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20.奇跡と偶然と日常の間にある

時間を遡って。二人が出会った頃のお話です。執筆当時の世界情勢がそのまま、反映されています。少し古い話になりますが、ご容赦ください。


 ラジオから流れる話題に始まり、テレビの特集も、ショーウィンドーのディスプレイも、街中が今はバレンタイン一色に染まっている。ウン十年前に始まったチョコレート会社の陰謀は、今や恋する乙女たちを始めとする全国の女性を躍らせる一大イベントにまで発展した。

 そもそも男がチョコレートを貰って喜ぶだろうか。勿論、嗜好品としての純粋な意味で。

 それは随分と前から思っていた素朴な疑問だった。

 甘いお菓子に目がないのはいつの時代でも女の方だ。チョコレートで擬態された形にならない感情。そこにある見えない付加価値を取り去ってしまえば、カカオと脂肪分と砂糖の塊。公にチョコレートが好きだと豪語する男を未だかつて目にしたことはない。

 

 セルフ式カフェの窓際、カウンターに並ぶ丸椅子の一つに腰を下ろして、ガラス越しに、行き交う人波をぼんやりと眺めながら、そんな取り留めのないことを考えていた。


 そう言えば、今年は【逆チョコ】なんて銘打って、男の子から好きな女の子にチョコを贈ろうというCMをやっていた。不景気の煽りを受けてか、義理チョコ市場は縮小傾向にある。業界側も新たな顧客層を探し出そうと必死だ。

 そこに付属している気持ち云々は別にして、女の子であれば、チョコレートは純粋に嬉しい贈り物だろう。この空気があと十五年は早く出ていたら、何かが変わっていただろうか。そんな馬鹿げたことを思わず考えてしまうなんて、どうかしている。


 視線を読みかけの雑誌に戻す。会社帰りにここで一杯のカフェ・オレを飲むのは今では日課みたいなものになっていた。それはONとOFFを切り換える為の緩衝材。仕事での失敗や人間関係のしがらみなど、もやもやとした感情を家に持ち込まないための自分なりの防衛策だった。

 仕事は良くも悪くも充実している。ただ、滑るように流れてゆく毎日に少し辟易していた。何かが足りない。今、自分から仕事を取ってしまったら、何が残るだろうか。一度、マイナスにぶれた思考はどんどんと悪循環にはまり込む。


- What is your goal in your life? (この先、何を目標に生きていく?)

- What is your dream? (かなえたい夢は?)


 それは、とても恐ろしい問いだった。

 目指すべき終着点は? 目的地を失った船は、当て度も無く漂流する。

 気がつくと、大きなため息を吐いていた。

 ガラスに反射するもう一人の自分は、浮かない顔をしている。自嘲するように微笑んでみて、口の端が僅かに引き攣るのが分かった。

 鏡に映る顔と写真に写る顔は随分と違って見える。自分では他人が見ているような己れの表情を理解することは不可能だ。





「ココ、いいですか?」

 細長いテーブルの上、すぐ隣に置かれたテイクアウト用の簡易カップに、私の意識は浮上した。

「あ、どうぞ」

 店内が混んで来たのだろう。咄嗟に当たり障りのない返事を返すと外側に置いていた鞄を自分の方へ引き寄せる為に腰を屈める。

 その途端、目に入って来たのは、黒い革の紐靴、濃いグレーをベースにしたチェックのズボン、濃紺のブレザー、極めつけに強化ナイロンの学生用の鞄。高校生らしき制服だ。

 鞄の位置を変えて、体を起こす。

 次に目に飛び込んで来たのは、優しい綺麗な淡い若草色。視線の辿りついた先は、首に巻かれていたマフラーだった。その色彩の美しさに暫し見惚れた。

 

 そう言えば、もう春なのだ。立春を過ぎ、暦の上では春となった。もうすぐ梅も咲くだろう。

 ああ、またこの季節がやってくる。

『東風吹かば 匂い起こせよ 梅の花 主なしとて 春な忘れそ』

 思い浮かべるのは、かの有名な菅原道真の辞世の歌だ。

 

 慣性の法則にしたがって視線を上げれば、高校生らしい男の子の横顔が目に入った。


 すっかり温くなったカフェ・オレを啜って、再び、雑誌を捲る。タイトルはNEWSWEEK。なんだかんだ言って、もう十年近く購読している。幾らインターネットが普及したからと言えども、やはり、人生の大半を紙とペンのアナログ時代で過ごしてきた自分には、紙の媒体の方が、馴染みがあった。

 アメリカでは初の黒人大統領が誕生した。イスラエルの攻撃に国際社会の非難が集まっている。サブプライムローンの破綻に端を発した世界的な景気の悪化。悪い話ばかりが目につく。


 ふとガラス越しに、隣の高校生と目があう。

 そのまま、私の視線は一点を捕えていた。

 無意識に人間観察をしてしまうのは悪い癖だ。電車の窓ガラスでも思うことだが、実際には本当に相手と目があっているものなのだろうかといつも不思議に思っていた。

「あ、の……俺の顔に、なんか、付いてます?」

 ガラス越しの人物が躊躇いがちに、少し困ったように口を開いて、私は漸く自分のやっていることに気が付いた。

 慌てて視線を横へずらすと、今度は実物の方と視線がかち合った。

「あ、ごめんなさい。なんだか今日はぼうっとしていて。別に深い意味はないのよ?」

 妙に言い訳がましい言葉が口をついて出ていた。

 逆に無茶苦茶怪しいではないか。

「キミの顔はなんともないの。ただね。前から少し不思議で。電車でも時折思うんだけど。こうガラス越しに他人と目があったりするでしょ。それって、相手にも同じように見えているのかしらってね。無意識にちょっと実験しちゃったみたい。気分を害してしまったら、ごめんなさいね」

 見ず知らずの相手にいきなり不躾な視線をぶつけられて不愉快に思わないはずはない。素直に謝りつつも、あわあわとまくし立てるように言葉を並べていた。

 その子は無表情のままこちらを見ていたかと思うと、突然に小さく噴き出した。

 ああ、恥ずかしい。いい歳をした大人が。これでは挙動不審な怪しい女ではないか。

 居たたまれない気分になって、視線を窓の外に映す。



「その実験結果の推測ですけど、合ってると思いますよ?」

 おもむろに隣から可笑しさを滲ませた低い声が漏れた。

 反射的にガラス越しに男の子の顔を見る。透明なガラスに投影されたその子は、真っ直ぐにこちらを見ているように見える。そのまま、その子は静かに口を開いた。

「ガラス越しでも目があったと感じた場合、相手も同じように見てるということですよ。例えば、そう………今みたいに」

 黒い切れ長の瞳が私を捕えていた。莫迦らしいはずの私の疑問に真面目な答えが返って来た。

 淡々とした口調。高校生にしてはやや硬質の少し大人びた雰囲気。


 ガラスに映ったその子は、口の端をほんの少しだけ吊り上げた。分かるか分からないかの微かな笑みだ。素っ気ない態度とは裏腹に、案外、この子は真面目で親切な性質なのかもしれない。そう思うと自然と口元が弧を描いていた。

「そう、ありがと。お蔭で長年の疑問が解消したわ」

 無表情のまま、ガラス越しにコーヒーを啜る高校生に、感謝の意を込めて微笑み返した。

 再び目があうと、その子は、

「いえ、別に、大したことじゃ」

 やや俯き加減に視線をずらしたのだった。

 照れているのかも知れない。そんな仕草が妙に年相応で微笑ましく見えた。


 

 ひょんなことから長年の疑問が一つ解決し、すっきりした気分で開いていた雑誌のページを捲くった。今年は、毎年この時期になると取り上げられているバレンタイン向けプレゼントの記事が載っていない。楽しみにしていただけに少し残念な気分になる。アメリカではバレンタインの時期にはカードやプレゼントを贈り合う。恋人達の時間だ。チョコレートで告白をしようという日本とは随分と次元の違う過ごし方だ。

 Happy Valentine! ―――なんて自分には関係がないけれど……。

 そんな自虐的な思考にはまりこもうとした矢先、

「英語、得意なんですか?」

 気がつくと、隣の高校生が興味深そうに少し身を乗り出して目の前のページを指示していた。

 すっと伸びた指先は長く骨ばった男の手だ。その形の良い指に、何故か惹きつけられた。


 男の人の手は、私が好きな部分だ。特に長い形状の指に惹かれる。細すぎず、太過ぎず、適度な重量感のある、すらりと伸びた指。フェチズムと言ってしまえば、身も蓋もないが、恐らく似たようなものだと薄々感じている。ただ面と向って正直に認めるには些か羞恥が勝るだけで。端的に言えば、その子の指は中々に理想的な形をしていた。

「うん? 別に特別、得意って言う訳じゃないと思う。普通かしら。好きではあるけど。言葉は情報収集の手段の一つに過ぎないし。これは習慣みたいなものかしらね」

 そう、これはもう、日常にすっかりと組みこまれてしまった習慣だ。

「キミは英語が苦手なの?」

 行間に含むものを探るように慎重に、それでもさり気なさを装って口にする。

「苦手って程の意識はないけれど、得意とも言えないか。つぅことは普通?」

 少し、考える風に首を傾げた。曖昧で微妙な線引き。時折、交る素の言葉遣いは今時の高校生だ。

「質問を変えるわね。どちらかと言えば好きな方? それとも嫌い?」

「どうだろ、好きとか嫌いとかは考えたことがないかも」

 言語の習得において、正の感情はインセンティブにはなるが、負の感情はマイナスにしかならない。感情を挟まないことは、それはそれでいいのかもしれない。我々は日常、日本語である母国語を話すのに一々好きだとか嫌いだとかを考えることはしない。

「でも、こういうのには興味がある?」

 私は開いていた雑誌をその子の前に滑らせた。

「何読んでるのかなって思って」

 雑誌のタイトルが分かるように表紙を捲って見せた。

「キミは…高校生よね。何年生?」

「一年」

「そう。一年生には、まだまだ難しいかもしれないわね。でも、全く読めないって訳じゃないと思うわ。英語って言っても、言葉は要するに情報の伝達手段、道具に過ぎない訳だから。そう堅苦しく考える必要はないのよ?」

「おねぇさんは、何のためにこれを読んでるんですか?」

「面白いから……かしら? これはアメリカが発行元の雑誌だけれど、向こうの人が何を考えているのか。単にどんなことが世界で起こっているのか。日本のことが記事になっている時は、外からはこの社会はどういう風に見えているのかとかね。キミだって本屋さんで面白そうだなって思う本や雑誌を手に取るでしょ? それと同じよ。まぁ、私の場合、それに言葉を忘れない為って言うのも加わるけど」

「帰国子女、なんですか?」

「ううん、違うわ。生粋の日本人。学生時代は、それなりに勉強したからね。外国語って毎日触れてないとすぐ忘れちゃうものなのよ。これは本当。折角、習得しても使わなければね。要するに老化防止のため?」

 人間の脳細胞は二十歳辺りをピークに減少してゆく。人間は持っている脳の数パーセントしか使っていないと言うが、それでも私の脳はもう頭打ちだ。

「ふーん」

 相槌を打った後その子は、控えめに口を開いた。

「あの…ちょっと聞いてもいいですか?」

 そう言って、下におろした鞄を漁って英語の教科書を取り出した。

「授業でどこか分からないところでもあった?」

「今日、習ったところなんですけど、どうしても理解できない個所があって…」

 そう言って開かれたページには、綺麗で丁寧な字で書き込みがなされていた。それだけでこの子が几帳面でしっかりした性格をしていることが読み取れる。

 懐かしい気持ちで教科書の文章を眺めているとその子は、とある文章を指示した。

「ここです」

 さっと目を通してみる。単語的には難しいものはない。それは、説明文的なやや堅苦しいきらいのある文章で、少々回りくどい感じだった。

 確かにこれは少し分かりづらいかもしれない。話を聞くと文の繋がりが分からないという。

「話の内容は分かる?」

 どんな話が展開されているのか、バックグラウンドを知ることは文章を理解する上では重要だ。

 こちらの質問にその子は頷いた。

 それなら話は早い。分かりづらいのは、説明的な修飾の文章が長々と続いているからだろう。日本語でも、要点のないだらだらとした文章は理解しがたい。それと一緒だ。

 ちょっとしたヒントを提示する。英語は言いたいことが必ず先に来る。誰が何をしたいのか。誰が何をどうしたのか。誰が何をどうするのか。主語の次は必ず述語というべき動詞だ。そこを押さえて、もう一度文章を眺めてみれば、見えてくるものがある。

「ここを区切って見ると、どう?」

「あ、そうか」

「分かった?」

「はい」

 飲み込みが早いのか、基礎がしっかりしているのか、その子はすぐに理解を示した。それを褒めると途端に嬉しそうな顔をした。そういうところは年相応な感じがする。

「ありがとうございます。助かりました」

 目線を合わせて、きちんと礼を述べる。意外に礼儀正しい子だ。

「いいえ、どういたしまして」

 ついこちらまで嬉しくなって、いいことをしたという気分もあいまってか、釣られるように微笑んでいた。


 気がつけば、おまけとしてちょっとした外国語学習のコツなんかも教えていた。

 私も昔は同じように苦労をしたのだ。人生の先輩として、経験を語ってやるのも悪くはないかもしれない。

 それから、その子とは、取り留めもない話をした。こんな歳の離れた子と世間話的に言葉を交わしたのは初めてだ。でも、そんなことを態々気にする間もなく、いつにもまして時間の進み具合は早かった。



 腕時計で時間を確認すると店に入ってから三十分は経過していた。随分と長居をしたものだ。

 なんだか、やけにすっきりとした気分で外に出ると、後ろからその子も付いてきた。

 帰る方向を聞くと、どうやら同じく駅に行くらしい。よく聞いてみると同じ路線の電車だった。


 私が住んでいる場所は、これから向かう駅から電車に乗って三つ目の駅だ。自宅であるマンションの一室は、駅から歩いて約五分。通勤には申し分のない近さだ。

 隣を歩く高校生は、私が下車する駅よりも、もう三つほど行った駅の名を告げた。そこから歩いて二十分。急いでいる時は自転車に乗るのだとか。

 

 帰りのラッシュの人ごみに紛れて、私はいつもより軽やかな気分で、自分の駅へ降り立った。

 誰かと家路を歩く。ただそれだけのことが、こんなにも自分の気持ちを左右するとは思いもよらなかった。

「それじゃぁ、お休みなさい」

 時刻は未だ宵の口。若干、早すぎるきらいのある挨拶を口にしてから、ホームの上で、発車する電車を笑顔で見送る。

 お馴染みの破裂音の下、閉まる扉の向こう、ガラス越しにこちらに向かって軽く手を上げたあの子が、雰囲気だけで微笑んだのが見えた。


暫くは、この時間軸での話が続きます。

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