10.耳なしの 山の梔子 得てしがな
かなり短いですが、甘い情景を一つ。
「サユルさん……」
いつになく甘さを帯びた低い囁きに気を取られていると、いつの間にか温かな囲いに囚われていた。
首元を掠める鼻先が、少しひんやりとする。
顔を埋めるようにして縋りついてくるのは、甘やかで確かな重みだ。少し高い体温。自分とは違う他者の温もりに、大きな犬がじゃれついているような錯覚を覚える。
この暖かさは癖になる。
「充填させて。バッテリー切れ」
少し掠れた低い声は、しぼみかけの風船を想起させた。
午前中の慣れない仕事に相当精神を摩耗させたようだ。外見から誤解をされがちのようだが、この子の神経は随分と繊細な方だ。
「お疲れ様」
労わるように微かな笑みを零して、耳元に聞こえるか聞こえないかの音を吹き込む。
ポンポンと泣いている子供をあやすように、子守唄のリズムでゆっくりと背中を叩けば、それを合図と取ったのか、抱きしめる腕に力が入った。
甘えたで繊細な愛し子。
「サユルさん…」
「ん?」
「来てくれて、ありがと」
「どういたしまして」
ポツリとした呟きに気恥かしさを滲ませて。
視界の隅に入る耳が、少しだけ赤くなっているのがなんだか無性に切なくて、愛しくて堪らなかった。
「充填完了」
そう言って年相応の顔をして笑って見せたキミに、掠めるだけのキスを贈る。
補給完了の印だ。
キミは一瞬、驚きに目を見開いてから、目を逸らし、苦い顔をする。
そして、ややはにかむように笑った。
それは、私だけが知るキミのもう一つの素顔。
【耳なしの 山の梔子 得てしがな 想ひの色の 下染めにせむ】
”秘密の恋”をテーマにした和歌がありましたね。耳成山の梔子(黄色の染料)が手に入ればいいのに……、その黄色い染料で貴方へのこの気持ちを染めたら、きっと誰にも知られないですむでしょうに……。「耳なし」に「口なし」をかけたおまじない的な恋心。ロマンチックですね。タイトルはその上の句から。