21.複雑な男心と冬の空
同時期、渡良瀬家の家庭の一コマ。
珍しく早く帰って来た兄が、夕食を囲む食卓でぼそりと言った。
「この間、女の人と駅前を歩いてただろ?」
【今日の晩飯はホッケの塩焼きか】みたいな軽い感想の乗りで隣から呟かれた言葉に、弟の浬は口にしていた味噌汁を吹き出しそうになった。
慌てて口内に含んだ汁を飲み込んで、冷静さを装って隣に座る兄を流し見れば、兄は、ついと漬物に箸を伸ばし、行儀よく口に入れた所だった。
ゴキュゴキュと浅く塩漬けにされたキュウリが音を立てる。父親というよりはどちらかと言えば母に似た優しい顔立ちの澄ました表情からは、兄が何を考えているのかは読めなかった。
「いきなり、なんだよ?」
その後に続くであろう話の流れが気になるのか、浬は手を止めて、おもむろに隣を見た。
浬はその外見に、どちらかと言えば母よりも父親の遺伝子を多く引き継いでいるようだった。すっと通った鼻筋にやや鋭いきらいのある切れ長の目。母親の遺伝子を多く引き継ぐ兄が【柔】の印象であるならば、弟のほうは【硬】という感じだった。人当たりのいい兄に素っ気ない弟。兄弟と雖も対照的な印象を会う人には与える。それでも二人並んで立てば、やはりそこには血のつながった肉親としての類似点が見受けられた。
気まずい話であるならば、そのまま無視すればいいものを。一々言葉を返してしまう辺り、弟はまだまだ子供だ。いや、素直なのかもしれない。
ともすれば冷たい印象を与える、鋭いきらいのある目元を細めて警戒心剥き出しにこちらの出方を伺っている浬に、兄の樹は内心の可笑しさを堪えるように言った。
「否定は、しないんだな」
「兄貴が見たってんなら、言い訳しても意味ないだろ」
浬は、素っ気なく言い放って、小鉢の中の里芋の煮っ転がしを突いて口に運ぶ。
それは正しく正論だ。潔いところは昔から変わらない。
「別に、……隠すようなことなんかないし」
このまま強制的に線引きされるかと思っていた話が、向こうから続けられる形となり、兄は【おや】と思った。
本当のことを言えば、樹がそれを目の当たりにしたわけでは無かった。
残業中、小腹の空いた同僚がコンビニへ食料を仕入れに行った帰りに、駅前を歩く制服姿の弟らしき人物を見たと話していたのだ。その隣には、綺麗な女性が一緒だったと心底、羨ましそうな目をして語った。似たような制服を着た女の子と一緒であれば、【彼女か?】くらいにしか思わなかったのだろうが、見るからに会社帰りの年上の女性だったという点が、同僚の目を引いたらしい。ついでに明かせば、その女性が彼好みの綺麗な美人であったということだった。
近頃は話題に上らなくなったが、女子高校生の援助交際が社会的な問題として盛んに取り上げられたのはまだ、記憶に新しい。ホストクラブなどが定着している時代だ。お金を持て余した大人の女が青少年を金で買う。そんな構図があっても可笑しくはない。
「付き合ってるのか?」
「そんなんじゃない」
そんなことがチラついて、念の為との思いから聞いてみると、速攻で否定の言葉が返って来た。
「あの人には、勉強を教わってるだけ」
「家庭教師でも付けたのか?」
素朴な疑問を口にすると、おかずのお代りをよそってきた母親が、食卓に戻ってきていた。
「あら、そんなことはしてないわよ? なあに、浬、誰かにお勉強を見てもらってるの?」
のんびりとした口調で母親が話に加わった。
「この間、テストで英語の点がよかったのも、ひょっとしてその人の御蔭なの?」
ふわふわとした柔らかい雰囲気を身に纏う浬と樹の母親は、成人した子供を持つというのに、いつもおおらかでどこか若々しく、少し抜けたところがあった。外見もまだまだ若く、年の離れた姉といっても世間的には通用しそうな位だ。樹などは年をとるにつれて、この人が血を分けた母親であることを常々不思議に思わずにはいられなかった。
だが、親は、やはり親なのだ。見ているところはちゃんと見ている。鋭い嗅覚、基い、女の感に似たものを披露した母親に樹は尊敬の眼差しを送った。
「そう言えば、お前、大抵、土曜日、大きな鞄持って出かけてるよな」
どうでもいいことのように思えていた些細な日常が、突然、意味を持って繋がった気がした。
「あの中、勉強道具が詰まってるんだろ?」
前に座る母親と隣に座る兄から、穏やかではあるが、逃げを許さないような笑顔で問い詰められて、浬は視線を泳がせた。二対一はどうしても分が悪い。やがて逃げ切れないと観念したのか小さく溜息をつくと、ぼそりと白状した。
「土曜日、知り合いに英語を教えてもらっているだけだよ」
「それが、例の女の人?」
兄の問いに弟は小さく頷いた。
「学校の先生とか、予備校の教師なの? それとも、家庭教師のアルバイトをしてるような学生さん?」
初めから話が筒抜けだったのか、母親が女性の素性を訊いた。
「いや、違う。多分、普通の会社員だと……思う」
浬自身、その人のことをよく知る訳ではなかったので、如何しても曖昧な返答になった。
「多分って、なあに。浬もよく知らないの? それじゃぁ、どうやって知り合ったの? 誰かの紹介?」
ニコニコと穏やかな微笑みを浮かべながらも、母親は鋭い質問を繰り出す。母が見た目程、甘い性格をしていないのだと思い知るのはこういう時だ。
浬はどうやってこの厳しい追及を逃れようかと考えを巡らせながら、誤魔化すようにほうれん草のお浸しに箸を付けた。
今が旬のほうれん草は、咀嚼した途端、独特の苦みが口の中に広がった。
人生は甘くない。
野菜からもそう突きつけられた気分になる。
「ええと、偶々? 知り合ったのは………駅前のカフェ」
「年は幾つくらいなの?」
「知らない」
年上だということは分かるが、面と向って年齢を尋ねたことはなかった。浬にとって、相手の年齢は気にならない瑣末なことだったのだ。
だが、その反応に兄は呆れたような顔をした。
「へぇ。つまり、浬は、偶々、知り合った女性会社員に英語を教えてもらっているってわけ。見返りは?」
「は?」
「そうよ、浬。まさか、相手のご好意におんぶに抱っこ状態な訳?」
まぁ、それは大変だわと母親は急にそわそわとしだした。
言われて、漸く浬は、自分が相手の好意に思い切り甘えていることに気が付いた。今更ながらではある。その人に対しては、お金のやり取りをしているわけではない。このまま、だた、教わるだけでは心苦しいことを相手には伝えてあったが、その人は、自分が好きでやっていることであるから、そんなことは気にしなくていいのだと穏やかに微笑むだけで取り合ってはくれなかった。一人ではどうしても作り過ぎてしまうから、偶にこうしてご飯の相手をしてくれればいいと言って、お手製のお昼ごはんをご馳走になっている始末だ。勉強を教わっている上に、美味しいご飯までご馳走になっている。それを聞いたら、母も兄も驚きを通り越して酷く呆れるに違いない。自分だって、そんな話を人から聞けば同じことを思うだろう。
浬はバツが悪そうに口を噤んだ。
「まさか、相手のボランティア精神って訳なのか?」
黙ったままご飯をかきこむ浬に追い打ちをかけるように兄が言った。浬の沈黙を兄は肯定と取ったようだった。
「つくづく世の中には奇特な人がいるもんだなぁ」
しみじみと口にする。そのまま、ずいとお味噌汁を啜って、相変わらずその表情は何を考えているのか分からなかった。
「ろくなお礼もせずに、勉強を見てもらってるなんて。それはよくないわ。相手の方にも申し訳なさすぎる。いい、浬、一度、その人を家に連れていらっしゃい。日頃お世話になってるお礼を兼ねて、皆で食事をしましょう。そう、それがいいわ。ねぇ」
いい考えだとばかりに母が目を輝かせて両手を合わせた。
いきなりの話の展開に浬は度肝を抜かれた。
「え? いや、さ、相手の都合も…その…あるだろうし」
動揺からしどろもどろになる受け答えを母親は意に介さなかった。
「どうせ、まだ、まともなお礼をしていないのでしょう。それなら家に招待するのが一番手っとり早いのよ」
「それは…そうだけど」
そこで納得してしまう辺り、親子である。
「いつも土曜日はどこで勉強を教わってるの?」
「あ…その人の…家」
それを聞いて樹はちょっと驚いた。一人暮らしなのかは分からないが、健全な男子高校生を自宅に上げて、勉強を教えるというのは、随分と踏み込んだことではないか。
「随分親切な人なんだな」
少し皮肉を込めて口にしたつもりが、
「ん。それは…俺もそう思う」
逆に素直に認められて、兄としてはやや肩透かしを食らった気分だった。
今どき、そんな何の見返りもなしに、親切心だけでそこまでしてくれる人が果たしているだろうか。
社会人二年目、それなりに社会に出て、世の中を見ている兄としては、弟の受けている恩恵に懐疑的な気持ちの方が勝っていた。
同じ職場にいるOL達はもっと打算的だ。女の計算高さを知っている自分には、俄かに信じがたい話だった。
弟は騙されているのか。いや、こんな高校生の子供を騙すなんて高が知れている。相手には何のメリットもない筈だ。
穏やかな顔で夕食を咀嚼する兄の仮面の下には、表には出さないだけで、様々な感情が渦巻いているのであった。
浬と樹の歳の差は八つ。いくら無愛想で、自分とさほど背丈の変わらない体格をしているとしても、弟はやはり可愛いものなのだ。
母親の追跡は、まだまだ続いていた。
「その人は、どこに住んでるの?」
「ここから三つ先の駅」
「あら、なら結構近いのね」
母親の頭の中では、すでにその人を招待する為の計画が始動していた。一度スイッチが入ってしまえば、家族内では誰も止められない。
それに樹としても興味が湧いてきた。樹としては弟が他人から勉強を教わっているということが少し意外だった。弟は自分が興味を持つもの以外は、冷めた反応を返す素っ気ない所が昔からあった。周囲からの過剰な好意を【うざい】【面倒くさい】の一言で、ばっさりと切り捨てる。その容赦のなさは、反発を生むどころか、逆にクールとしていいように変換されているようだった。女の子の考えていることはよく分からない。
そんな弟が大人の女性に英語を教わっているという。一体、どんな顔をしてその女性に対峙しているのか。そしてその人は、どのように弟を見ているのか。家族としては、酷く気になる所であった。
きっとその想いは母も同じであるのだろう。
「いい、浬。次お会いしたときには、必ず先生の予定を聞いておくのよ?」
母の中では、その人はすでに【先生】として認識が変わっていた。傍観者の兄としては、そこに女同士の鍔迫り合いが入らないことだけを祈らずにはいられなかった。
そんなこんなで話が盛り上がっている最中に、父親が帰宅した。母は、嬉々として事の次第を父に話し、それ以上、話が妙な方向に飛び火するのを恐れたのか、一足先に食事を終えた浬は、そそくさと自室に引きこもったのだった。
兄はそんな弟の後ろ姿を、可笑しそうに眺めていた。