやかに逆に問われて、友人達がうろたえた。
「だからさ…その…なんだ」
チラリとアイツの方を気にしながら、言葉を濁す。
市川は基本的に友人思いの奴だ。口も堅い。正統派でこそこそと陰に隠れることを嫌う。聞きたいことがあるのなら、妙な小細工などせず正面から相手にぶつかればよいという主義だ。だから市川的には、アイツの目の前で必要以上の情報漏えいはあり得ない。
「渡良瀬は何を見てたんだ?」
友人達の煮え切らない態度に俺はとうとう業を煮やして、気が付けば問うていた。
「うわぁ直球来た」
へらりと緩い笑みを浮かべた後、市川は目をすっと細めた。からかっていても友人の守秘義務は守る。 近づくべき一線を間違えたようで、慌てて振り出しに戻った。
「あ、じゃ、質問を変える。市川が渡良瀬から貰ったデータは何だ?」
これで図式としては、俺が市川へ質問を投げかけたことになった。
「あ、そう来る? 意外に正統派だな」
小さく笑ってから、市川がアイツを横目に見た。
情報の源はアイツだ。親しき仲にも礼儀あり。興味本位に立ち入っていけないことはある。
「そうか。嫌なら無理に答えなくてもいいんだぞ。別に」
言い訳臭いが一応断っておく。ほら、言葉の間にクッションは必要だから。
俺は相手の出方を待った。
市川は暫し考えるように天井を見上げてから、
「なぁ、浬。さっき貰ったお宝映像見せてもいいか?」
鼻歌が出てきそうな程の上機嫌でアイツを振り返った。
問われたアイツは、あからさまに嫌な顔をした。苦虫を噛み潰したような、複雑怪奇極まりない表情だが、それはそいつによく似合っていた。硬派な男前はそんな表情も様になるということだろうか。
「……勝手なこと吹くなよ」
暫しの沈黙の後、低いけれどもよく通る声が了承の意を運んできた。雰囲気から断られると思っていた俺たちは、少し意外に思った。
お宝映像。謎の多いアイツが大事にしているもの。その響きにごくりと周囲の喉が鳴った。
それが、どうやら今日のアイツの上機嫌の元らしい。ちなみに市川にとってもそうであるらしかった。これだけの前振りで興味をそそられないわけがない。
「それでは皆々様。御覧じあれ」
ジャジャーン。
効果音付きで、得意そうに差し出された市川の携帯。
さながら某ご隠居の印籠の如くだ。
その画面には―――――穏やかに、やや、はにかむ様にして微笑む、一人の女性の姿―――――が映っていた。
「俺と浬の癒し」
得意そうに市川が放った意味深な言葉にアイツの方を見れば、窓の外を向いていた。
だが、その耳が微かに赤くなっていることに気が付くのに時間は掛からなかった。
ああ、アイツも照れたりするんだ。
自分たちと同じような反応に、安心したというか、微笑ましい気分になった。多分、それが、アイツへの親近感みたいなものを感じた最初だったと思う。
俺達が実際にその女性を目の当たりにするのは、もう少し先のことだ。




