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今日の空はどうだ  作者: 琴坂伊織
今日という日の使い方

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9/9

第五節 出発の朝

 まだ暗い。


 吸血鬼には体内時計がある。夜明けの一刻前に、自然と目が覚めた。


 セレノスは寝台に横になったまま、天井を見た。


 この天井の木目は、一年以上見続けてきた。節の位置も、ひびの入り方も、全部知っている。


 今日、ここを出る。


 決意した、という感じではなかった。


 ただ、そういうことになっていた。


 条件は尽きた。言い訳は思いつかなかった。


 だから、今日だった。


 起き上がる。


 荷物は昨夜のうちに纏めてある。


 布の鞄ひとつ。中身を確認する。


 着替えを二枚。給金の小袋。古地図。旅のノート。碁盤。女将からもらうつもりの携帯食は、まだ入っていない。


 持っていくものが少ない。


 前世でも、死んだとき手元に何もなかった。


 でも今回は違う。


 少ないのではなく、これだけを選んだ。


 鞄を閉じる。


 屋根裏部屋を見回す。


 寝台。小さな卓。ランプ。それだけの部屋。一年以上いたのに、自分の痕跡がほとんどない。もともと何もなかったし、去っても何も残らない。


 ——それでいい、と以前は思っていた。


 今も、少しそう思う。


 でも「それでいい」の意味が、少し変わった気がする。


 残さないのではなく、持っていく。


 ランプを手に持って、梯子を降りた。


 厨房の扉を開けると、明かりがついていた。


 女将がいた。鍋の前に立って、火を入れている。まだ夜明け前だ。普段より一刻は早い。


 セレノスは扉口で止まった。


 女将は振り返らずに言った。


「起きたか」


「……はい」


「早いな」


「……はい」


 沈黙。鍋の中で何かが温まり始める音。


 女将は、知っていた。


 いつから知っていたのかは分からない。


 でも、知っていた。


 だから今朝、早く起きていた。


 セレノスはそれを、言葉にしなかった。女将も、言葉にしなかった。


 女将が鍋から離れて、棚から包みを取り出した。布に包まれた、平たいもの。


「持っていき」


 セレノスは受け取った。


 包みの中には、乾燥させたパンと、小さな瓶がいくつかと、薬草の束が入っていた。いつ用意したのか、パンは昨日焼いたものではなく、もう少し前から乾燥させてあるものだった。


 計画していた。


 自分が出ると、女将は知っていて、準備していた。


 何と言えばいいか分からなかった。


「ありがとうございます」と言った。声が、裏返らなかった。


 女将は「ん」とだけ言って、また鍋に向き直った。


 セレノスが厨房を出ようとしたとき、女将が言った。


 振り返らないまま。鍋をかき回しながら。


「道中、馬鹿なことすんじゃないよ」


「……はい」


「腹が減ったら食べること。雨に濡れたら乾かすこと。無理だと思ったら戻ってくること」


「……はい」


「戻ってきたって、ここはあるから」


 それだけ言って、女将は口を閉じた。


 セレノスは厨房の入口で、少しのあいだ立っていた。


 何かを言おうとした。「お世話になりました」でも「またいつか」でも「ありがとうございました」でも、何でもよかった。


 でも言葉が出てこなかった。


 出てこないまま、頭を下げた。深く。


 女将は、鍋に向いたままだった。


 セレノスは廊下に出た。




 夜明け前の街は、人がほとんどいない。


 石畳に足音が響く。自分の足音だけが聞こえる。


 墓地は街の東側にある。門とは反対方向だ。遠回りになる。


 それでも、足が向いた。


 アルダンの墓は、墓地の端にある小さな石だ。


 名前だけが刻まれている。飾りも、花も、何もない。


 セレノスは石の前に立った。


 夜明け前の空が、少しずつ白んでいる。東の端が、ほんのわずかに明るい。


 何を言えばいいか分からなかった。


 分からないまま、立っていた。


 名前を知ったのは、葬儀の日だった。


 でもその名前を呼んだのは、まだ一度もない。


 心の中で呼んだだけで、声にしたことがない。


 息を吸った。


「……アルダン」


 声が、朝の空気に吸い込まれた。


 返事はない。当然だ。


 でも、呼んだ。声にして、呼んだ。


「今日という日に、この子と話せてよかった」


 あの夜、老人はそう言った。


 今日という日に。


 自分は今日という日を使おうとしている。


 うまく使えるかどうかは、分からない。


 でも、今日を、行くことに使う。


 何も言えなかった。言葉が足りなかった。


 それでも、もう少し立っていた。


 やがて、頭を下げた。


「……行ってきます」


 声は小さかった。でも確かに出た。


 セレノスは墓地を出た。




 夜明けの光が街に差し始めている。


 門に向かって歩く。足が、思ったより重くない。


 重くない、と気づいて、少し驚いた。


 門番は顔見知りだった。使いで何度も通った門番。


 セレノスの姿を見て、鞄を見て、すぐに分かったようだった。


「旅か?」


「……はい」


「どこへ」


「……まだ、決めていません」


 門番は一瞬だけ何か言いかけて、やめた。


「気をつけてな」


「……はい」


 門をくぐった。


 石畳が土に変わる瞬間を、今日は意識して感じた。


 一度立ったこの場所。あのときは引き返した。


 今日は引き返さない。


 風が来た。街道の方から。


 セレノスは立ち止まらなかった。


 風の中を、そのまま歩いた。




 しばらく歩いて、振り返ると、街の門が小さくなっていた。


 もう少し歩くと、建物の屋根も見えなくなった。


 灰猫亭の屋根も、見えなくなった。


 セレノスは前を向いた。


 街道が続いている。地図で指でなぞった、あの線が、今は足の下にある。


 鞄から地図を出した。


 広げる。風でめくれそうになるのを、両手で押さえる。


 現在地に指を置く。そこから先の線をなぞる。最初の街まで、どのくらいか、おおよそ分かる。


 地図の読み方を、旅人に聞いた。


 その旅人の名前は知らない。


 アルダンの名前を、墓石で知った。


 女将の名前は、知っている。


 自分はこれから、たくさんの名前を知らないまま通り過ぎて、たくさんの名前を知らないまま別れるのかもしれない。


 それでも、通り過ぎた場所は、通り過ぎた事実として残る。


 知らなかった名前も、呼んだ瞬間だけは、そこにある。


 地図を折り畳んで、鞄に戻した。


 歩き始める。


 風が、また来た。今度は後ろから来た。


 今日の空は、晴れていた。


 雲が一枚だけ、西から東へゆっくり動いている。


 誰かに聞かれたわけではない。


 ただ、今日の空を、見た。


 セレノスは歩き続けた。


 街道の先に、まだ行ったことのない場所がある。

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