18.Sepia Magic
少し長くなりますが、お付き合いください。
【控え室】とマジックで大きく書かれた紙が、風にそよいでひらひらと揺れる。
手にはペットボトルの飲み物が数本入ったビニール袋が二つ。忙しそうに歩き回る子たちをみかねて、ちょっとしたお節介を焼いた訳だ。
もうすぐ、結果発表と授賞式が行われるらしい。中には、すでに関係者達が集まっているだろう。お祭り騒ぎと雖も企画側の人間の表情は、真剣そのものだ。
「あの、すみません」
ドアノブへ手を掛けようとした矢先に呼び止められた。
振り返ると、ここの制服を着た女の子が、三人立っていた。
「写真、撮ってもらってもいいですか?」
差し出されるデジタルカメラに、合点がいった。
「いいわよ」
軽く微笑んでその申し出を受ける。
何故か知らないが、観光地へ行くと必ずと言っていいほど、旅行客に写真を撮ってくれと声を掛けられるのだ。メカ音痴というわけでもないが、それほど器械に詳しいというわけでもなく、他人のカメラを手にするのは、使い勝手が違って困惑することの方が多いのだが、何度も似たような状況に陥る為、シャッターを押すぐらいは気にならなくなった。最近はフィルムよりもデジタルが主流だ。フィルムを現像に出すまでもなく、撮ったその場で映像の可・不可が判定できるのだから、以前よりは随分と気が楽だということもあるだろう。
ドアの傍に無造作に置いてある、いかにも学校備品という感じの事務用の長机の上に、手にしていたビニール袋を置いた。
代わりにシルバーのカメラを手にファインダーを覗く。
「どの辺がいいかしらね」
記念撮影をするには、ちょっとどうかと思わないでもない雑然とした空間。柔らかい日差しが差し込む窓とそこから覗く景色が唯一の救いか。それでも窓を背にすると逆光になってしまう。
「窓側だと逆光になるから、そっちの壁側の方がいいかな」
その提案に、女の子三人は楽しそうに壁際に寄った。
「じゃぁ、撮るわよ?」
「はーい」
普段から仲が良いのだろう。和気藹々と体をくっ付けて、生き生きとした表情にシャッターを押す。
元気一杯の笑顔、少しはにかむような微笑み、大きく開いた口から覗く白い歯が眩しい位だ。
少し、着崩した制服。膝上十センチはあるだろう短いプリーツスカートに脚を惜しげもなく晒して。寒さなんて平気。これは、この時期だけに許される特権だ。
「はい、これでいいかしら?」
ブレがないこと等を画面上で確認してもらい、終了。
「ありがとうございます」
弾んだ謝辞の言葉に微笑みを返して、途中になった用事を済ますべくビニール袋に手を掛けた所で、
「あの……関係者の方、なんですか?」
三人の内の一人が、私と目の前にある扉の顔を見比べながら、躊躇いがちに口を開いた。その子の目線は、ドアに貼られた白い紙【控室 関係者以外立ち入りを禁ず】、少し癖のあるマジックの字体へ注がれていた。
「関係者?」
質問の意図が分からなくて問い返した私に、その子は少し恥ずかしそうに横にかかる髪を耳に掻き上げた。両隣りに立つ女の子からも期待の籠るような眼差しが向けられて、事情がいまいち掴めない私は、困惑する。
「ここ、コンテストに残ってる人たちの控え室ですよね」
その子は、扉を指で指示した。
何故、それを部外者である私に聞くのだろう。同じ生徒である彼女たちの方が情報に敏い筈であるのに。
「ここの表記が間違っていなければ、そう……だと、思うけど。多分」
もうすぐ時間だからと言われて、掲示板の前から移動した浬たちに付いてくると、ここに通されたのだ。中には他にも人が集まりつつあった。詳しいことは分からないが、多分、この場所が、その控え室なるものなのだろう。
歯切れの悪い私の返答に女の子達は、顔を見交わした。
彼女たちに私はどう見えているのだろう。少なくとも教師と間違われている訳ではないだろうに。実に不思議な現象だ。
「中に知り合いの子がいてね。私は、雑用?」
手にしたペットボトルの袋を掲げて茶化すように微笑んで見せる。すると釣られるように女の子達もくすくすと笑った。
納得してもらえただろうか。
「あの…」
意を決したように一人の女の子が顔を上げた。ふわふわとした茶色い髪が揺れる。
「こんなことを頼むのは、筋違いだと分かっているんです。でも、中にいる人たちの写真が欲しくて……。今から中に入るんですよね。……お願いしたら、ダメですか?」
顔を若干赤らめて、おずおずと出された申し出に、私はどうしようかと苦笑を滲ませた。
分かりやすいと言えば分かりやすい反応だ。中には憧れの生徒がいて、その人の写真が欲しいという。そう言えば、自分にもそんな時期があったなと懐かしさに目を細める。思い出すだけでも恥ずかしいが、今となっては、何だか妙に独特で切なさの残る思い出だ。
「どうかしらね。ええと、どの子のことか、教えてもらってもいい? 中にいる全員と知り合いな訳ではないから、私で分かるかしら」
微笑んでそう告げると、その子達は私の知らない名前を口にした。
「中には写真を撮られることを嫌がる子もいるだろうから、期待に応えられるかどうかは約束が出来ないけれど、一応、聞いてみるわね」
途端に浬の顔が思い浮かぶ。嫌そうに顔を顰めて。一緒に校内を歩いている時も、携帯のカメラを片手に記念写真を撮って欲しいという女の子達の熱い眼差しと勇気ある要望を、ばっさりと切り捨てていた。傍にいるこちらがハラハラしてしまう程に。
正直、厄介なことを頼まれてしまったと思った。本当にその人物の写真が欲しいなら、直接本人にお願いした方がいいだろうに。第三者が中途半端に絡んでも、ろくなことにはならない。ダメと言われる可能性だって十分ある。特に見ず知らずの赤の他人からそんなことを切り出されたら、普通に考えてぞっとするだろう。いくら私が浬の知り合いだからと言っても、譲れない線引き、限界は確かにあるのだ。それよりも同じ学校の生徒であるその子達の方が余程接点があるだろうと思うのに、どうしたものだろう。
「余り期待しないでね」
恐縮そうに、それでも嬉々として差し出されたデジカメを私は内心、困惑して受け取った。
直前で増えた小荷物を手に、ドアをノックした。
ビニール袋を手にすると、後方からの期待に満ちた視線を感じて、どうも居心地が悪い。
「開けてもらえるかしら?」
生憎両手は塞がっている。ダメ元で掛けた声に、内開きのドアが勢いよく開いた。
「おかえり」
まるで、玄関先で主人の帰りを待ちわびている従順な大型犬のような反応の良さに苦笑する。
私が手にしている袋を見るなり、浬は目を見開いて荷物を引っ手繰った。
「うわ、沙由流さん、マジ、ごめん、重かっただろ?」
急に軽くなった掌の感覚に、気持ちがふわりと綻ぶ。
「ありがと」
「だから俺が一緒に行くっつったのに、あの野郎」
頻りにぶつぶつ呟いている浬に私は目を細めた。
後ろを振り返って、軽く会釈をする。【少し待っててね】という意味を込めて。
だが、彼女たちは、やや呆気に取られたような顔をして、私の肩越し、扉の向こうを見ていた。その先にあるのは浬の背中だ。
もしかしなくとも、選択を誤ったか。
思わず零れた苦笑い。これは、前途多難だ。
「「「沙由流さん、おかえりー」」」
「ただいま」
元気のいい掛け声に微笑んで、
「すいませんでした。買いだしなんかに行かせてしまって」
恐縮そうに眉を八の字に寄せる実行委員長に、心配はいらないと微笑み返す。
「いいのよ。この位。遠慮しないで。どうせ手が空いているんだから。使えるものは使って構わないのよ?」
「ありがとうございます」
委員長は実に爽やかな微笑みを浮かべた。中々の好青年である。
集まった人数に飲み物を配るべく、紙コップと買ってきたものテーブルに並べた。
「お茶がいい人は?」
「はーい」
「あ、俺ジュースがいい」
「ポカリある?」
「オレンジジュースとアクエリアスならあるけど、ポカリは無かったわ、御免なさいね」
苦笑気味に返せば、浬が途端に眦を吊り上げた。
「お前ら贅沢言ってんな。んなの自分で買ってこい」
「怖ぇ~」
冗談混じりの野次が飛びかう。
我儘放題で収集がつかなくなりそうな雰囲気を軽くあしらって、飲み物を渡してゆく。
こんな所で何をやっているんだろうと思わないでもない。しかも、高校生相手に。これでは世話焼きの近所のおばさんもいいところだ。
それでも楽しいのだから仕方がない。軽やかで軽薄な空気に感染するように、私は始終、笑みを絶やさなかった。
違った種類のざわめきに顔を上げる。教室の反対側には女の子達が集まっていた。突然に介入してきた異分子に皆、怪訝な表情を隠さずにいる。分かりやすい反応だ。
「はい、どうぞ。お茶でよかったかしら? 少ないけれど他にもあるから言ってね」
穏やかに口元を緩めながら女の子達にも紙コップを渡す。
「あ…りがとう…ございます」
チラリと探るような視線とぶつかる。彼女たちのもの問いたげな空気を社交辞令的笑みでするりとかわしていった。
「手伝います」
そのうちの一人の女の子が声をかけてきた。長い髪に眉毛の上で切りそろえられた前髪。日本人形のような可愛らしさだ。慣れているのかテキパキとした動作で残りの子達にも声を掛けてゆく。率先して自分から動く、委員長タイプの子のようだ。
「ありがとう」
お礼を述べるとその子は、さらりとした微笑みを浮かべた。しっとりとした見た目とは違って、案外さっぱりとした性格なのかもしれない。
最後にその子に紙コップを渡すと、
「あの、聞いてもいいですか?」
興味深々といった感じを隠さずに切り出してきた。
「どうぞ」
同じようにコップを手にして、微笑んだ。
「この学校の方、ではないですよね?」
「ええ、違うわよ」
口をつけたお茶は、少し苦味があった。
「私がここに混ざっている理由が気になる?」
「はい」
すぐさま返って来た素直な肯定の返事に少し傷ついている自分を訳が分からないと思いながら、苦笑を浮かべた。
「そうよね。部外者が混じっていたら吃驚するものね。気分を害してしまったら御免なさいね」
「いえ、そういう積りじゃないんです」
その子は少し驚いたような顔をした。
「そうじゃなくて、おねぇさんが、すごく馴染んでいるから。あの人たちに。それが、ちょっと意外で」
そう言ってその子は、向こうで寛いだ表情で思い思いに散らばっている制服の集団へ目を向けた。
「意外?」
その言葉にその子は、一瞬、悪戯っぽい顔を浮かべた。
「あの人達、学内外でも人気があるには違いないんですけど、少し癖があるっていうか、皆、女子に対しては一線を引いてるというか、割と素っ気ないことで有名なんです」
「そうなの?」
私はその言葉に目を丸くした。
全員という訳ではないが、彼らから私が受けた印象は随分と違っていた。皆、それなりに人当たりがよくて、人懐こい感じがする。それは私が年上だからなのか、浬を通じて知り合いになったからなのかは、分からない。
「だから、大抵の女の子達は、遠くから見てるって感じで。中には積極的に話しかけようっていうチャレンジャーもいますけど。大抵は玉砕してますよ」
少し、自虐的に、それでも可笑しそうに笑った。
「特にガードの固いのが、あの二人なんです」
とっておきの秘密を打ち明けるようにその子が目くばせをする。その視線の先を辿ると、自分がよく知る顔が見えた。
こちらの視線に気が付いたのか、目があったあの子は、【何だ?】という顔をした。それに何でもないと軽く微笑む。
今日は自分の知らないあの子の一面が沢山、目の前で展開されている。それは嬉しい発見でもあり、可笑しい発見でもあり、そして、少しの切なさみたいなものに包まれていた。
あがいてもどうしようもない歴然とした時間の差が横たわっていることを思い知らされるのは、こういう時なのかもしれない。私は、それに出来るだけ気がつかない振りをしていた。
私は軽く相槌を打って、自分の立場について少しだけ種明かしをした。勿論、必要最低限の誤解を与えないぐらいの所だ。
あの中に自分の知り合いがいること。
それで芋蔓的に彼らと知り合いになって、オマケでここに連れて来てもらったということ。
「そうだったんですか」
それを聞くと、その子は、しみじみと納得がいったように呟き、微笑んだ。
「そう。だから、気にしないでくれると…助かるかな?」
「そうですか。でも、私としてはちょっと得した気分です」
「あら、どうして?」
「いつもとは違う彼らの一面が見れたから」
そっとお互いに顔を見交わして小さく笑いを零した。
「何してんの?」
影が差したかと思うと目の前に浬が立っていた。不機嫌そうに細められた目が、構ってくれないと拗ねている捻くれた子犬のようだ。
「女同士、女子高校生と交流を深めてみました?」
隣に目くばせをして告げれば、浬は器用に片方の眉を吊り上げた。
そして、小さく溜息をついて、無言で私の腕を掴むと引っ張った。
「ちょっと、浬?」
「沙由流さんは、こっち。お客なんだから、座っててよ」
ぐいぐいと引っ張られて、辛うじて、振り向きざまに残してきた女の子に【ごめんね】と苦笑を送った。その子は意外なものを見るように少し目を見開いて、それから、さも可笑しそうに笑っていた。
「―――あの、ですね。座るのは別に構わないんですけれど……。これはどういう訳なのかな、浬くん」
私が強制的に腰を下ろされた場所は、部屋の中に乱雑と置かれている、固さのあるパイプ椅子ではなかった。肉付きは薄いが、それでも確実に弾力のある人間の膝だ。
この体勢は人目がある所では、どうかと思う。
私は浬の片方の膝の上に半ば横向きに乗り上げる形になっていた。
「重いでしょ。足が痺れちゃうから、ね」
身じろいでも、腰に回った拘束は思いの外強い為、びくともしない。
「平気。椅子、足んないんだから、これでいいの」
すぐ近くにある薄い唇が機嫌よく、調子の良い言葉を紡ぐ。
「キミがよくてもね。この体勢はどうかと思うわよ。ほら、皆、吃驚しちゃうでしょ?」
焦る私を余所に、浬はいつにもまして涼しい顔を張り付けて自分のペースを崩さない。
隣にいる市川くんは苦笑い。事情を知る北宮くんも呆れたような顔をしている。
その他の顔ぶれを……確かめる勇気はなかった。壁の反対側へ目をむけるなんてもっての外。バシバシと突き刺さるような視線が痛い。
私は羞恥に内心、どっぷりと溜息を吐いた。
「あぁぁ、いいなぁ。っていうか、渡良瀬って、そういうキャラだったっけ?」
そのまま、私の肩に器用に顎を乗せた浬の様子を見て、佐治君がからかいの声を上げた。
何故か満面の笑みを浮かべて、にこにこしている。私は居た堪れなさを誤魔化すように、ちょっと肩を竦めて、曖昧な笑みを浮かべるしかない。
当の浬は、友人のからかいをあっさりと無視した。
「何それ」
その言葉に視線の先を辿る。そこで、腕に絡まってるデジカメの存在に気が付いて、まだ自分が頼まれた目的を果たしていなかったことを思い出した。
「ああ、これね。外にいる女の子に頼まれちゃって」
曖昧に苦笑を浮かべると、浬はあからさまに嫌そうな顔をした。
「まさか、中の写真でも撮って来いって?」
相変わらず鋭い。
「まぁ、…どうやら特定の人物…らしいんだけど、ね」
視線を彷徨わせて言葉を濁す。
「片桐くん……て、どの子?」
声を潜めて訊くと、浬はすっと目を細めてから、辺りへ素早く目を走らせた。その視線がある一点で止まる。
「片桐」
声を掛けると、窓際で頬杖を突いていた男の子がゆっくりと振り返った。
それを見て、私はやっぱり選択を誤ったことを知る。
「何?」
面倒臭そうな声に、冷ややかな視線がこちらを射抜いた。無表情の顔からは、感情が読み取れない。それでも機嫌が余り良くないことは、そこはかとなく漂う空気から感じ取れた。
そっと浬に合図を送って、膝の上から立つ。拘束はあっさりと外れた。
「突然、ごめんなさいね。ええと。嫌だったら、勿論、断ってくれて構わないんだけど」
きちんと前置きをしてから反応を伺う。
「外にいる女の子に、キミの写真が欲しいって頼まれちゃって」
その子は、チラリと私の手にしていたシルバーのカメラを一瞥した。
「却下」
ぶすりと不機嫌そうな声が漏れて、予想通りの回答に、私は返って清々しい気分なって微笑んだ。
「了解」
「普通、知らない奴に【写真撮らせろ】なんて言われてホイホイ頷く奴がいるって思う方がどうかと思うけど。何に使われるか分かんないものを。気持ち悪い」
吐き捨てるように出てくる言葉は辛辣だが、正論だ。確かにそうである。そこまで嫌悪感を露わにされては大人しく引き下がる以外にはない。いっそ気持が良い位だ。
「そうね。ごめんなさい。嫌な気持ちにさせてしまって」
その潔さに口元を緩めつつ謝ると、その子は、じっとこちらへ視線を向けた。
「どうかした?」
「いや、別に…」
そして、ふいと視線を逸らした。ちょっと不思議な印象を受ける子だ。
実に明快な答えをもらって、そのまま外に出ようと踵を返すと、浬に止められた。
「どこ行くの?」
「これ、返してくる。外で待たせちゃってると思うから」
浬はあからさまに、はぁと大きなため息を吐いた。
「沙由流さんさ、人が良過ぎ。つうか、それを沙由流さんに頼む奴等も奴等だけどさ…」
「まどろっこしいことせずに、正面から来いっての」
浬の言葉尻を掬い取るように傍にいた市川君が言った。
確かに正統派の彼らからしてみれば、姑息な手段は気に入らないだろう。だが、誰しもがそういう手段を取れるとは限らないのだ。
「まぁ、仕方がないわよ。女心は複雑?」
全面擁護をするわけではないが、一応、そう口にしてみる。
そのままノブに手を掛けようとした矢先、自分が意図するよりも早く扉が開いた。
いつの間に並んだのか、隣でノブに手を掛けていたのは片桐君だった。
少し上にある瞳と目が合う。確かに最終段階に残るだけあって、客観的に見て整った顔立ちをしている。余り男くささを感じさせない中性的な面立ちだ。だが、彼が身に纏う空気は鋭い刃のように冷たい。頸動脈に当てられた懐刀みたいだ。少しでも身じろぎしようものなら、首筋に赤い線が入る。
確かに、中々に手強い相手だ。相手が悪かったかしらね。
ふわふわの髪の女の子の顔が頭に浮かぶ。
それとも、それを重々承知の上で、見ず知らずの私に声を掛けたというのであれば、ちょっと性質が悪いと思わないでもない。これも計算の内なのか。若しくはそれだけ必死ということなのか。
「それ、頼んだの、どいつ?」
抑揚のない声が言葉を紡いだ。
何をするつもりなのだろう。自分から断りを入れるのだろうか。表情からは何も伺えない。
突然、開いた空間に、私は待っているだろうカメラの持ち主を探した。少し先の廊下の向こうに、ふわふわの茶色い髪が揺れる。
私が廊下へと足を踏み出すと、同じようにその子も横に並んだ。
「あ、おい!」
吃驚したような声を上げる浬に、そこで待っていてくれるように頼む。付いて来たら来たで事態をややこしくしそうな気がしたからだ。浬は不服そうな顔をしたけれど、傍にいた市川君に引き留められた。
「一緒に来てくれるの?」
無言のまま着いてくる隣を軽く一瞥すると、アシンメトリーにカットされた少し長めの前髪がサラリと揺れた。その合間から、何処となく意味ありげな色を灯した目が覗く。
視線がこちらを捉えると、その子は、微かに口の端を浮かべた。
その瞬間、嫌な汗が背中を伝った気がした。
「何か…企んでる?」
思わず尋ねると、
「……別に」
無表情の下、不満そうな呟きが漏れた。
「余り、無体なことだけはないようにお願いするわね。一応、頼まれたのは私なんだから」
嫌な予感に、念の為、釘を刺しておく。
しかし、その子は、返事をせずにこちらを一瞥しただけだった。
デジカメの持ち主は、近づいてくる私を認めると、顔を綻ばせた。だが、次の瞬間、その隣にいる人物を見て表情を凍らせた。
「御免なさいね。折角だけど、上手くいかなかったの」
固まったままの彼女を余所に、私はシルバーのデジカメを差し出した。
「どうか、気を悪くしないでね」
恐らく反射的に差し出されたであろう掌の上に、それを乗せる。女の子の反応については、深く考えないことにした。
さて、用事は済んだ。
一刻も早く戻ろうと体を反転すると、隣からいきなり腕を掴まれた。
「はっきり言って、写真とか無理だから。それから、いきなりさ、人に無謀なこと頼まない方がいいと思うけど?」
片桐くんが、相手を見下ろして言い放った。その目は、ガラス玉のように酷く冷たかった。
ああ、やられた。折角、人が穏便に済ませようとしている所を。
女の子とその子との間に何があるのかは知らないけれども、急に漂い始めた不穏な空気に居心地が悪くなる。
女の子は、何かを堪えるように唇を噛みしめた。
お願いだから、こんな所で涙を流さないで。
それは都合のいい願いだろうか。だとしても、少なくとも他人のいざこざに自ら首を突っ込む趣味はないのだ。
立ち去るにも腕を掴まれたままで、いたたまれない気持ちを顔に表に出さないようにして、困惑ぎみに成り行きを見守るしかない。
「それにさ、あんたも何で、んな、情けない顔して謝ってるわけ?」
その子が、不機嫌を露わにこちらを睨みつけた。
おっと。矛先がこちらに来た。私の対応が癇に障ったということだろうか。
「キミの言いたいことは、分かるけどね」
私は苦笑を浮かべた。
いい大人としての処世術は私の体に染みついている。なるべくお互い傷つかないように、無駄な衝突を避けるために、大人は言葉を選ぶものなのだ。日本語はとりわけ、そう言う遠回しな表現が充実している。それが気に入らないといわれても、私にはそうする以外に方法が思いつかない。
ああ、この子は、まるで鋭い刃物のようだ。触れ方を間違えると怪我をしてしまう。この時期特有の融通の利かなさに、潔癖さと正義感が混じっている。私にとっては懐かしい感情の混合比率だ。
どうやってこの場を上手くまとめようかと素早く思案した。
「私にも思う所はある訳よ、少年。それより、もう、いいでしょ? 時間も余りないようだし、戻りましょう? というよりも、私は戻るから。腕、放して貰える?」
出来るだけ刺激しないように穏やかに、掴まれている腕をポンポンと叩く。
それに気が付くとその子は、はっとして力を緩めた。
その隙に私は一歩、足を踏み出す。
「じゃぁ、お先に」
これ以上は、付き合っていられない。
なんとなく後味の悪い気持ちに胸やけしそうになりながらも、気分を入れ替えるように足を進める。出来るだけ早く立ち去りたい気持ちが、広くなった歩幅に表れていて、なんだかなと自嘲気味に苦笑いを浮かべた。
重なる別の足音に振り向くと、その子が、何食わぬ顔をして、私のやや後ろに並んでいた。足の長さの違いを見せつけられたようで妙な気分になる。
一体、何がしたかったのか。文句を言わずにはいられなかったとか。面倒を避けたいのなら、そのまま無関心を貫けばよかったであろうに。
その子の行動の意味を幾つか推測してみて、途中で止めた。
まぁ、いいか。
相変わらず無表情の顔からは、何を考えているのかは読めないが、少なくとも、巻き込まれてしまった私を【彼なりに】気遣ってくれたのだということが、なんとなくだが、その行動から感じられる気がした。勿論、私の希望的観測みたいなものが、かなり入っているとも言えるが。
非常に分かりにくいやり方だが、その気持ちは無駄にはしたくはない。
案外不器用なのかもしれない。例えば、あの子みたいに。
私は扉の向こう側で、心配の色を浮かべながら自分を待っているだろう浬の顔を思い描いた。
「ありがとね」
そう言って隣を見上げると、その子は驚いたように目を見開いて、歩みを止めた。
想定の範囲外だったのか。それとも推理が合っていたとか。いづれにしても現れた素の表情に少しだけ溜飲が下がった気分だ。
ドアに手を掛けて振り返ると、少し離れた所で、その子がまだ廊下に立っていた。
「ほら、いらっしゃい」
穏やかに微笑んで促がす。と、その子は、弾かれたように顔を上げ、それから、ぱっと明後日の方を向いた。バツが悪かったのだろうか。
その仕草に内心笑いを堪えるようにして、私は再び、マジックで書かれた主張がひらひらと揺れるドアの中へと足を踏み込んだ。