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25.揺らぐ境界線

全面降伏。白旗を上げる。


 休憩の時間。淹れたてのカフェ・オレが入ったマグを二つ、手に取った。

 答え合わせをする手をふと止めて、丁寧に回答が記されている、やや右上がりの文字列を眺めてみる。 几帳面な性格の一端が、こんなところにも覗いている。

「浬くん、学校でも、お勉強できる方でしょ」

 それは問いというよりも事実確認に近かった。週一回のペースで勉強を見ることになって、それは割と早い段階で見えてきたことだった。

「そ…うでもない」

 謙遜とは違う、やけに歯切れの悪い答えが返って来た。

「飲み込みも早いし、私が敢えて教えることの方が少ないかもしれないわね」

 人の手を借りなくとも自分のペースで学習が出来る子はいるものだ。少なくとも、以前の私はそういったタイプだった。良くも悪くも真面目で努力家。当時の私には、それしか取り柄が無かったから、それこそ必死になっていた。前線を守ろうとする兵士のように。

「や、それは、沙由流さんの教え方が上手いからだよ」

 浬は、いきなり顔を上げたかと思うと、ほんの少しだけ不安そうに眉を下げた。

 初めは余り感情表現の豊かな子ではないと思ったものだが、接していくうちに、段々とささやかな変化が分かるようになって来た。よく見ていれば、感情の切れ端はそこここに転がっている。その中でも雄弁なのは、やはり目の色だ。

「やっぱ、俺、ここに来るの、迷惑?」

「ん? どうして?」

「沙由流さんにもその、色々あるだろうし……、俺は態々、時間とってもらってる訳だし…その……彼氏とか……」

 急に意気消沈してぼそぼそと漏れる言葉に、私は声を上げて笑った。

 突然、何を言い出すのかと思えば。

「余計な気を使わなくてもいいわよ。大体、彼氏がいたら、こんな風にキミ相手に家庭教師の真似事はしてないから」

 それは本当のことだ。

「それより、キミの方は大丈夫なの?」

「何が?」

 怪訝そうな顔に同じような質問を投げかける。

 そう言えば、これまでお互いにそういう話をしたことはなかった。未知の領域は、まだまだ沢山ある。

「毎週土曜日ここに来て。彼女とデートする暇ある?」

「彼女、なんていないし……」

 それは少し、意外な返事だった。

 傍から見ても浬は存在感のある子だ。少々、目元に険がある気がするが、それも彼の場合は嫌みでなく、いっそ涼しい感すらあった。それに実際に関わり合いになってから分かったことだが、基本的に思いやりがあって優しい子だ。よく気も付く。そういう一面を知ってしまえば、女の子達は放っておかないと思うのだ。

「あら、そうなの? キミ、モテそうなのに」

「……面倒臭い」

 本音とも取れるように小さく呟かれた言葉。この子の年齢が、時折、分からなくなるのは、こういう時だ。

「なぁに、その台詞。キミ位の年頃は、そういうのに躍起になるものじゃないの? まさか、モテ過ぎて困ってるとか?」

 茶化すように混ぜっ返せば、気分を害したのか、少し怒ったようにそっぽを向いてしまった。

 あらら。ちょっと突き過ぎたかしら。


 この子と顔を会わせるようになってひと月余り。距離を測るように、少しずつ相手の出方を探りながらの攻防で、それなりに打ち解けてきたとは思っていたが、これまでに引きだされた情報は、ごく僅かなものだった。

 人間関係って難しい。特にデリケートなお年頃。子供と大人の間の揺らぐような、曖昧で貴重な時間。見かけによらず繊細な心を持った子だ。

「ごめんなさい。ちょっと無神経だったわね」

 突かれたくないことは誰にでもある。切り込み過ぎてしまった行為は謝罪に値する。

「別に…」

「まだ、怒ってる?」

 ずいと身を乗り出して、背けられた顔の向こうにある表情を伺った。

 と同時にその子が振り返った。


 ぼやけそうな位、目の前に迫ったその子の顔。思いの外、近づいた距離に、鼓動が不規則に跳ねたのを敢えて気が付かない振りをした。

「沙由流さん…」

 至近距離で薄い唇が躊躇いがちに動いた。そこから漏れる小さな溜息を傍に感じて、次に取るべき行動を弾き出す。

 体勢を立て直すようにゆっくりと体を引いた。

「なに? 悩ましい顔をして。人生相談なら受け付けるわよ?」

 重くなりそうな流れを軽くする為に。出来るだけ明るく声を弾ませる。この年頃の自分にもそれなりに人には言えないような悩みがあった。時として、何も知らない他人というのは話相手にはもってこいの位置となる。




「――この間、夢を見たんだ」

 ポツリと浬が言った。

 近すぎて、その表情はよく分からない。だが、先程よりも縮まった距離。もう少しで互いの唇が触れそうだ。

「ブランコに乗った夢……」

 ゆっくりと何かの呪文のように言葉が紡がれる。

「……その意味、分かる?」

 歌う様な口調とは裏腹に、こちらに向けられる眼差しは真剣で密やかな熱を帯びていた。

 突然がらりと変わった空気に内心、戸惑いを隠せない。

 吸いこまれてしまいそうな位、強い黒。その奥に煌めくものは、何だろう。そこに潜む色は何色だろうか。私を試しているのだろうか。

 だとしたら、それは、何のために。

「深層心理学的解釈で?」

 キミが求める答えは何処にあるのだろう。

「もう少し下世話かも知れないけど……」

 クスクスと笑う囁きが唇に震動として伝わる。


 突如として変化したあどけない空気。悪戯大好きな妖精が目の前にいるようだ。

 触れそうで触れない距離。そこに働いている磁石のNとSのバランスは、いつ崩壊するとも限らない。

「ブランコに乗ってるのは……キミ自身?」

 確認の事情聴取が続く。答えを出すために、私は記憶の引き出しを漁る。

「俺と…女の人……俺が、知ってる人」

 それから間合いをとって悪戯っぽく目を細めた。

「誰だと思う?」

「お母さん、それともお姉さん?」

「ハズレ。俺には姉貴なんていないし」

 確かに、兄弟は上に兄が一人いるとしか聞いていなかった。態々、聞いてくるということは、


「ひょっとして……私…なの?」

「当たり。で、その意味するところは?」

 大きく溜息を吐く。

 ああ、この子は確信犯だ。次に私が口にするだろう言葉を待っているのだ。何だろう。この踏み絵のような居た堪れなさは。

 それは、きっと、禁忌を犯すに似た背徳感。

「ヨッキュウ、フマン?」

 昔、深層心理学や夢解きの本を読んだ時に、そんな意味合いの話が載っていた気がする。ブランコは性的欲求と結びついていると。

 ゆらりゆらりと揺れるブランコ。

 大きな揺れとうねりの中で、キミが解き放ちたいものは……何だろう?

「正解」

 その子はうっとりと目を細めた。

 すると、隔てていた申し訳なさ程度の距離がゼロになった。

 しっとりとした生暖かい感触が口元を覆う。


「目、瞑らないの?」

 何度か行き来して、耳元に囁かれる低い声に、私は瞬きを繰り返した。

「カイリ、クン?」

「ん?」

「からかってるの?」

 自分でも驚くほど掠れた声が出た。

「そんな風に見える?」

 分からない。私は小さく頭を振った。


 いつになく真剣な表情からはそんな風には見えなかった。だから困惑しているのだ。研ぎ澄まされた切っ先が肌に食い込むようで。そこにあるのは痛みだろうか。それとも貫かれるという期待に満ちた高揚の伴う恐怖感だろうか。

「刹那的欲求の捌け口を求めてるなら、別の所にしなさい。後で、後悔するわよ」

「後悔? 何で?」

「それとも、キミからすれば、私は偶々、手折り易い路傍の草花? 後腐れのない適当な相手?」

「どうしてそうなる訳?」

 ムッとした顔が目の前に迫った。

「それとも、私を犯罪の道に引きずりこむ気?」

「犯罪って何だよ」

「キミは、高校生。プラス未成年。強制猥褻もしくは淫行罪が適用されてもおかしくないわ」

「それは、無理やりの場合だろ。それに、この状況じゃ、立場的に逆じゃねぇ?」

 鼻先が触れ合う位置で、浬は平然と言葉を紡ぐ。言葉を発する度に少し遅れて掛かる吐息が熱い。とっくに許容の範囲を超えていた。

「だって、キミからすれば、私はおばさんもいいとこでしょ? 一般的に見て、そんな相手にそんな気になる?」

 確か、この子にはまだ自分の歳をきちんと告げていなかった。そこをクリアにしないことには、いかんともしがたいだろう。

「俺は沙由流さんがいい。歳なんか関係ない」

「キミのお兄さん、幾つだったかしら?」

「何で兄貴が出てくるんだよ」

「いいから。単に、簡単な比較対象としてよ」

「……二十五」

 それを聞いて私は再び大きなため息を吐いた。

 これを聞けば、きっと怯むだろう。というよりも確実に引くだろう。まさしく最後通牒。性質の悪い喜劇に落とすならば今のうちだ。

「いい。浬くん。よく聞いてね。今まで明確にしてこなかったけど、私は、キミのお兄さんより上なのよ?」

 そして私は爆弾を投下する如く、厳かに自分の年齢に当たる数字を告げた。


 だが、予想はあっさりと裏切られる形となった。

「それが何?」

「何って、吃驚しないの? 普通、ドン引きでしょ」

「どうしてそうなる訳?」

 だが、最後の頼みの綱をするりとかわされた。まさに、暖簾に腕押し。糠に釘。


 私は次に取るべき手段を考えるべく目を瞑った。

「前から思ってたけど、沙由流さんさ、いい匂いするよね」

 浬はそのまま私の首筋に顔を埋めてきた。大きな犬がじゃれつく様な仕種だ。

 温かい、しっかりとした他人の重み。それは忘れかけていた感覚を引き出そうとしていた。

 徐々に体が傾ぐ。

「抵抗、しないの?」

 私は大きく息を吐きだした。

「どうしてかしらね。抵抗して欲しい?」

 漏れたのは苦笑だった。自嘲的で曖昧な苦笑い。肯定とも否定とも取れる、独特な感情表現。

 正直、自分でもよく分からなかった。

 不思議と嫌悪感はなかった。そもそも好ましく思わない相手であれば、自ら面倒をみるようなことはしないものだ。それでも、私がこの子に感じていたのは、年の離れた近親者に近い感覚ではなかったのか。 言い訳のような言葉がぐるぐると廻る。このまま流されていい訳はないだろうに。私の中にある常識と理性の天秤が揺らぐ。


「俺、いいように解釈するよ?」

 呪文を掛けるように低く囁かれる言葉に、私はゆっくりと閉じていた目を開けた。

 目の前にあるのは、揺らぐ瞳。強気の口調とは裏腹に、思いつめたような切ない色をその瞳に滲ませて。それを認めた途端、何故だかとても堪らない気持ちになった。私の中にある何かが急速に膨れ上がって、そして破裂した。


 ああ、私はすでに囚われていたのかも知れない。


 全面降伏。白旗を掲げる。そんな自分を思い描いて、可笑しくなった。

You win(キミの勝ち)

 安心させるように微笑んでからゆっくりと目の前にある頬を両手で包む。そして、そっと触れるだけのキスを送った。

「これで共犯ね。覚悟はいい?」

「勿論」

 浬は一瞬、驚きに目を見開いて、それから破顔した。顔を顰めて。今にも泣き出しそうに見えたのは気のせいだろうか。

 それが合図になった。

 突如として荒々しい口付けが、時化のように小さな小船を翻弄する。


 こうして私は、孤高で獰猛な黒豹をその懐に招き入れたのだった。


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