27.ひと しれすこそ おもひ そめしか
前回の続きです。
人知れずこそ 想い染めしか……タイトルは同じ和歌の下の句から。
市川英視点で。
学校からの帰り道、本屋に寄りたいという友人は、そのまま駅前にある大きな書店へと消えていった。 別に欲しいとか読みたいとかという本がある訳でもなかったのだが、同じ路線の電車に乗り、途中まで帰路を共にする友人と中途半端に別れるのはちょっと気が引けて、市川英は、何とはなしに友人の背を追いかけていた。
駅前の大通りに面する本屋の店内は、その間口から想像するよりも広い。中は、既に会社帰りのサラリーマンやOL、自分たちと同じような学生等、実に様々な人で賑わいを見せていた。
ぐるりと見渡して、良く知った後ろ姿が、文庫本の新刊が平積みにされている箇所にいるのを発見した。
友人、基い、クラスメイトでもある渡良瀬浬は、じっと真剣な目をして色とりどりの本の表紙を眺めていた。だが、暫くして探していたものがなかったのか、そこからフイと視線を外すとスタスタと迷うことなく別の棚へ向かう。
気持ち着崩された制服に学生鞄。いかにも今時の高校生という服装に、世界文学の小説が並ぶ棚という背景は、妙な違和感があった。
「何か、探してんの?」
すっと隣に並ぶと、英は浬が向ける視線の先を見てみた。
そこには、英が全く知らない片仮名の名前が沢山並んだ本の背表紙がずらりとあった。
本を読むのは別に嫌いじゃない。でもその殆どは娯楽性の強いミステリーが主で、いかにもという文学作品は、余り手にしたことはなかった。
方や浬はその見かけに似合わず(と言ったら怒られそうだが、本当にそう見えるのだから仕方がない)かなりの読書家だった。
英は、浬が結構、色々なジャンルの本を読むということを知った時は、少し意外な気がした。
浬の外見は、想像するようなガリ勉タイプとはまるでかけ離れていた。鋭いきらいのあるやや切れ長の目に、大人びた空気を醸し出している風貌という注釈が付くが、何処にでもいるような現代の普通の高校生だ。要するに第一印象から言えば、文学少年とは程遠いということだ。そんな友人の鞄から小説の文庫本が覗いたりする光景は、何というべきか、イメージの先入観を裏切る感じで、偏見と言ってしまえばそれまでなのだが、ちょっと想像がつかなかった。
浬は、基本、浅く、広く。好きだと感じたものに関しては意外とのめり込むタイプだと言う。同じ世代のクラスメイト達に比べれば、随分な読書家だと言える。本なんて学校の教科書以外全く読まないという連中からしてみたら、活字中毒者のように映るのではないだろうか。
「探してるって言うか…、ちょっと気になったのがあって」
視線は棚に注いだまま、浬が曖昧に口を開いた。
英は暫くタイトルの羅列を見た後、後ろを振り返った。
「店の人に聞いてみれば? それとも検索で調べてみる?」
少し行った角の所には、検索用のコンピューターシステムが一台置いてあった。タッチパネル式のパソコンで、店内や系列店舗にある商品の検索や在庫確認ができるのだ。その向こうには、本の整理をしている店員もいる。極普通に捜しものをしている時の解決策を提示した訳だが、浬は煮え切らないように首を横に振った。
「……そこまで、する程の事じゃねぇから」
「ふーん?」
いつになく歯切れの悪い物言いだが、英としては何か気の利いたことが言える訳でもなく、なんとなく相槌を打つことでその場の空気を濁した。
「それにしても、どんな心境の変化? 今度は文学作品に目覚めちゃった訳?」
ついこの間までは確か、別のジャンルのもの(刑事犯罪モノ)を好んで読んでいた筈だ。
「ちょっとな」
浬は、そう言って秘密っぽく口の端を僅かに上げた。
「なにそれ?」
「まぁな」
気にならない訳ではなかったが、それ以上は情報を開示しない雰囲気があったので、無駄な詮索は辞めることにした。
浬は、普段から無口な性質だったが、必要以上にプライベートな事柄に踏み込まれることをよしとしなかった。一年近く一緒にいてもまだまだ謎な部分が多い奴だ。だが、まぁそれはお互い様という所だろう。
「じゃぁ、俺、ちょっと他の所見てくるな」
「ああ」
そのまま、その場を動きそうにない浬を尻目に英は、店内をぶらぶらすることにした。傍にいても邪魔になるだけな気がしたからだ。生返事でも一応声が返ってきたので、心配はないだろう。
適当に雑誌の辺りを見てから再び同じ場所に戻ると、そこにいたはずの浬の姿はなかった。
そこからもう一度、店内を見渡す。平面の低い書棚が並んだ店内は、面白いことに端々にまで目が届いた。その中の一角、学習用の参考書が置いてある辺りに、見覚えのある萌黄色が見えた。あれは浬のマフラーだ。
立春を迎えたとはいえ、まだまだ冬の寒さが残る今日、行き交う人の服装はまだ、黒を主流としたモノトーンが多い。くすんだ地味な色合いの中、浬が好んで毎日付けているマフラーは、浮き立つようにかなり人目を引いた。自身の高い身長と相まってか、目印にはちょうどいい。
浬は、ほんの少し前まで、違うマフラーをしていた。色身は同じグリーン系で似てはいるのだが、前に付けていたものの方が、その色合いに渋みがあった。知り合いと交換したなんて言っていたのを思い出す。
「おい、浬。お前、こんなとこに………いたのかよ」
声を掛けながら近づいて、浬が一人ではないことに気が付いた。
浬の隣には、女の人が立っていた。仕事帰りの会社員。トレンチコートから黒のスーツが覗く。その首には、どこかで見たような優しい若草色のマフラーが掛けられていた。
英は、浬とその女の人とその人が首にかけているマフラーを順に見比べた。
顎辺りで短く切りそろえられた真っ直ぐの黒髪に白い肌。ふっくらとした唇がゆっくりと弧を描く。柔らかな微笑みが印象に残る綺麗な人だと英は思った。
その人が口を開くと、予想に違わない、穏やかで優しい空気が、辺りを包みこんだ。
「あら。お友達?」
「ん」
女の人が柔らかく微笑んで隣を見上げると、浬は口元を緩めた。その顔は、とても嬉しそうだ。
「こんばんは」
微笑みかけられて、英は反射的に軽く頭を下げた。だが、内心は酷く混乱していた。
学校では見たことがないような優しい色を浬はその瞳に浮かべて、とても寛いだ表情をしている。
パチパチと瞬きを繰り返す英を余所に、友人と女の人の会話は続いていた。
「それじゃぁ、レジに行ってくるから。ちょっと待っててね」
「沙由流さん、いいよ。自分で買うし」
「いいの、いいの。この間、テスト頑張ったじゃない。そのご褒美よ」
「でもさ」
「人の好意は素直に受け取っておくものよ?」
「う…あ…、分かった」
颯爽とレジへ向かった女の人の後ろ姿を見届けて、英はぎこちなく首を回した。混乱した思考のまま、それでもタイミングを逃すまいと回らない頭を働かせた。
「ああ…と、今の人、誰? っていうか、あのマフラー、お前が前にしてたヤツだよな。交換した知り合いって……あの人な訳? 会社員だよな? すげぇ大人な感じだったし、なんて言うか…癒し系美人? お前、あの人とどういう関係な訳?」
いつもより歯切れは悪いが、何かのスイッチが入ったのか、訥々とそれでも確実なポイントを突いて質問を重ねてゆく英の勢いに、浬は閉口した。
「いきなりなんだよ」
「で、どうなんだよ?」
「質問ばかりだな。ちょっと落ち着け」
「これが落ち着いていられるか!」
鼻息荒い英に、浬は呆れたように溜息を一つ吐いた。
「訊きたいことには順に答える。だけど、ちょっと待て」
そうこうするうちに先程の女性が戻ってきた。
「お待たせ。はい。どうぞ」
「ありがと」
浬は差し出された紙袋を大事そうに受け取った。
「それじゃ、私はもう行くわね」
そのまま用事は終わったとばかりに踵を返そうとしたその人を浬は引き止めた。
「あ、沙由流さん、待って。折角だから一緒に帰ろ」
当然のように口にされた台詞は、英には意外なもので内心ギョッとしたが、それを顔に出すことはしなかった。それよりも己が好奇心を満たすため、二人の関係性を見極めるには、観察を続ける方が、都合がよかった。
その人は確認するようにチラリと浬の隣に立つ英に視線を流した。
「でも、お友達がいるでしょう?」
「あ、俺は別に構いませんよ」
英はすぐさま社交的で人懐こい笑顔を添えて微笑んだ。
こんな面白い展開を見逃してたまるか。
そんなテロップが英の頬を流れていったように見えた。
わくわくとした好奇心を敢えて仮面の下に隠して、持ち前の人当たりのよさ全開で対峙する友人を浬は気味が悪い思いで眺め遣った。視線が合えば、互いに相手が感じていることが筒抜けだ。胡散臭さ全開の笑顔に学校では見せないような珍しい穏やかな微笑み。生じた違和感は瞬く間に相手に伝わる。浬としても敏い友人のことであるから、態々自分から事細かな説明をするよりも実際に目で見て感じ取ってもらう方が、手間が省けていいとも考えていた。
それから、男子高校生二人と社会人という傍目には少し妙な組み合わせで、三人は岐路に着いた。駅ビルのエスカレーターを降りて、直結するJRの改札を抜ける。そして、同じプラットホームに着いて滑り込んでくる電車を待った。
その間、専ら英と浬がよく喋り、女の人は二人の話へと楽しそうに耳を傾けていた。時折、打つ相槌に穏やかな微笑みが混じり、考え方の違いなのか、コメントがちぐはぐであったり、妙に鋭い所で突っ込みが切り込むように入ってきたりして、英は学校で同じ年頃のクラスメイト達と話をする時とは違う高揚感を感じ始めていた。
隣に立つ浬も普段からは考えられないほどの饒舌だった。始終、笑顔を絶やさずに、少し独特な感じがするニヒルな形に口角をクイと上げては上機嫌に口を開く。友人がこんなにも表情豊かであることを知らされるのは、妙な気分だった。
帰宅ラッシュ時に重なり、適度に込み始めた車内に揺られながら、思いの外、穏やかな時間が流れていった。それを不思議に思いながらも心地よいと感じ始めていることに英は気が付いた。
三つ目の駅で女の人が下りた。それを浬は名残惜しそうに見送っていた。
それを確かめると、英は一つわざとらしい咳払いをして見せてから、ニヤリと迫力のある笑みを浮かべて振り返った。
「さぁて、キリキリ吐いてもらおうか。浬クン?」
肝心なことはまだ聞かされてはいなかった。これまでの短時間で英が知り得たのは全体像のおぼろげな大枠だ。浬は切り出されることを予想していたのか、少し面倒臭そうに溜息を吐きつつも、首を縦に振った。そして淡々と英の出す質問に答えていった。
「でもさぁ、沙由流さんて、つくづくいい人だな」
話を聞き終えた英の出した感想は、その一言に尽きた。
大体にしてあり得ない。というよりは出来過ぎだろう。
「ん。それは俺も常々思ってる」
不意に真面目な顔つきで浬は言った。
「社会人で忙しそうなのに、ボランティアでお前の勉強見てるんだろ? 毎回、沙由流さん家で。しかも昼飯付き。なんて美味しいシチュエーションなんだ」
男であるならば果てしない妄想を繰り広げてドツボに嵌ってしまいそうな状況だ。
【うらやましい】とでかでかと顔に書いて、英は揺れる電車の振動に身を任せながら、反射する窓ガラスに映る友人を見た。その首に巻かれているのは、元々、沙由流のものであったという萌黄色のグラデーションだ。それは傍目にはすっかり現在の所有者に馴染んでいた。
話から想像するに、沙由流は浬をするりとその懐に入れた。信じられないような驚くべき寛容さだ。沙由流さんの態度は余りにも自然で、強面で学内でも異色な感じの友人が、年相応にさえ見えたのだ。
恐るべし、沙由流さんマジック。
と同時に、とあることに気が付く。
「でも、つうことは……さ。お前、ガキ扱い?」
男としての認識がされていないから、普通なら抱かれるであろう警戒心が見当たらないのだ。大人の沙由流からしてみれば、高校生は、年端のゆかない子供と同じなのだろう。
それを指摘すると浬はあからさまに苦い顔をした。
「うっせぇ」
図星であったのかフイと横を向く。
「まぁ、気長に頑張りたまえ」
英はそう微笑み返すと友人の心の内を慮って肩を軽く叩いたのだった。