14.悪戯な指が描く放物線
渡良瀬浬視点で。青少年は色々と大変です。
(……うぁぁ)
普通ならあり得ない感触を指先に感じて、ますますその先が知りたくなった。早る気持ちに耳の奥がざわりとする。体中の血液が変則的に循環速度を上げる。自分でも妙に興奮しているのが分かった。
一体、今日のサユルさんはどうしたというのだろう。基本、気真面目で常識派で恥ずかしがり屋だから、こんな人目のある所で、俺がやりたい放題ってのは、普通ならあり得ない。
どうしちゃった訳?
うっかり緩みそうになる口元を慌てて引き締める。それでも敢えて冷静を装って、チラチラとすぐ傍にある顔色を窺うと、いつまでこの悪戯を見逃す積りなのか、少し下にある顔は、涼しいままだった。
それはそれで少し悔しい。複雑な男心だ。
(まだ…OK?…)
それに気を良くして、親指で目星の場所を探った。柔らかい感触に何かが引っ掛かるのが感じられるが、例え薄くとも生地越しではよく分からない。
(だぁぁぁ………)
俺の内心は、悶えるように嵐が吹き荒れている。
直接触るか、実際の物を目で見てみないと。分かんねぇ。
でも、そんなモノを付けるなんて、俺的にはかなり意表を突かれた感じだ。
天然なのか、サユルさんは時折、俺が想像もつかないような突拍子もないようなことをさらりと行う。中々心臓に悪かったりするのだ。勿論、嬉しい意味で。
例えば今みたいに……。
くすぐったいのかサユルさんは小さく体を震わせた。その振動がダイレクトに掌に響いて、俺の脳を直撃する。
柔らかい。女性にしかない乳房。単なる脂肪の塊だと言ってしまえばそれまでなのだが、そこには神秘が溢れている。いや、男のロマンか。
サユルさんは自分のサイズにコンプレックスを持っているようだが、俺自身は全く気にならなかった。 掌に吸いつくような肌ざわり。そこから紡がれる心音に安らぎを覚えるのは、母性への懐かしさだろうか。
だが、同時に俺はそれに欲情する。肌蹴られた胸元の艶めかしさ。透き通るような肌の白さ。どれもが一瞬で俺にスイッチを入れる要素を持っている。危険な個所だ。
脳内は別回路で妄想をスピードアップさせていった。そのまま妙な気分になりながらも、なけなしの理性を掻き集めて、俺は、必死にTシャツを捲りあげたい衝動と戦った。
「もう、おしまい」
「あ、もう少し」
「駄目……くすぐったいもの」
「えぇ、ケチ」
「これ以上は、教育上よくないから、ね」
耳元で囁くサユルさんの声はかなりエロかった。
俺がそのことを指摘すると、サユルさんは、それは俺に【恋愛フィルター】かかっている所為だって可笑しそうに笑うけど、ほんとその威力は半端ないんだって。
流されてしまいたいが、確かにここではまずい。それはよく分かっているんだけど、どうにもできないことってあるよな。こう、体が勝手にって。男は本能に忠実な生き物なんだから。
そんな時だった。
「おい、渡良瀬!」
突然、後方から掛かった声に、俺は吃驚して肩を揺らした。
心臓が止まるかと思った。反射的に手が引っ込んだ。
折角の【いいところ】を邪魔されて、内心、ムッとしながら振り返ると、
「やっと、見つけた。お前、どこほっつき歩いてんだ」
文化祭の実行委員長をしている三年の川端が、こっちに駆けてきた。
俺は苦虫を噛み潰したように何とも言えない顔をした。
この人が来るとろくなことがない。俺は嫌な予感に眉をしかめた。
この人は俺とは対極にいる感じだ。爽やかさ全開で兄貴肌。同学年にも下級生にも頼れる人物として信頼は厚い。性格はバリバリの体育会系だが、見た目はどこか文科系の匂いがする。そんなギャップがいいのだと学内でも人気があるらしいってのを人伝に聞いた。
俺は正直この人に苦手意識がある。距離を測りあぐねているって感じか。するりと他人の領域に領空侵犯するような奴だ。それをごく自然にするのだから性質が悪い。真っ直ぐで見透かされそうで、居心地が悪くなるのだ。部活の先輩を通じて顔見知りになったのだが、今でも、俺にはこの人が何を考えているのか分からない。愛想のかけらもない俺によく話しかけ、気がつくと俺はこの人に構われているという塩梅だ。
「お前なぁ。もうすぐ時間だから、講堂に行ってろ」
「は?」
意味が分からずに問い返せば、川端は呆れたような顔をした。そんな顔をされる覚えは全くないのだが。
「コ・ン・テ・ス・ト。お前も残ってんの。しかも上位に」
嫌な予感が当たった。ウチの学校では学際期間中に生徒の人気投票みたいなのを毎年やっている。伝統なんだとか。くだらねぇ。
「興味ない」
それは本心だ。
「表彰とかがあるんだぞ」
「なおさら無理」
人前に出て馬鹿騒ぎに加わるなんて御免だ。纏わりつくような視線は嫌悪感しか生まない。そんな中に誰が進んで行くってんだよ。
「逃すか。ぜってぇ連れて来いって言われてんだから」
「は? 断固拒否」
「お祭りなんだから。協力しろ。折角の雰囲気に水を差すな」
「何でですか? 俺がいなくたって、関係なくないですか?」
いつになく執拗に絡んでくる川端に俺はイライラを募らせていた。
「んなわけあるか!」
「つぅか、俺、用事あるんで」
「今日という今日は首に縄つけてでも引っ張ってくぞ」
それはどんな脅しだ。
だが、熱血タイプのこの御仁はそれを本当にやりかねないから恐ろしい。まぁ、撒いて逃げ切る自身はあるけれど。それはあくまでも俺が一人の場合ってことだ。今日はサユルさんがいる訳だし、どうにかしてこの場を逃げ切らなければならない。折角の時間を邪魔されてたまるかっての。
「何をそんなに熱くなってんですか。ほんと今は無理なんです。今日は連れがいるんで」
相手の気迫にげんなりしつつ、本当の理由を明かせば、川端は途端に興味深々と言った顔つきで声のトーンを落とした。
「あ、そう言えば、お前、すっげぇ美人連れてるって噂になってんぞ」
「………」
時として噂話はものすごいスピードで駆け巡る。クラスからサユルさんを連れ出してから、まだ少ししか時間が経っていない。暇な奴らばっかりだ。
「ほんとなのか。その人はどうした? 俺にも紹介しろ」
そう問われて、俺は内心舌打ちをした。川端に捕まっている所為で、サユルさんを放ってしまっているじゃねぇか。あの人のことだから、気を使って、さり気なく場を外しているに違いない。
なんつぅことだ。こんな奴に気なんて使わなくってもいいのに。
辺りを見渡せば、少し先の廊下で、サユルさんはどこぞのクラスの出しものの外装を眺めながら、和気藹々とここの奴等と話をしている。
これだからちょっと目を離すと。油断も隙もありゃしない。
いつになく上機嫌ではしゃいでるサユルさんはガードが緩んでる。
「ん? あそこで囲まれてるのがそうか? どれどれ」
俺の目線の先を川端に気付かれた。
「サユルさん!」
焦れたように声をかければ、
「ここ、ちょっと見てくるね」
同じタイミングで俺に気が付いたサユルさんは、口ぱくでそう知らせると笑顔で中を指差した。
俺に遠慮しているだろう。いつの間にか勧誘をしていた奴の手がサユルさんの肩にかかっている。それを見て俺はムカっ腹が立った。こうしてはいられない。
「すぐそっち行くから。待ってて」
中に入ろうとする背中に声を放てば、振り返りざまに【気にしなくていいわよ】なんて微笑まれてしまった。
「つぅわけで、今、先輩に付き合ってる暇はないんで」
焦れたように強制的に話をぶった切った。
「逃すかよ」
尚も伸びてくる川端の手をさっとかわして、俺はサユルさんが入っていった教室へ急いだ。
「何でついてくるんですか?」
俺が駆けだすと川端も隣に並んでいた。
思わず剣呑な口調になる。
「まだ話は終わってない。出なくてもいいとは言ってないだろ」
それから意味深に目を細めて、にやりと笑った。
「それに、興味があるから?」
「うぜぇ」
思わず本音が飛び出せば、
「相変わらず、ムカつく奴だな」
爽やかな笑みとともに返される。
相手にするのもいい加減疲れたので無視することに決めた。
中を覗くと歓声が沸いていた。その真ん中にサユルさんがいる。
ここはダーツをやっている二年のクラスだった。
サユルさんは入って来た俺に気がつくと、得意げに満面の笑みを浮かべた。そして手にしていた残りのダーツの内、一つを俺に差し出した。
「Now, it’s your turn.(はい、キミの番)」
挑戦的に微笑まれて、俺は無言で差し出されたダーツを手にした。
ダーツをやっているクラスの奴等は、突然の俺と川端の登場にあからさまに驚いた顔をした。
無理もない。俺は、このクラスに知り合いはいないし、周りからはとっつきにくい奴と思われている。まさかこんな所にひょっこり顔を出すとは向こうも予想外だっただろう。
その点、川端は顔も広く、下級生から慕われている有名人ではあるが、俺との組み合わせが、珍しく映るのかもしれない。
俺はそんな周囲の反応を徹底的に無視した。俺にとって肝心なのは、目の前で悪戯っぽく微笑む女性の反応だけだ。
的には同心円中心に近い所に三本の矢が刺さっていた。そのうちの一つはぎりぎり中心を外れている。実に惜しい位置だ。
「げ、無駄にハードル高くねぇ?」
俺が呻くように言うとサユルさんは可笑しそうに笑った。
「別に、お遊びよ?」
たとえお遊びの範疇と雖も、勝負を申し込まれた以上、ここで負けるのは男のプライドに関わる。好きな人の前で見栄を張りたいのは誰しもが思うことだろう。
「サユルさんやったことあんの?」
「少しね」
「結構、上手いじゃん」
「Beginner’s Luck?(たまたま?)」
まぐれだったら、あんな的の中心近くに三本は刺さらないだろう。何処までも控えめな性格がここにも表れている。
「俺が、勝ったら、たこ焼きね」
「いいわよ」
軽く深呼吸をして、意識を集中させる。的の中心への軌跡を思い描いて、最初で最後のダーツを投げた。
俺が放ったダーツは、中心をやや左にずれた。
「だぁぁぁ、失敗した」
思わず舌打ちをする。少し力み過ぎたみたいだ。
「上出来じゃない。少なくとも、キミの勝ち。たこ焼きは確保」
嬉しそうに笑うと、俺の反対側へ振り返った。
「で、今度はキミの番ね」
そう言って、少し離れた壁際に寄りかかっていた川端へもう一つのダーツを差し出した。
「え? 俺にですか?」
「そう。ついでにどうぞ」
突然、サユルさんに話しかけられた川端は、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をした。
「差し出がましいかもしれないけれど、キミと浬の話、どうやら平行線みたいだったでしょ。これで決めてみたら? 点数の低い方が今回は折れるってことで」
それを聞いて、俺はぎょっとした。
「ちょっと待ってよ、サユルさん」
慌てて口を挟むが、
「何よ、浬。そんなに焦ること?」
軽く流されてしまった。
「で、キミの意見は?」
「面白そうですね。こちらとしては渡良瀬を必ず連れていかなければならないので、無論、負ける訳にはいきませんが」
事情が呑み込めた川端は、白い歯を見せて爽やかな笑み―――俺にしてみれば、かなり胡散臭い笑みだ―――を浮かべながら、その提案に乗った。
俺は苦い顔をして、やる気満々の川端を見た。
川端は弓道部なのだ。毎日同じような的を見ている輩だ。ダーツと弓道は勿論違うが、集中力の点では敵わない気がする。
余裕の表情を浮かべて的を眺める川端を目にして、俺は自分の歩の悪さを悟った。
俺は宣告を待つ死刑囚のような気分で、壁際に置かれている椅子に腰を下ろした。
川端が投げたダーツは、綺麗な弧を描いて、吸いつくように中心の黒い的に刺さった。
途端に周囲から歓声が沸く。
挑戦者は、勝ち誇った笑みを浮かべて俺の方を振り返った。
サ、イ、ア、ク、だ。こんな形でコンテストに強制参加せざるを得なくなるなんて。
それにしても、サユルさんは俺達の会話を何処まで聞いていたのだろう。折角の二人だけの時間が邪魔されてしまう。なんということだ。
俺はこれから巻き込まれるだろう状況を想像して、軽く憂鬱になった。
「どうしたの、浬。もしかして、そんなに嫌な事だったの?」
俺ががっくりとうなだれる様子を見てか、心配そうに眉を寄せてサユルさんが近付いてきた。
俺は反射的に目の前にある細い体に両腕を巻きつけ、引き寄せるとその胸に顔を埋めた。ここがどこであるとか、周りに誰がいるとか、周囲の状況を気にしている余裕なんてなかった。
「え? そんなに拙かった?」
サユルさんは少したじろいで、俺の体に細い腕を回した。なだめるように頭の後ろに回った手が、ポンポンと軽く背を叩く。
だんまりを通して、ぐいぐいと顔を埋める俺に埒が明かないと思ったのか、
「あの、キミとこの子の話の内容って何だったのか、聞いてもいいかしら?」
何も言わない俺の代わりに話を川端に振った。
「あ、……ああ、…はい」
動揺をしているような上ずった声を上げてから、川端は簡単に先程の話をかいつまんで話した。
それを聞いたサユルさんは、少し呆れたような声で、小さく笑った。
「そう言う事なのね。まぁ、キミがそういうの、苦手なのはよく分かるけど。折角、年に一度のお祭りなんだし、皆、随分気合いが入ってるみたいじゃない。参加してみたら、案外楽しいかもしれないわよ? 苦かろうが、甘かろうが思い出にするにはいいんじゃないの?」
諭すように穏やかに宥められて、いつまでも我を張るのもガキ臭く思えてきた。
「サユルさん」
自分でも随分と甘えた声が出たと思った。
「ん?」
「後でたっぷり補給させて?」
言葉の意味を正確に捉えたサユルさんは、くすくすと可笑しそうに笑う。その振動で、頬を包んでいる柔らかい温もりも共鳴した。
「さっきしたばかりじゃない?」
「すぐに足りなくなるから」
「そうなの?」
「そうなの」
「仕方無いわね」
「あ、でも、その前にたこ焼き」
先程の勝敗の褒美を思い出して、漸く俺が顔を上げると、苦笑を滲ませた柔らかな眼差しにぶつかった。
「はいはい。全く現金なんだから。ええと、それで、何時までにどこへ行けばいいのかしら?」
サユルさんが首を捻って、傍にいるだろう川端の方を見た。
「三時半までに講堂のステージ脇です。場所は、そこの渡良瀬に聞けば分かりますよ」
「三時半、講堂ね。了解」
素早く腕時計で時間を確認すると俺を囲んでいた拘束が一気に無くなった。
「じゃぁ、浬、三時半までまだ時間があるし、たこ焼き食べに行こうか。バスケ部のところでいいのかしら。北宮君達が、後で顔出してって言ってたからね」
喝を入れるように勢いよく俺の肩に両手を乗せる。だが、俺はもう少しこの体勢を堪能しようと腕の力を緩めなかった。それをサユルさんは、俺がまだ駄々をこねていると受け取ったようだった。
「いい加減諦めなさい。往生際が悪いわよ」
ぐいと鼻先を抓まれて、抗議をするべく、布越しの柔らかな膨らみにじゃれつく様に噛み付いた。
不意打ちのことに、サユルさんから艶めかしい声が漏れた。
してやったり。ぱっと拘束を解く。
「こら、浬。歯形が付いたじゃないの」
Tシャツに付いた半円形上の噛み跡を見て、サユルさんが目を見開いた。
「犬より性質が悪いわよ」
真っ赤になって振り上げられた腕をひょいと避けて、その代わりに、その華奢な腰を攫う様に掴むと、俺はすっかり上機嫌になって、静まり返った教室を後にしたのだった。