22.言葉では言い表せない着地点
不思議な関係はこうして始まりました。
つくづく人の縁とは奇妙なものだと思う。
コトコトとハンバーグを煮込む鍋を見つめながら、橘沙由流は自宅の台所で悟りを開いたような気分に耽っていた。
ささやかだが、それでも長年抱いていた小さな疑問が解消したその日、すっきりとした気分には、予想外のおまけが付いていた。
今ではめっきり見なくなったが、何気なく買ったジュースの自動販売機で、もう一本当たりが出たみたいな感覚だ。控えめに点滅し続けるランプを前に、驚いて、立ち尽くしてしまう感じ。それでも一応、もう一度ボタンを押して、出てきた缶ジュースに戸惑いを隠せない。
手には二本のジュースの缶。喉の渇きを潤すには単に一本で十分だったのに、突然、もう一本を押し付けられて、困惑する。そんな所だろうか。
ひょんなことから、疑問への答えをくれた高校生と知り合いになった。お互い初対面、カフェでの掠るような出会いは、すぐにでも忙しい日常の中に埋もれてしまうかに思えたのだが、それは、あの後も続いたのだった。
仕事帰り、日課のようになった同じセルフ・カフェで一休みをしていると、この間の男子高校生が隣に座った。偶然とは重なるものなのだ。挨拶をして二言三言他愛ない話をする。そして、ちょっとした英語の質問を受け、それに答える。そんなことが、あれから何度か続いた。
その子と言葉を交わす一時は、思いの外楽しかった。仕事帰りの気分転換、息抜きにしては上出来なほど。それは沙由流自身にしてみても意外な発見であった。
その高校生は、一見、無口で無愛想に見えるのだが、自分が興味のある話題ではかなり饒舌になる。口を開けば、それなりに話題の引き出しもあり、高校生にしては博識な所があった。歳の離れた親戚の子と対峙している感じなのだろうか。単なる顔見知りよりは、少し踏み込んだ感じ。そんな距離感に、妙な心地さを覚えていた。
自分にも頼られたいというような願望があったのだろうか。仕事の上では、それなりに後輩もいて、常に面倒を見る形にはなっている。だが、仕事を離れたプライベートで、同じようなことをする羽目なるとは思ってもみなかった。
そして、単なる顔見知りから、もう一段階踏み込むことになるまでには、そう時間はかからなかったのだ。
きっかけは、テストの話題だった。
最近は英語が面白くなってきた。そう言って微かに、はにかむようにして笑う少年を眺めていると、こちらまで胸の中がじわじわと温かくなるような微笑ましい気持ちになってくる。気分は年の離れた弟を見るような感じだろうか。
ある日、その子が少し憂鬱そうにテストの話をした。
近いうちに控えているのは実力テストで、試験範囲も教科書以外に指定されたテキストがあり、かなり難しいのだと形の良い口をひん曲げていた。
「あぁ、マジ、憂鬱」
眉間に皺をよせて、テーブルに頬杖をついて呻くように呟く姿は、今どきの高校生のそれだ。
当初は丁寧だった口調も気の置けない相手との認識が進んだのか、お互い、砕けたものに変わっていた。
困ったように寄せられた眉。それを見たら、何だか急に手を貸してあげたくなったのだ。母性本能を擽られるというのは、こういうことを言うのかもしれない。
「キミが嫌じゃなかったら、勉強、見てあげようか? まぁ、私の場合、英語ぐらいしか教えられないけれど…」
気がついたら、自然とそんな提案が自分の口から出ていた。
自分でも驚きだ。
本格的に勉強を見るとなれば、カフェでのワンポイントレッスンみたいな気軽な乗りでは出来ない。それなりにきちんとした準備が必要だ。高校の頃に必死で詰め込んだ古臭いイディオムは、今ではすっかり忘れてしまっているし、本格的にもう一度おさらいをし直さなければ役に立たないかも知れない。
軽く口にした沙由流の提案に、少年は弾かれたように顔を上げた。
「え? ほんとに?」
「ええ、役に立つかは分からないけれど」
「マジで?」
期待に満ちた眼差しにたじろぎそうになる。
「それに平日は仕事があるから、時間を取るには、必然的に休みの土曜か日曜ってことになるけれど、それで構わないのであれば、ね」
「土日なら全然平気、ていうかその方がありがたい」
ぱっと顔を輝かせた。
「そう? なら、そうしようか」
「問題はどこでやるか、か」
少し考える風に少年が視線を巡らせた。
「場所は……カフェとかファミレスってわけにはいかないわね。どうする、家に来る?」
「え? おねぇさん家?」
「ええ、私、一人暮らしだから」
「いいんですか?」
背筋を伸ばして、急に改まった口調に沙由流は苦笑した。
「言い出したのはこっちだし、別に、キミの一人ぐらい平気よ? あ、少し狭いけどね」
「そんなの全然構わないです」
「じゃあ、決まり。契約成立ね」
交渉成立とばかりに、茶目っ気たっぷりに手を差し出すと、
「よろしくお願いします」
少年は、差し出された細い手を握り返しながら殊勝に頭を下げたのだった。
ピンポーン。
お決まりのチャイムが鳴って、約束の時間が来たことを知った。
沙由流は台所の火を止めると、そのまま玄関へ出た。ドアフォンを覗く必要はない。この時間にやってくる人物は、今のところ一人しかいないのだから。
「いらっしゃい」
ドアを開けると、目の前には予想通りの顔があった。
ストレートのジーンズに、すこし変わったカットワークが入っているコットンのブルゾン。首に巻いている若草色のマフラーがよく映えている。モノトーンに紺のシンプルな色合いは、その子の雰囲気をいつも以上に大人びて見せていた。
制服姿しか見ていなかった所為か、少し新鮮だ。だが、肩に掛けた大きな鞄は見るからに重そうで、テキストや筆記具、勉強道具がたくさん詰まっている。そういうところは、やはり学生だ。
「こんにちは。お邪魔します」
軽く会釈をして玄関を潜る長身を招き入れる。
「うわぁ、いい匂い」
火を止めたキッチンからの匂いに相好を崩す。
「今日は、煮込みハンバーグ。お味噌と牛乳・チーズベースのソースなんだけど大丈夫かしら?」
「へぇ、食べたことないかも。でも、俺、基本的に何でも食えるから、平気」
「そう?」
中に入るとその子は、寛いだ表情を浮かべて、すでに指定席になりつつあるテーブルの脇に鞄を置いて、ソファに長身を沈めた。
それを横目に見ながら、ダイニングテーブルに二人分の食事を並べてゆく。
思いがけない速さで自分の日常の中に馴染みつつあるその存在を沙由流は不思議な気持ちで眺めていた。それを悪くないと思う自分。いや、思っている以上に嬉々として受け入れているかもしれない。歳がいもないと言ってしまえば身も蓋もないが、もう少し、この穏やかな時間を享受していたいと思ったのは本心だった。
期間限定家族ごっこ―――言葉にするならば、そんな関係だろうか。勿論、これはかなり主観的で一方的な考えだ。
「はい、お待ちどうさま」
外したエプロンをフックに掛けると、その子は嬉々としてテーブルに着いた。
穏やかでささやかな優しい時間が始まる。
チーズとお味噌と牛乳、意外に合います。これからの季節に煮込みハンバーグ。おいしいですよ。