手帳は、戦争より厚くなれない
父の右足は、地雷が持っていった。
村長のアゴは、砲弾の破片が削り取った。
隣のおばさんの左手は、理由を教えてくれない。
欠けていることが当たり前の村で育った彼女だったが、戦争はとにかく恐ろしいものだと教えられていた。迎えの軍用車が見えてきた。少女の名前はゾーイ。十二歳。今日、この村を出る。
*
一か月前、その日もゾーイは大人たちに混じり小麦を刈っていた。
その手際のよさは大人顔負け。肩まである赤毛は、いつも収穫の列の先頭で揺れていた。
「今日も私がいっちばん!」
鎌を高く掲げ、夕陽をぎらりと反射させる。その刃先は、母の鼻先。
「あぶないでしょ!」
もちろん雷は落とされた。しょぼくれるゾーイをみんなが笑った。
夕陽が山の向こうに隠れ始め、稜線がオレンジ色に一層輝いていた。
夕食。シチューを食べながら、ゾーイはいつものように父の手を見ていた。
炭職人の父の手。大きくて、節くれだって、炭で黒ずんでいる。スプーンを持つと、スプーンがおもちゃみたいに見えた。理由なんてなかった。ただ、その手が好きだった。
いつか、自分もあぁいう手になるのだろうか。農作業で、だんだん固くなってきた。でも──父のとは全然違った。父の手の固さは、もっと別のところから来ている気がした。どこから来ているのか、ゾーイには分からなかった。分からなくても、好きだった。
この村の住民は、ほとんどが体のどこかが欠けている。
だから、三か月前から再び始まってしまった戦争に駆り出される者もおらず、たまに山から響く銃声も、どこかの夕食に肉が増えることを知らせる祝砲だった。
が――父の不安は的中してしまった。
『健康な十二歳から十五歳の少年少女を、拠点防衛の任に就かせる』
受け取った手紙を、父は炭焼き場で確認した。国民の戦争士気を底上げするためだけの法案の可決──奥歯を噛んだ。
愛娘を迎えに来るのは、ちょうど一か月後。拒否などできない。いっそ事故に見せかけてゾーイのどこかを――よぎった考えごと、ナタを木の株に強く叩き込んだ。
あの山を越えた先に戦場がある。自分も一度越えた。右足を置いてきた。
自分は十八歳だった。今のゾーイより、五つも年上だった。
手を見る。煤で黒く節くれだっている。この手でゾーイを抱き上げた日のことはよく覚えている。生まれたばかりの我が子は想像より軽くて、壊れそうで、それが邪魔なほど大きく見えた。
杖を引き寄せ、立ち上がる。玄関に飾ってある犬の絵を思い出す。
ゾーイにせがまれて、照れながら描いたあの絵。「下手くそー」と笑われた。それでもずっと飾ってくれている。
手紙が届いたのは昼前だったのに、もう辺りが暗くなっていた。
迎えが来るまでは一か月――それまでの一日を、自分の不甲斐なさで無駄にしてしまった。
娘は戦争に攫われる。それは変えられない。自分は招集先で簡単な訓練は受けさせられたが、それまで何も知らなかった。ならば──足が動いた。手が動いた。夕食を断り、自室の机の上で紙に線を引く。
最初に書いたのはロープの絵だった。次に結び目。番号。一から始めて、七まで。一番上に、小さく書いた。
『まずここから』
夜が明けた。自分の知る生きる知恵を、絵を中心にまとめることにした。娘に字の教育はしてあるが、この村では使う機会がない上に、最近の娘の実態はよく知らなかったからだ。
表紙に使う丈夫な革と、足りない紙は村の住人たちに頭を下げてかき集めた。「ゾーイちゃんのためなら」と、みなが快諾してくれた。父は涙を流して感謝を伝えた。
そして、その手帳を書き進めるうちに──これは、娘を送る朝、コートの内側に忍ばせておこうと決めていた。
*
招集令状が届いた翌朝、父は「訓練を始める」。とだけ言った。
最初に命じたのは走ることだった。山道を追うから、逃げろ。転んでも立て。走れ。泣くな。声を出すな。それだけが、父の言葉だった。
午後、ロープワークが始まった。そのなかにはゾーイが普段農作業で使う結び方もあった。 完成したものを得意げに見せる。だが、何度やっても父は「もっと早く」と解く。もう一度。また解く。もう一度。
怒鳴らない。叩かない。それしか言わない。普段以上に喋らない。その静かさが、怒鳴られるより怖かった。
父の指示通り、初めて三秒以内に結べた夕方――「やった」と振り返ったとき、父はもう次の課題の説明を始めていた。
褒めてくれなかった。畑仕事を終えるたびに「よくやった」と笑ってくれた。あの顔が、どこかへ行ってしまった。父が遠くなっていく気がした。
最初のマメが潰れた夜、ゾーイはランタンの光に両手をかざした。
農作業で出来るマメとは場所が違う。ロープを握る場所。ナイフを握る場所。
消毒に使う薬も、家のものは使わせてもらえなかった。裏山に入り自分で薬草を探して絞る。父の指示通りに。手が、別の形に育ち始めていた。
また何日か経った夜――ゾーイは気づいた。
マメの傷が、固くなっている。触っても痛くない。痛くないことが、怖かった。薬草の汁で指先と節が茶色く染まっている。
ふと──父の手を思い出した。炭で黒く、節くれだった、あの大きな手。
似てきた、と思った。それが嫌だった。あれほど好きだった手だったのに。
なぜ嫌なのか、うまく言葉にならなかった。
ただ、自分の手が父の手に近づいていくことが、ひどく悲しくなっていた。
また、ある日。日が沈むと同時にゾーイは森に放り込まれた。
「六十数えたらお前を追う。朝まで俺から逃げろ」
その手にはナイフがあった。
「逃げろ。隠れろ。気配を殺せ」
暗い。どこまでも暗い。六十。杖と足音が交互に鳴っている。近づいてくる。
体が叫んだ。
──お父さんは、敵だ。
違う、と頭では分かっていた。でも足が震えた。涙が出た。怖いからではなかった。暗い森の中で、追いかけてくる父の気配が、本気で殺しに来ているとしか感じられなかったから。
杖の音が遠ざかる。木の幹に背中を預け、空を見上げた。厚い雲が月を覆いそうだった──夜の山はどこまでも暗い。それは知っていた。
持たされた装備を確認する手が震えた。食糧も水も入ってなかった。ふと、父が移動中に口にしていた花びらを見つけ食べてみた。柑橘の匂いはしたが、とにかく苦かった。ガタガタ震えながら、ザックに入っていた毛布にくるまる。
ついに月が完全に隠れた。山の下に見える、村の光だけが安らいだ。夕食の時間でどの家も灯りが漏れていた。そこまで駆け降りてしまおうかと思ったが、道は真っ暗。
──夜になると山は真っ黒になる。けど山から村は見えるんだ。
そんな驚きもわずかにあったが――それよりも、どこから襲ってくるかもしれない父の恐怖にゾーイは必死に目を閉じ、毛布から手足が出ないよう丸まって眠った。
翌朝――目を開けると、父が目の前で焚火をしていた。
「帰るぞ」
それしか言わなかった。ゾーイはなにも言わなかった。言葉が見つからなかったのではない。言いたいことは山ほどあった。でも全部、口から出る前に消えた。
帰り道、一度だけ足が止まった。
村への分かれ道だった。右に行けば家。左に行けば――そうだ、あっちは川だ。去年みんなで魚釣りをしたところだ。
ひょっとしたらあっちの方に逃げていれば、魚を食べられていたのかもしれない。
ひょっとしたらお父さんは、それを狙っていたのかもしれない。
杖の音が、三歩先で止まった。振り返らなかった。待っているのは分かった。早く来い、と言わないのも分かった。ゾーイは頭を振る。絶対そんなことまで考えてくれてない。だって、お父さんは頭がおかしくなったんだから。
家に帰ると弟が泣いていた。床に割れた皿の破片が散っていた。お母さんが大切にしていたものだ。お母さんがお父さんを怒鳴りつけた。「何を考えてるの!?」「説明したろ」お父さんが思いきり平手打ちされた。弟がさらに泣いた。疲れ切っていたゾーイは、心の底から思った。
――ざまぁみろ。
柔らかいベッドに倒れ込みながら、その言葉が自分の中から出てきたことに少しだけ驚いた。
驚いたまま、深く眠った。憔悴しきった母の顔に気づけるほど、もう余裕がなかった。ゾーイは父を憎み始めていた。
そして、二十日目の朝。
父はすでに家にいなかった。朝ごはんを食べ、その父が待っている裏山に向かおうと準備をしてるとき──見つけてしまった、
暖炉の近く。ゴミ箱に突っ込まれていたUの字の紙束。なんの気なしにそれを取り出し広げると――目に入ったのは番号が振られた一連の絵だった。
怯える子供。
手を差し伸べている兵士。
その手を取って、懐に入る。
同時に、子供が兵士の首にナイフを突き立てる。
『犬の絵』と同じ、ゾーイが好きだった父の絵のタッチだった。
ゾーイは弟を追い出し、子ども部屋に閉じこもった。母や村の人たちから「それはあなたが無事に帰って来られるように」と諭してくれたが、信じることができなかった。もう、優しい父の笑顔は思い出せなくなっていた。
そのまま、軍の迎えが来るまで三日になってしまった。
母とこっそり約束した通り、ドア外に置いてくれていた食事を摂った深夜。トイレに行こうと足音を消しながら廊下に出たゾーイは――食卓に座る黒い影に驚き、へたりこんでしまった。
物音に気付き、駆けつけた母のランタンに照らされ、その正体はすぐに分かった。だが「ひっ」小さく悲鳴をあげた。
揺れる炎に照らされたのは、父だった。手入れの行き届いていたヒゲはぼさぼさで、下から見上げた顔は熊そのものだった。
その熊が、ふと動く。落ちくぼんだ目。ぼんやりとした視線がゾーイをなぞった――が、すぐ机に戻された。
母に脇を抱えられ立ち上がらされたゾーイは、机の上のものが目に入った。
大量の紙。字と絵がびっしりと描かれている。やはりアレは父が描いたものだったのだ。
けれど――ロープの結び方。教わった野営の方法。そして、自分が恐怖した人の殺し方の絵。
テーブルの端のパンとスープは手を付けられていない。
ゾーイが閉じこもってしまって以降、父は彼女を無理矢理引きずり出すことはせず、この手帳作りを進めていた。
痩せこけていく夫を案じ、妻は夜の三時間だけでも寝室で横になるように頼んだ。
けれど毎日寝室を抜け出し食卓でそれを続けていた。北側の寝室では月の明かりが足りなかったからだ。
ペンを握る手は筋張っている。嫌いになりかけていた手も、今はただ痛ましく見えた。
ゾーイは母の腕から抜け出し、ふらふらと父に近づき──抱きしめた。
誰だ。ゾーイか。ペンが止まる。早く書かねばお前が死んでしまう。邪魔だ離してくれ。まだ書いていないことがあるんだ。
「……ありがとう、お父さん」
娘の声が聞こえた。涙が出た。抱きしめた。あたたかい。
ゾーイも意図せず出た自分の言葉で、ようやく父の愛情に気づくことができた。
落ちた紙には、敵兵の喉を切り裂く子供の絵が描かれていた。
そして――ついに迎えの日の朝がやってきた。
「まわりのこを、ふんづけてでも、いきてかえってこい」
アゴの半分を失った村長が言った。その意味は理解できても「行かないで」とわんわん泣く弟を見ると、自分にはできそうもないと思った。が、一応うなずいておいた。
弟が母親に抱きついた。羨ましいと思った自分が少し嫌になった。
家族と短い別れを告げ、村人全員に見送られゾーイは村を出た。コートの内側には、あの手帳があった。まだほんのり、父の手のぬくもりが残っていた。
*
訓練のために連れてこられたのは、山あいの古い軍事施設だった。
石造りの建物はところどころ崩れ、補修の跡が継ぎはぎだらけで残っている。
訓練は二カ月と言われ、子供たちが押し込まれたのは、基地の端に建てられた掘っ立て小屋だった。
二段ベッドが並んでいるが、板が薄く、上の子が寝返りを打つたびに軋んだ。
訓練は朝から。肉体訓練。走る。飛ぶ。また走る。父に追われた山道より、全然ラク。そのことにゾーイは少し驚いていた。午後は建物の中での座学。隊の規則から始まり、ごくごく初歩的な銃の操作法。地図の読み方だった。
「お前たちの任務は、窓から外を見ることだ」
「指示があれば撃て」
「それだけでいい」
教官が言うのはこれだけだった。初めて聞いたとき、隣の子が小さく息をついたのを覚えている。安堵の音だった。
ゾーイも最初は同じ気持ちだった。それだけでいい。窓の内側にいればいいのだから、よっぽど安全だ。父が教えてくれたことは、使わなくていいかもしれない。
だが――ある日の授業終わり、ふと思った。
窓の外に敵がいる。だから撃つ。撃った後、その敵がどうなるかくらいは分かる――けど、窓を破って入ってきたら? 教官はそこから先を、何も教えてくれていない。
夜が更けるたび、どこからともなく泣き声が聞こえた。日頃の農作業や父の訓練で、ゾーイは訓練についていけた。だから夜、すぐには眠れなかった。ゾーイの眠れない理由はそれだが、他の多くの子は疲労が不安を引っ張ってきていた。
ある夜、泣き声があまりに近かった。
「どうしたの?」
気づいたら声をかけていた。隣のベッドの子――訓練生のなかでも一番背の低い男の子が「こわい」と言った。ただそれだけ言った。
こわい。そうだ、みんなこわいんだ。当たり前だ。自分だってこわい。
でも自分には手帳がある。なにがあっても次に何をすればいいか書いてある。だからこわくても動ける――だけど、この子にはそれがない。答えはすぐに出た。考えるより先に、体が動いていた。
「いいこと教えてあげよっか?」
「いいこと?」
手帳の授業は、深夜に行うことにした。掘っ立て小屋にはランタンはなかったので、場所は月明かりが差し込む窓の下。「なにしてるの?」と、日ごとに増えていく子供兵たちは、眠い目をこすりながらも、支給された小さなメモ帳に手帳の内容を書き写していく。最初は黙々とだったが、やがて説明を求めて来るようになり、ゾーイも得意になっていた。
だが、ある晩。指導教官が飛び込んできて「余計なことをするな!」と怒鳴られた。
思わず泣いてしまったゾーイだったが、彼女をかばうように立ち上がってくれたのは、ひとつ上のそばかすだらけの男の子だった。
体力もなく座学も寝ている。ゾーイからすると頼りない男の子。だが「これは国のためです!」そう大声で言い切ってくれた。
それが功を奏したのか、それとも教官も思うところがあったのか、小さなランタンと油、さらに「光は漏れないようにしろ」と厚手の布も置いていってくれた。
だが、教官が出ていった後、しばらく誰も動けなかった──真っ先に動いたのは、さっきのそばかすの男の子だった。ランタンに油を注ぎ、布を窓に張り始める。手慣れた動きだった。
「……なんで助けてくれたの?」
ゾーイは聞いた。
「国のためって言ったら信じる?」
「信じない」
「だよな」
へらりと笑い「俺、字が読めないんだ」そう続けられ、ゾーイは黙った。
「なんだよ? そんなの珍しくもないだろ?」
「うん、私の村もそうだもん。なのになんでわざわざ言うんだろう? って」
小首を傾げる。
「……お、お前の手帳。字が読めなくても絵だけで分かるし、お前の説明も分かりやすいから。だから続けてほしかったんだ」
手帳の父の絵を見た。頬が緩むのを感じた。
「名前、聞いていい?」
「クロス」
「変な名前」
「お前に言われたくない」
「……どうして私の名前知ってるの?」
クロスが顔を赤くさせた。それがなんだか面白くて、ゾーイは笑ってしまった。声を殺した、ほんの小さな笑いだった。それでも笑えた。ゾーイは初めて、ここでも、笑っていいと知った。
そんなある日の深夜授業の終わり、ゾーイが切り出した。
「ねぇクロス。私、別の棟の子たちにも教えようと思う」
「は?」
「この基地に来た子全員に教えたいの。うちの棟の子たちはそろそろ全員写し終わるし」
「……やめろ」
声のトーンが変わっていた。聞いたことのない低い音だった。
「なんで?」
「目立つから」
「べつに目立っても――」
「目立ったやつから死ぬんだよ」
ゾーイは黙った。
「親父にそれだけは言われたんだ。『英雄みたいなことしたって、お前が死んだら終わりだ』って。悪いこと言わねぇから、こっちだけにしとけ」
「でも……」
「教官に嫌われたら、危ないところに配置されるかもしれないぞ?」
それが事実かは分からない。けれど、言葉が刺さった。否定できなかった。
「じゃあ、なんで教官から助けてくれたの?」
「……あ、あのとき言った通りだ! 生きるための知識が欲しかっただけだ!」
クロスが、ふいっと視線を外した。その横顔に、ゾーイは言った。
「それでも、やる」
「なんでだよ!?」
うまく言葉にならなかった。クロスの言うことも分かったから。
「例えば……他の棟の子たちが、明日どこかに配置されたとして」
「ああ」
「何も知らないまま行ったら――」
続きが分かった。クロスがまっすぐこちらを見た。
「それはお前のせいじゃない」
「知ってる」
「お前が教えても、死ぬやつは死ぬ」
「でも、死なない人もいるかもしれない」
クロスが黙った。ゾーイも黙った。考えて、言った。
「それに……私が知ってて、それを伝えなくて死んじゃったら、私が嫌だから」
予想通りの言葉だった。クロスは何も言えなかった。
次の夜。ゾーイは手帳の紐をほどき、前半部分だけを手に持ち、別棟に向かう準備をしていた。万が一、別の教官に見つかって取り上げられても良いように。
それに後半の――戦闘術のページ――は、紐を外し別に保管してある。
まだ自分の棟の子たちにも教えていないし、見せてもいない。まだその覚悟がなかった。でもロープの結び方、逃げ方、隠れ方、水の作り方、食べられる草の見分け方。父が一か月かけて自分に教えたこと。これだけでも知っていれば、生き延びる確率が上がるはずだ、と。
そのとき──ふっと小麦の香りがした。村の匂いだ。紙に染み込んでいたのだろうか? そんなことを思いながら、教官室からは見えない裏手の窓を開けた――すると
「ロープを教えるのと、教官の見張りくらいはやれる」
クロスが付いてくると言い出した。
「それに、二冊あった方が良いだろ?」開いたクロスの手帳は確かに埋まっていた。
「……絵、上手いじゃん」
ゾーイが言うと、「うるさい」と耳が少し赤くなった。
実はこの授業を始めた頃、ほとんどの子がロープワークで詰まっていた。一緒にやると成功させるが、再現ができなかったのだ。教え方まで習っていないゾーイは困ってしまったが――意外な副担任が現れた。
クロスである。無言でその子の手を取り、指の位置を直す。何度かガイドをしてあげると、その子は再現に成功していた。
「どうしてロープが得意なの?」
授業が終わったあと、ゾーイは聞いた。
クロスの手には特徴があった。歳はそんなに変わらないのに、厚く固く関節も太い。父親とも少し違う。それに──右手の中指と人差し指。折れてそのまま癒合していた。
「俺の家、漁師だから」
「りょうし?」
「知らねぇの? 海で魚とか獲って暮らしてる……ってか他に何があるんだよ」
「鹿とか獲るのも猟師だよ?」
*
訓練所に来て八週間目の夜。ランタンの油が尽きかけ、深夜の授業が早めに切り上がった。クロスは窓の桟に肘をついて外を見ていた。
間もなく訓練は終わる。配置先の発表は明後日。あいつと一緒のとこに行けるといいな。あいつは危なっかしいから。そんなことを考えながら、風に当たっていた。
「ねぇ、クロス」
その、『あいつ』が声を潜めて隣に並んできた。
「海ってさ、夜はどう見えるの?」
また海のことか。クロスは溜息をついた。ゾーイは、海のことを村の大人たちから聞いて知ってはいた。だが、『俺は見たことが無いが、湖の百倍は大きいらしい』程度の説明だけ。そこまで興味を惹く存在ではなかった。
「なんで夜の海が気になるんだよ?」
昨日はサメのことを聞かれた。一昨日は亀のことを聞かれた。その前は……なんだったか?
「聞いてないなって思って。夜ってどんな感じなの?」
「月が出てないと真っ暗だ」
「月が出てると?」
「きらきら光ってる。ただの水みたいに見える」
「じゃあ昼は?」
「青い」
「なんで昼と夜で色が違うの?」
「……光の反射。たぶん」
クロスは答えながら、自分がよく知らないことに気づいて少し黙った。漁師の息子のくせに、そんなことを考えたことがなかったからだ。
「じゃあ朝は何色?」おかまいなしに、ゾーイに続けられたが。
「朝は太陽で光って白い。あと、静かだ」
「なんで静かなの?」
「……しらない。けど夜明け前が一番静かで、空が白くなるとだんだん波の音が大きくなる。それでちゃんと朝になる」
ゾーイは目を閉じて、それを想像しようとした。
「それ、村の朝に似てる」
「山ん中と海が似てるわけないだろ」
クロスはあまりのばかばかしさに鼻で笑ってしまった。だから話半分で聞いてしまったが
「似てるよ。鳥が鳴き始めて、だんだん音が増えてきて、気づいたら朝になってる。それって海と同じじゃない?」
そんなことを言っていた気がする。
「ぜんぜん分かんねぇ」
そう答えると同時に、吹き込んできた風が、ランタンの火を揺らした。
急に静かな時間。ゾーイがしょぼくれて黙ってしまったことに気付き、クロスは少しだけ慌てた。
「う、海ってさ、すごくしょっぱいんだぜ?」
「え?! なんで?!」
「……塩がたくさん入ってるから。たぶん」
「行ったら舐めてみたい!」
「この時期は冷たいぞ」
「いい! 舐める!」
クロスは横目でゾーイを見た。きらきらとした目。なんだか村を出る前から決めていたことを今言っているみたいな顔だった。
「案内くらいはしてやる」
「本当?!」
「うるさい、もう寝るぞ」
ランタンを消した。ゾーイは「やった」と小さく呟きながら、寝床に向かった。が、三歩で止まった。
「……ねえ、クロス」
「なんだ」
「手帳の続き――戦闘のページ、みんなに教えてあげようと思う」
クロスは一度だけ、そのページを見せてもらったことがあった。
「明日しか時間ないけど。まだ教えてなかったとこ」
「……」
「だめかな?」
「だめとかじゃなくて」
クロスは毛布を置いた。窓の桟に戻って、外を見た。雲が月を半分隠していた。
「お前は、全部読んだんだよな……?」
「もちろん」
「……俺は、もう読みたくない」
ゾーイは何も言わなかった。クロスが続けた。
「字が読めないんじゃなくて。絵で分かるのに――見ていられない」
「……なんで?」
「お前は、怖くないのか?」
「怖かった。けど」
わずかな沈黙。言葉が出てこなかった──だが探して、まとめた。
「お父さんがあれを描いたのは、私に死んでほしくなかったからだと思う。だから怖くても、読むことにしたの」
クロスが、月を見上げた。小さい頃に折れて自然に治ったと言っていた、右手の中指と人差し指を重ねて動かした。
「俺、妹がいたんだけどさ」
ゾーイは息を止めた。「いた」という言葉の重さを、どう受け取ればいいか分からなかった。
「戦争が始まる前に死んだんだ。病気で。俺より三つ下で、よく懐いてた」
クロスの声は、変わらなかった。ただ、少しだけゆっくりになった。
「その子供の絵が、似てるんだ」
ゾーイは何も言えなかった。言えないまま、クロスの隣に並んだ。肩が触れるか触れないかの距離で同じ月を見た。雲が流れて、月が隠れた。
「私のお父さん、絵が下手なんだよ」
薄明りのなか、ゾーイがぽつりと言った。
「玄関に犬の絵が飾ってあって。でも全然犬に見えなくて。私が笑ったら、お父さん照れてた」
「……それがどうした?」
「あの手帳の絵も、下手でしょ」
「上手くはないな」
「でも、何が描いてあるか分かるでしょ?」
「……まあ」
「お父さん絵は上手くないけど――伝えたいことは全部、ちゃんと描けてる人なんだよ」
クロスは何も言わなかった。
「だから、あのページの子供はさ」ゾーイは続けた。
「クロスの妹じゃなくて、私なんだよ。お父さんが私のために描いた、私の絵なんだよ」
月が、雲の端から顔を出した。ゾーイの顔が見えた。クロスは「……そっか」それだけ言って、窓から離れた。毛布を取って、寝床に向かう。
「授業の続き――俺も手伝う」
振り返らずに言った。ゾーイは「うん」と言った。それだけで十分だった。
クロスは自分の寝床に潜り込んだ。毛布を被ってから、少しだけ考えた。
あいつに、村のどこを最初に見せてやろうか。海のよく見える岬の突端か。それとも早起きして、夜明けの浜か。久しく思い出してなかった故郷の風景。 それに安らいだクロスは、思いのほか早く眠ることができた。
だが、その日の深夜――敵の襲撃があった。
まず砲撃を受けたのは、一番奥の司令部だった。深夜。見通しも悪く、山から吹き下ろす風が最も強くなる時間帯。敵の観測手の有能さに気付いた兵士が、一番最初に避難壕へと走り出していた。
敵襲の鐘が響く。当然、子供兵たちも目を覚まし、枕元のザックを背負い駆けだした。
だが、空きスペースに作られた掘っ立て小屋は避難壕からは一番遠かった。
爆発が続く。子供兵たちはパニックになりながらも走る。何人かの軍人が彼らを抱えて走ってくれたが、多くはその横をすり抜けて行った。
子供兵に配給された軍服は、大人用の一番小さいサイズ。ソデもスソも折ってはいるが、動きづらかった。
最も小柄な少年が転んだ。その背中を、固い軍靴が踏みつけた。
ゾーイの体は勝手に動いた。その子に駆け寄ろうとし――はじき飛ばされ、壁に背中をぶつけた。痛い。でも足は動く。もう一度踏み出そうとした瞬間、その子の上を軍靴が二つ、三つと越えていった。
その子は、声を出さなくなっていた。動かなくなっていた。
それがゾーイには一番怖かった。泣いてくれていれば、まだよかった。声が出ないということの意味を、ゾーイは理解したくなかった。誰かに強く腕を引かれた。クロスだった。
「来いっ!」
「でもあの子が――」
「いいから!」
引きずられるように走った。クロスの手が痛いくらい強かった。癒合した二本の指が、自分の手に食い込む。クロスの背中越しに、大人たちが次々に避難壕へ駆け込んで行くのが見えた。
「早く! こっちだ!」
その入口で誘導してくれている兵士もいた──が、気付いてしまった。見てしまった。
沢山の叫び声の中で、ひと際大きい。自分の左側が熱い。赤い。
優しくしてくれていた兵士の一人。体についた火を消そうと手で叩いていた。
ゾーイの足が――止まった。
「おい!」
クロスの声が、遠い。
体に火が付いたときは叩くんじゃないの。顔を守りながら、地面に押しつけて転がるの。手帳に書いてあった。知ってる。だから伝えなきゃ。
手を払った。クロスの手が離れた。視界の端で、大人の腕がクロスを攫った。
「ゾーイ!!」
声が聞こえた。でも、火の消し方を伝えなきゃ――口から、空気だけが出た。
なんで。なんで声が出ないの。伝えなきゃ。転がるの。地面に押しつけて。顔を守って。
兵士が地面を転がり始めた。そうそれでいいの。そうすれば火は絶対に消えるんだよ。だって、手帳にそう書いて――消えなかった。火の勢いは一向に弱まらない。どうして?! 転がってる、転がってるのに?!
やがて、兵士は動かなくなった。縮こまり、小さくなって。
ゾーイは声が出ないまま、それをただ見ていた。兵士は燃料を浴びてしまい、それに火がついていた。だから火の回りは早かったし、転がったところで消えるはずがなかった。消すためには消火剤が必要だった。
なにもかもの輪郭が黒く染まっていく。視界も、走る足音も、爆発も、誰かの叫び声も、全部が水の底から聞こえるみたいに遠い。
爆発。飛んできた小石がゾーイの耳たぶを切り裂いた。その痛みで、ようやく音が戻った。ザックを掴んで走り出せた。
──が、向かった先は避難壕ではなかった。パニックになったゾーイは、とにかく火が無い場所へ走り出してしまっていた。ザックを拾えたのも、震える足で立ち上がろうと、支えにしたのがたまたまそれだったというだけの話だった。
向かってしまったのは『うさぎ穴の崖』。教官から「敵を追い詰めるとき以外は絶対に近づくな」と、厳しく言いつけられていた場所だった。無数に小さな穴が空いていて足をとられやすく、岩盤が谷にせり出した場所でも、向こう岸まで十メートルはある。
後ろからは叫び声と銃声。ここがどこかは分かった。でも、引き返せない。ガポガポとずれるヘルメットを抑えながら走り、何度もうさぎ穴に足をとられ転んだ。
あの太い木のうしろ! あそこに隠れよう!
目標を見つけ走る。また穴に足をひっかけ――ついに右足首をひねった。それでも這って木の裏に身を隠すことはできた。
だが――その先は真っ暗だった。
崖の終わりまでの距離がわからなかった。谷にせり出した岩盤の突端にある木の裏。足を捻り、身を隠すことを思いつかねば、あのまま落ちていてもおかしくなかった。背筋が凍る。
そして、ふと気づく。息ができない。吸おうとしても、胸がふくらんだまま動かない。吸えない。吐けない。胸がパンパンで苦しい。目の前が暗くなっていく、寒い――。
「息を吐くことだけに集中しろ!」
父に頬を叩かれたことを思い出した。訓練中にもコレはあった。耳の奥でどんどんと心臓が鳴っている。うるさい。静かにして。息を吐く。吐き続ける。限界だ。短く息を吸う。それを繰り返す。やがて──まだ心臓はうるさいが――意識はしっかり確保できた。考えろ。考えるんだ。
敵がいなくなるまで、ずっとここに隠れていようか? だめ、絶対に見つかる。
谷を渡る? だめ、ロープを投げる先が真っ暗で見えない。
木にロープを引っ掛けて谷底に降りる? だめ、深さが分からない。ロープが足りなければ私は……と、思いついた。
そのアイデアを実行すべく、木の根元に素早くロープを巻きつけ、自分の股の下にも通し体にも巻く。ブレーキに使うのは右手。谷底でごうごうと吹く風の音に混じり、敵兵の声が小さく聞こえた。間違いなくこちらに向かって声を飛ばしている。
覗き込んだ谷底は真っ暗。けど、怖がっている時間は無い。ザックを背負い、歯を食いしばりながらゾーイは――身を投げた。閃いたアイデア。それは、崖下にロープでぶら下がり敵をやり過ごすことだった。が、崖のでっぱりを忘れていた。
支点に引っ張られ、体が大きく振れる。崖肌にぶつかる! と、ぎゅうっと身を固めたが、体は無事後ろに振られた。すぐ上で「ぎゃっ」という大人の叫び声が聞こえた。敵兵がうさぎ穴に足を取られて転んだのだろう。
だが、それで稼げた時間はわずかだった。飛び降りた反動でまだ体が前後に揺れている。もし今覗き込まれたら、自分は丸見えだ。来ないで! そう強く祈ったとき。
――花の匂い?!
暗闇の向こう。確かに強く香る。ロープが震えた。「ここにいるぞ!」そう言ったことくらいは分かった。三十キロもない自分は、すぐに引き上げられてしまう。
ロープが引っ張られる。もう数秒で引き上げられる。花は、死んだ花と生きてる花で匂いが違う。村での記憶。体が覚えていた。
これだけ生きてる花が咲くなら――土がある。
根拠を作った。ナイフを引き抜いた。崖肌に振られる瞬間、ロープを切った。
浮遊感。だが、それも一瞬だった。縮こめた足に何かが触れた。地面だ。転んだ。ヘルメットに衝撃。真っ暗だった視界が白くはじけた。音が、すうっと引いていった。
*
ゾーイが辿り着いたそこに、朝陽が差し込んできた。
眩しさに顔をしかめながら目を開き、手をついた先の正体を見る――花だった。
そうだ、自分はこの花の匂いを信じて飛んだんだった。
だけどこれは──思った以上に広い。そこは、訓練所のベッドを四つ並べたほどの密やかな花畑だった。見上げればロープが垂れ下がっている。よくあんな場所から、ここに着地できたものだと背筋が凍る。
振り返ると洞窟があった。立ち上がろうと右足に体重をかけた瞬間、鋭い痛みで膝が崩れた。
洞窟の奥はわずかに明るい。どこかに繋がっている? 音はしない。けど敵がいるかもしれない。声を出すな。音を立てるな。足を引きずりつつ、一歩ずつ父に教わった足運びで洞窟の奥へ進む。
そしてそこは──ゆるやかなカーブを描きながら天井が低くなり、十歩ほどで行き止まりだった。天井にいくつか穴が空いており、柔らかな朝の光が差し込んでいた。
──うさぎ穴だ!
手で光を受けながら思った。間違いなくあの崖の下で自分は生きている。大声を上げたくなったが、どうにか我慢した。
ゾーイの最初の行動は、父の教え通り装備の確認だった。
ザックの中身を全部出す。水を沸かしたり、ご飯を炊くための飯盒。五日分の携帯食。満タンの水筒。薬箱と包帯。テント代わりに使える油が染み込んだ大きな布。切って短くなった二メートルくらいのロープ。ナイフ。ヘルメット──そして、胸ポケットにある手帳。
それを取り出し開く。足首の固定の仕方――絵の手順通りに包帯を巻く。うまくいかない。痛めた右足でページを踏みながら巻き直す。不格好で動き辛いが、痛みは引いた。
岩肌に、ほんの少し滲む水を見つけた。ルートを作り飯盒の底へ導く。『煮沸できない場合のみ、太陽光に六時間以上晒してから飲むこと』そう手帳にある。なんにせよ待つしかない。
花畑に戻り手帳の絵と見比べる。これはだめ。これもだめ。これは――絵と葉の形が合う。匂いも、山に放り出されたとき食べたのと同じ、柑橘の匂い。
五日分の食糧と、食用の花。これで食糧は六日分になったとまとめてみた。
そのとき、ゾーイは初めて奇妙な感覚を覚えた。私が生き延びているんじゃなくて、お父さんが生かしてくれているみたいだと。
まるで近くにいて教えてくれているようだ。何度も読んだはずなのに、もっと教えてほしい。
次のページ、次のページとめくり続ける。
そこでふと――火だるまになっていた兵士の事を思い出してしまった。
いくらめくっても、自分の体に点いた火を消す方法はひとつしか書かれていない。
最初のページから読み直す。やっぱり、ない。あの兵士さんも手帳の通り転げ回っていた。でも――消えなかった。手帳が、少し薄くなった気がした。こんなに分厚いのに、と思いながら。
膝の震えが強くなった。口を手で押さえる。声を出すな、父の声が聞こえた気がして、逆に泣きたくなった。
でも泣かなかった。涙が出なかった。それが一番怖かった。
――動けなくなったら、なにかひとつ口に入れろ。それでひとつ動ける。
だけど、動くきっかけをくれたのも、また父の言葉だった。花びらを一枚、口に入れた。苦い。ごわごわする。もう一枚。また一枚。噛みながら、ゾーイは思った。
一か月しかなかった。それでも毎晩書いてくれていた。
それでも全部は書けなかったんだろう。当たり前だ。ページには限りがある。戦争は、手帳より大きい。最後の空白の数ページだって「覚えたことを書きなさい」と足されたものだ。
花びらを飲み込んだのに、口の中がごわごわする。けど、元気は出た。
気付けば夜が降りていた。洞窟の入口に座り、月を見ていた。みんなもこの月を見ているかもしれない、そう思うだけで、不思議と息がしやすくなった――ふと、クロスの顔が浮かんだ。なんで? 首をひねる。
「クロス」口を動かす。声は出さない。もちろん返事はない。もう一度、動かす。帰ったら、海を見せてもらわないといけない。しょっぱいかどうか、確かめなきゃいけない――そんな子供っぽいことを言ってしまった。そんなことは弟が言いそうだ。恥ずかしくなり膝の間に顔をうずめた。
そのとき――微かに話し声が聞こえた。
洞窟の奥まで這って駆け込み、布で体を包んだ。うさぎ穴から月の光と一緒に声が降ってくる。
近づいてくる、大勢。知らない言葉、敵だ。
その中に子供の泣き声が混じっていた。訓練所の誰かが連行されたのかもしれない。捕まったのかもしれない。
ゾーイは布の中で目を開けた。行ってはいけない。右足は動かない。上がる手段もない。武器もナイフ一本しかない。
今の私には何もできない。分かってる。
言葉が降ってくる。子供が泣いている。
助けに行けない。何も出来ない。
手帳を取り出す。当然こんな状況でできることなど書いてない。
石になって、息を殺して、朝まで待つしかない。
きっと、それが正しい。
五秒、数えた。
最後の数ページ、まだ何も書かれていない。
なにもせず夜明けを迎えたら、この泣き声を一生覚えていそうだった。
鉛筆を、拾った。
手が震えていた。震えたまま書いた。
震えて書いた字でも、字は字だった。それで十分だった。
――私しか知らないことを、ここに書くんだ!
昨夜から、今までのこと。花の匂いを頼りに飛べば、崖の下に花畑があるかもしれないということ。洞窟に入れば身を隠せること。うさぎ穴は光が通ること。岩肌から水が滲むこと。
お父さんが、お父さんしか知らないことを書いたように。いつかこの手帳が、誰かの手に渡るかもしれない。クロスが書き写してくれた。訓練所の子たちが書き写してくれた。書き写した子が、また別の子に見せていた。
なら書く。今夜ここで自分が知ったことを、全部書く。風が強い。洞窟に吹き込むたびにページがめくれた。飯盒をページの端に置いた。水は少ししか溜まっていなかったが、手とそれだけで重しは十分だった。
『いつかの誰かのために。この手帳が、誰かの手に渡るかもしれない。だから書く』
そう始めていた。布の端が光をかすめていた。震える手でそれを引き寄せ、影でくるまりながら続ける。
夜、村から見た山は真っ黒でなにも見えなかった。
けど、あの山に放り出された日の夜。山から明るい村はよく見えていた。
明るいほうから、暗いほうはよく見えない。
自分の拳ほどあるうさぎ穴でも、覗かれても何も見えないはずだ。
そう信じ、それも書いた。
奥歯がカタカタと鳴っていた。左手の親指の付け根を噛み、それを消した。一つだけ残っていた乳歯がぐらりと揺れた。
書くんだ。とにかく知っていることを。
『クロス』
『死んだら終わりだと言われた』
『海に行きたい』
『海はしょっぱい』
『クロス』
最後は無意識に書いていた──ふっと目の前が暗くなった。体が、限界を告げていた。極限の緊張。脳が選択した強制的な休息だった。鉛筆が、指からこぼれ落ちた。
ゾーイは、知らぬ間に寝息を立てていた。右手は手帳を離れ、地面へ。
深く、深く眠る。こわばった表情は徐々にやわらぎ、年相応の柔らかな寝顔に変わっていく。
風が洞窟内からうさぎ穴を伝い、わずかに花の香りが立ち上がった。酒で鼻が詰まった兵士たちはそれに気付かない。
穏やかに眠るゾーイも花の匂いを感じ、家の食卓に花が飾られた日のことが、夢に浮かんでいた。
「草むしりのお礼にくれた!」と、両手いっぱいの花を抱えて、弟が駆け込んで来た。
母がそれを食卓の真ん中に飾ってくれた。父が芋を取ろうとして花瓶に肘を当てた。テーブルが水浸しになった。慌てて布巾を取ろうとした父の大きな手が、杖をとりそこね転んで弟は大笑い。自分も笑った。母には怒られたが、父は笑っていた。
それが続くうちに──いつの間にか食卓は大きくなった。村の人たちが全員座っている。
村長さんが口を抑え、少し上を向きながら食べている。
いつも通りだ。みんなが笑っている。あたたかい。
ゾーイがそんな楽しい夢を見られたのは、花の匂い以外にもいくつか理由があった。
崖の上の兵士たちが煮込んでいるスープの匂いが、うさぎ穴から流れ込んでいたこと。
さらに、言葉こそ分からないが、敵兵たちの陽気な笑い声が彼女の耳にも届いていたからだ。
深い眠りに落ちるにつれ、その幸せな夢も消えていく。
すうすうという小さな寝息は誰にも聞こえない。
口のはじからはよだれを垂らし、ゾーイは深い深い眠りに落ちていった。
だからゾーイは――痛みを感じることなく死ねた。
ごうっと強い風が吹き、ページが飯盒を持ち上げ、転がり、岩肌を打った。
短く澄んだ小さな金属音が、うさぎ穴を伝って上へと抜けた。
崖の上では宴会が続いていた。
怒鳴り声と笑い声。肉の焼ける匂い。
カンッ──金属音。兵士が最も過敏になる音。
一人が、ふと手を止めた。
聞こえた、と思った。穴の下から。
仲間に言った。笑い声が穴に集まった。
ゾーイの死因は、兵士がうさぎ穴に投げ込んだ手投げ弾だった。
爆発。洞窟が銃身になった。
火薬の爆発は、眠る少女を谷底へと撃ち出した。
痛みは、なかった。花びらが舞う。月の光が、優しい。
谷底の岩に右肩から叩きつけられ、跳ね、辛うじて繋がっていた部分が、もげた。
なにが起きたか分からなかった。顔には片方の目しか残っていなかった。
――あれ……?
月。
――クロス。
帰ったら、海。
「いかないで」弟が泣いている。
お母さんに抱きついた。いいな。
急に影が差した。
手が見えた。
大きくて――父の手に、少し似ていた。
ゾーイは死んだ。
痛みは、なかった。
*
翌朝、崖の調査に向かった兵士は少女を見つけた。
上から「なにかあったのか」と声が降ってきた。
返事ができなかった。
少女は散った花びらに囲まれ横たわっていた。朝の露が、花びらの上で光っていた。ヘルメットが、少し離れたところに転がっていた。右足は不器用ながらも包帯で固定してあった。
膝をついた。赤い髪だった。この子は、崖の下で生きていた。兵士には、十歳の娘がいた。赤くはない、薄い茶色の髪だ。背格好も違う。それでも――膝が、地面から離れなかった。
少女の傍らに、一冊の手帳があった。革の表紙。煤けているが、形を保っている。
最初のページに、ロープの結び目の絵があった。番号が振られていた。一から七まで。
丁寧で、不器用な絵だった。次のページ。次のページ。次のページ。
兵士はそれを、全部読んだ。どれだけかかったか分からなかった。上から何度も声が降ってきた。全部、聞こえなかったことにした。そんなことをしたのは、軍に入って初めてだった。
最後の数ページで、筆跡が変わった。
子供が、震える手で書いた字だと思った。
崖の下の花畑のこと。うさぎ穴のこと。岩肌から水が滲むこと。
兵士は手帳を閉じ、少女を、もう一度見た。何かを言おうとした。言葉が、出なかった。
この子に聞かせるべき言葉を、自分は何も持っていなかった。
やがて――立ち上がった。手帳を持ったまま、崖を登った。
上官に差し出すとき、一瞬だけ手が止まった。
それでも、差し出した。それ以外にできることが、なかった。
手帳が上層部に届いた。
最初に開いた男も、最後のページまで読んだ。
窓の外を一度だけ見たあと――最後のページを、破り捨てた。
「海に行きたい」という言葉が、ゴミ箱に落ちた。
「クロス」という名前が、ゴミ箱に落ちた。
そして――この手帳は、小さな冊子となり大量に印刷された。
『敵国で配布されていた、子供向けの残酷な戦闘教本』
配布先のリストには教育施設も含まれていた。
◆
父の命は、戦争が持っていった。
祖母と母の心は、父の死が持っていった。
祖父のことは、なにも教えてくれなかった。
俺の家は、常にどこかが欠けていた。塞ぎこんでしまった母と祖母は、ひとり息子の俺にも無関心だった。軍から迎えのバスが来た日、母に祖父の事を聞いてみた。
「……お義父さんは、愛国心のない人だったから」
それだけ。他の親と違い涙は流してくれなかった。
それで──別に良かった。
寄宿学校に来て三日目の朝、初めて上のベッドの住人と言葉を交わした。
フィン。同い年。左手の親指が、生まれつきないらしかった。そいつは毎晩眠れないようでゴソゴソと動いていた。泣いていたのかもしれない。でも声は聞こえなかった。俺も眠れなかった。だから知っていた。ある夜、我慢できなくなって聞いてみた。
「眠れないのか?」
ベッドの下から。顔も出さずに。音がぴたりと止んだ。
「……お前も眠れないんだろ?」
「俺は眠れない理由がある」
「お、俺にだってある!」
それきり、どちらも何も言わなくなった。
俺が眠れない理由は、父の顔が思い出せなくなってきたからだった。声は覚えている。手の形も覚えている。でも、顔だけが霞んでいく。
それを誰かに言ったことはなかった。
授業が始まり、教官がロープの結び方を一度見せ、あとは教科書を見ながら各自でと言った。
制限時間は、ひとつの結び方に3秒。隣の席のフィンは何度も失敗していた。欠けている親指など関係ないと結べはするのだが、どうしても時間が足りなくなっていた。
「……支点はここに置いて、左手は添えるだけでいい」
フィンは俺を見た。それからロープを見た。もう一度やった。コツを見つけたようだった。
「……器用だな」フィンが言った。
「父親に教わっただけだ。雨の日の暇つぶしに」
「俺の親父は、釣りくらいしか教えてくれなかった」
「戦争中は役に立たないな」
「……一緒に遭難したら、お前の倍は釣ってみせる」
どちらからともなく、小さく笑った。声を殺した笑いだった。それでも笑えた。
二週間目のある午後、教官が言った。
「今日の訓練はない。特別講演がある」
演台に立ったのは、老人だった。
腰が曲がり、白髪。軍服ではなく、くたびれた民間の上着を着ている。右手が、袖の中に隠れていた。
教官が紹介した。かつて敵国側にいた人物だと。帰化の際、敵国での名は捨てたと。そして例の冊子――その正しさを証言できる、唯一の生き証人だ、と。
老人はその紹介を、表情ひとつ変えずに聞いていた。
そして、静かに口を開いた。
あの手帳は全て事実だ。私も実際に、その原本を読まされた。敵国は子供に人殺しを強いて、洗脳教育をしていた過去がある。子供たちよ、この教えを広めていたあの国を許すな。
声は低く、よく通った。だが老人の目は、一度も俺たちを見ていなかった。ずっと遠くを見ていた。崖の下の闇でも見ているような目だった。
信じている人間の目じゃない、と思った。
講演の終盤。老人の視線が一瞬だけ動いた。俺の顔のあたりで――止まった。そのまま、また遠くへ戻った。
「クロス、お前は残るように」
講演のあと、教官に呼び止められた。返事をするため振り返ると、教官はすでに老人のほうを向いていた。そして、集会所には老人と俺だけになった。
「……お前の父親はウォルフというか?」
「はい」
老人は、集会所の入口を見た。立っているのはさっきの教官だ。そして老人と目が合った教官は――視線を下げた。それを確認した老人は、懐から二つのものを取り出した。
一つは例の冊子。国から配られ、自分も持っている。
もう一つは、革表紙の古くて分厚い手帳だった。煤けて、端が擦り切れている。
老人は冊子を上に重ね、差し出してきた。
「誰かに聞かれたら、上のものだけ受け取ったことにしろ」
「……これはなんですか? なんで俺に?」
俺は受け取れなかった。受け取ってしまったら、何かが変わる気がした。老人は少し間を置いた。
「お前の父親に、渡そうとしたことがある」
「父にですか?」
「受け取らなかった。燃やせと言った」
俺は黙った。
「……それでも俺は燃やさなかった。呪いじゃない、祈りだと思ったから。ずっとそう思ってきた」
老人は手帳を差し出したまま、待っていた。手帳を持つ手。袖から出た右手の人差し指と中指が、途中から曲がったまま動いていなかった。
父が拒んだものが──今、目の前にある。俺はゆっくりと手を伸ばし、それを受け取った。
古い。戦火をくぐりぬけたものだ。誰かが長い時間をかけて、何度も触れてきたものだと分かった。
「お前のものだ」
老人は踵を返した。出口に向かいながら、振り返らずに言った。
「……その手帳の内容を知っていた子供たちが、何人も生き残った。それが役に立ったのか、何人生き残ったのかは知らない。でも、いた。」
それだけ言った。それきり、何も言わずに出て行った。杖もついていないのに、老人の足音は右と左で、わずかに違った。
*
消灯後、毛布の中に潜り込んでから、月明かりを頼りに手帳を開く。
最初のページ。まず、縄の端が一本。折り返されて輪になる。次。くぐる。次。回る。次。また戻る。次。引っ張ると――輪がひとつ残る。数字が、一から七まで振られていた。そして、小さく書いてあった。
『まずここから』
命令じゃない。ただ――ここから始めろ、と言っている。冊子と見比べる。絵は同じだが、冊子にはほとんど文字が書いていない。内容も端折られている。
(あの老人が、冊子を自前の手帳に書き写したものだろうか?)
読み進めた。野営の方法。水の作り方。食べられる草の見分け方。冊子もそうだが絵は上手くはない。むしろ下手だ。だが――何が描いてあるかは分かる。どのページも、分かる。
けれど書かれた文字の補足は、冊子よりも丁寧で分かりやすい──が、冊子は戦闘術のページで終わっているが、これには先があった。
よく見ると、一度破られたものが修復されていた。
筆跡が変わった。子供が慌てて書いた字だと思った。先程とは違う。分かりやすくはない。
崖の下の花畑のこと、うさぎ穴のこと、岩肌から水が滲むこと。書いてあることの一つ一つが拙い。体で知った情報だと分かった。
そして、最後に――ミミズが這うような文字。
『クロス』
『死んだら終わりだと言われた』
『海に行きたい』
『海はしょっぱい』
『クロス』
手が、止まった。同じ名前が二度も出てくる。
──私も実際に、その原本を読まされた。
確かにあの老人はそう言っていた。『その原本を』少し変な言い回しだとは思った。
そこで――ある可能性が浮かんだ。
一番最初に発見されたという、子供向け戦闘教本。それは、ある少女が持っていたものと授業で教えられた。配られた冊子は、それを元に複製されたものだとも。
だが、この手帳の最後に書かれた、冊子にはない子供の字。女の子の字かどうかは分からない──だから、あくまで可能性だ。
「おもしろいのか、それ?」
上の段からフィンが頭をぶら下げていた。
「な、なんだよ!」
「いや、珍しく早く寝たって思ったら起きてるから……」
フィンより後に寝た記憶しかなかったが、自分も無意識に動いていたのだろうか。恥ずかしくなった俺は
「な、なぁ! フィンは海で釣りしたことってあるのか?!」
そう誤魔化していた。
「……あるけど。なんで急に?」
「海って、しょっぱいのか?」
手帳にあった。間があった。眉をひそめている。俺の親父は海の話をするのを何故か嫌っていた。当然、連れて行ってくれたこともなかった。
「当たり前だ。なんだ飲んでみたいのか? 子供みたいなヤツだな」
「違う!」
「じゃあなんで」
俺は少し考えた。うまく答えられなかった。
「知りたかっただけだ」
フィンは何も言わなかった。それ以上聞かずに、頭を引っ込めてくれた。
それを確認し、もう一度開く。
あの老人がどうやって、この原本を手に入れたかは分からない。
だが、これは──政府が言うような残酷な戦闘教本なんかじゃない。
複製した冊子では分からなかった。この子を思い、贈った願いそのものだと思った。けど、これをこのまま自国の正義の根拠にするには都合が悪かったのだろう。だから内容を――。
背中が、冷たくなった。
父は受け取らなかった。燃やせと言った。当然だ。こんなもの存在していいはずがない。そもそも国が管理しているはずだ。
でも、老人は燃やさなかった。そして父は死に、老人は俺の前に現れた。父が拒んだものを、息子に渡すために。
なぜそうしたのか? 答えは出なかった。
ただ――俺は今、受け取ってしまっている。それだけが、事実だった。
俺はベッドの上の段の柵に手を掛けた。自分が何をしようとしているのか、分かっていた。なぜそうしようとしているのかは、うまく言葉にならなかった。
「これ、読むか?」
この手帳は端折られていない分、冊子よりも情報が詰まっていた。だから、教えてやりたいと思った。それが正しいことか、どうかは分からなかった。分からないまま聞いていた。
「さっき読んでたヤツか?」
頷く。これが危険なものなのは分かっていた。だから
「知らない爺さんにもらった。冊子を書き写したものみたいだけど、授業で配られたやつよりも分かりやすいぜ」
そう言っておいた。
「ありがとう」
フィンは少し黙ってから受け取った。俺は自分の寝床に戻った。ゴソゴソという音に代わって、ページをめくる音がたまに聞こえた。その夜は――なぜかぐっすりと眠ることができた。
翌朝。目が覚めると、例の手帳が枕元に置かれていた。フィンはすでにベッドにいなかった。起床時間より早い。手帳の表紙に、小さく折り畳まれた紙が挟んであった。
『自分の冊子に書き足した。ありがとう』
それだけ書いてあった。俺は少し黙った。眠れない夜を、そのために使ったのか。
手帳を開いた。子供が書いた横の空白ページ――フィンの絵と字が増えていた。
訓練で使っている小銃の詳しい扱い方。分解方法。メンテナンス方法。トラブル対応。フィンが知っていたこと。フィンにしか書けなかったことが。
『最後のページまで使って悪い。けど、知っとくと便利だぜ?』
締めには『フィンより』名前も書いてあった。俺はそのページを、長いこと見ていた。それから、もう一度最初から手帳を読むことにした。ロープの結び目。一から七まで。『まず、ここから』
配置先が発表されたのは、その日の午後だった。
俺は第三分隊、フィンは第七。
別の場所だった。どちらも何も言わなかった。
*
配置先への出発前、荷物をまとめながら、フィンが言った。
「俺の家、海の近くだからさ。戦争が終わったら来いよ」
「釣りをするんなら、俺の倍は釣ってみせろよ?」
「もちろん」
フィンが笑った。そして結んであったロープをわざわざほどき、見せつけるように結び直した。
「これの礼に、釣った半分やるよ」
俺が結ぶのと遜色ない早さと形だった。
出発のラッパが鳴った。消えていくフィンの背中を、俺は見送った。
四本指の左手が、一度だけ小さく動いた。あれはロープを結ぶ動きだった、と俺は思った。確かめる方法は、もうなかった。
父の顔が、また少し霞んだ気がした。代わりに――フィンの後ろ姿が、はっきりと見えた。
車の荷台に詰め込まれたあと、手帳を取り出し、綴じていた紐を外した。
そして――用意してあった紙を足し、綴じ直し、鉛筆を取り出した。
『俺が知ってることを、次の誰かへ』
まだ書くことは決まっていない。手帳を閉じ、また胸ポケットに入れた。
この戦争が終わったら、確かめなければならないことが、たくさんある。
手帳が発見されたという崖下には、本当に花畑があるのか。岩肌から水は本当に滲んでいるのか。明るい上からは、本当に暗い下が見えないのか。フィンは本当に釣りが上手いのか?
少女が書いた。フィンが教えてくれた。でも、自分の体で知るまでは、本当のことにはならない。そうだ──海が本当にしょっぱいのかも確かめなければならない。
車が走り出し、ぐらりと揺れた。胸の手帳がほのかに温かかった。
*
レンの胸ポケットの底に、茶色い粉が僅かに溜まる。
それは手帳の皮表紙の下、裏表紙に貼られた小さな押し花だった。
ゾーイの父が『愛する娘へ。生きて帰ってくることを祈って』その言葉と共に添えた、小麦の花だった。夏のほんの短い間にだけ咲く、小さな黄色い花。
ある山の村で、赤毛の老人が稜線を見ていた。
豊かに実った小麦が風に揺れていた。
ゾーイが、いつも列の先頭で揺らしていた赤毛のように。
港町では、一人の老人が網を手に取っていた。
昔折れた二本の指が今日も痛んだ。
海は、静かだった。
夜明け前が一番静かで、空が白くなるとだんだん波の音が大きくなる。
『あいつ』が言った変なことを思い出し、笑う。
波の音が少しずつ大きくなっていく。
鳥が、鳴き始めた。




