おすすめにいる
「無理。今日はもう、人間やめる」
そう呟き、ソファに沈みこむ。靴も脱ぎっぱなしで上着だけをずるずると腕から引き抜いて、脱皮した殻みたいにテーブルの端に置く。部屋は静かで、冷蔵庫の低い唸りだけが壁の向こうで眠りを知らないように続いていた。
何も考えたくないときほど、指は勝手にスマホを開く。おすすめ欄は気楽だった。知らない誰かの短い動画、ハムスター、料理、観葉植物の手入れ、役に立つのか立たないのか分からない小ネタ。自分で選ぶ必要もない、ただ流れてくるものを眺めているだけで時間が潰れる。
その夜、古い喫茶店の写真が流れてきた。磨りガラスがはまった木の扉。角の欠けた白い灰皿。雨上がりらしく、店先のアスファルトが鈍く光っている。画面越しなのに濡れた地面とコーヒーの冷めた匂いまでしてきそうな写真だった。
投稿したのは知らないアカウントだった。アイコンは初期設定のまま、名前も記号みたいで読めない。本文はひとことだけ。
#今日の午後
どこかで見た気がした。けれど、どこだったか思い出せない。私は指を止めかけて結局そのまま流した。
翌日も、そのアカウントが出てきた。今度は小さな公園のベンチだった。塗装の剥げた木の板、脇に落ちた銀杏の実、奥に見える古びた街灯。昨日、帰り道に少しだけ腰かけた場所と同じだった。
思わず画面を拡大した。ベンチの端に、白いコンビニ袋が写っている。結び目の癖まで見覚えがあった。昨日、私がパンの袋を入れて捨てたやつに似ていた。投稿はやはり、ひとことだけだった。
#今日の午後
喉が絞まるような感覚がした。偶然と言い聞かせるには、写真の角度がいやに近かった。あのとき私が立って、ぼんやり街灯を見ていたあたりからこちらを向けて撮ったようだった。
その日から、おすすめ欄にそのアカウントが混じるようになった。毎回ではない。三つか四つ、どうでもいい投稿を挟んだあと、忘れた頃にまた出てくる。駅のホームの黄色い点字ブロック。雨の日のコンビニの傘立て。スーパーの冷蔵棚の前に落ちていた、値引きシールの剥がれかけた惣菜パック。どれもこれも、私がその日に見た景色と、気味が悪いほどよく似ていた。
似ている、ではなかったのかもしれない。数日目に出てきた写真には、私の指先が写っていた。自販機の釣銭返却口に、つい手を入れかけたときの写真だった。缶コーヒーの取り出し口の黒い縁、擦り傷の入った銀色のパネル、その隅に差しかけた私の爪。
画面の中の指は、私の指だった。短く切った親指の爪の形まで同じだった。心臓が速鳴り、スマホを落としそうになった。投稿には初めて、ハッシュタグ以外の文字がついていた。
『見つけたね』
その夜は、カーテンを閉めてからも落ち着かなかった。窓の向こうに誰か立っている気がして、何度も覗いた。もちろん誰もいない。ここは五階だし、外廊下もない。それでも、見られている感じだけが残った。首の後ろに、冷たい息を吹きかけられているようだった。気味が悪くて、そのアカウントをブロックしようとした。プロフィールを開く。投稿は全部で十数件しかない。写真ばかりだが、人の顔は一度も写っていない。
ブロックのボタンを押したはずなのに、画面が一瞬暗くなって、すぐおすすめ欄に戻された。そこに新しい投稿が上がっていた。私の部屋の玄関だった。内側から撮ったものではない。外から、閉じたドアを真正面に見ている。覗き穴の少し下、郵便受けの金属の縁に光が白く反射していた。投稿時刻は、たった今。
心臓が強く跳ねた。耳の奥で、自分の血の音がざわざわ鳴る。玄関まで行く勇気が出ず、私はソファの上で足を抱えたままスマホだけを見ていた。
コメントが一件ついていた。投稿者本人からだった。
『最適化を開始します』
その文字を見た途端、部屋の温度がすっと下がったような気がした。冷房などつけていないのに、膝のあたりが冷える。妙に湿った感覚がして気味が悪い。次の投稿。洗面所の鏡。次の投稿。脱ぎ散らかした上着。次の投稿。
ベッドの枕元。どれも今この部屋のどこかにあるものなのに、私の視線より先に撮られている。まだ見ていない角度から。まだ向いていない方向から。
画面を閉じようとしたが、指が強張りスクロールが止まらない。指先を離そうとしても、画面だけがするすると下へ滑っていく。ガラスの下にもうひとつの透明な指があって、それが私の代わりに操作しているみたいだった。
耳鳴りに似た細いノイズがした。電子音というより、遠くで誰かが爪を立てて壁を撫でているような気に障る音だった。画面の隅に、小さな文字が浮かんだ。
『あなた向けの表示を調整しています』
息を呑んだ拍子に咳が出る。その震えで、スマホの画面が少し傾いた。暗くなった画面の縁に、私の顔がぼんやり映る。そのすぐ後ろにもうひとつ、頭の形をした影があった。私は振り返れなかった。振り返ったら気のせいではなく、認識してしまうと思ったのだ。ただ前だけを見て、画面に映る次の投稿を待つしかなかった。
新しい写真が表示された。真っ暗な寝室。掛け布団の端だけが白く浮いて、その向こう、ベッドの脇の床に人の足元のような濃い影が落ちている。
投稿文はなかった。コメント欄が一つだけ、静かに増えていた。
『おすすめの最適化が完了しました』
それ以来、おすすめ欄には、ときどき私の部屋が出る。まだ帰っていないはずの時間の台所。消したはずの明かりのついた浴室。開けた覚えのないクローゼットの隙間。
ブロックも通報もできなかった。アカウント名で検索しても出てこない。なのに、疲れて何も考えたくない夜ほど、必ず上に上がってくる。いちばん嫌なのは、写真の出来が少しずつ良くなっていることだ。構図も、光の入り方も、私がぼんやり見ている現実より綺麗になってきている。自分の生活なのに、画面の向こうにある方が整っていて、居心地がよさそうに見える。
この前の投稿にはベッドが写っていた。布団の膨らみからすると、誰かもう横になっているらしかった。薄いシーツの上に、私のスマホだけが置かれていて、画面にはおすすめ欄が開いていた。その投稿には、久しぶりにハッシュタグがついていた。
#今日の午後




