第五節 出発の朝
まだ暗い。
吸血鬼には体内時計がある。夜明けの一刻前に、自然と目が覚めた。
セレノスは寝台に横になったまま、天井を見た。
この天井の木目は、一年以上見続けてきた。節の位置も、ひびの入り方も、全部知っている。
今日、ここを出る。
決意した、という感じではなかった。
ただ、そういうことになっていた。
条件は尽きた。言い訳は思いつかなかった。
だから、今日だった。
起き上がる。
荷物は昨夜のうちに纏めてある。
布の鞄ひとつ。中身を確認する。
着替えを二枚。給金の小袋。古地図。旅のノート。碁盤。女将からもらうつもりの携帯食は、まだ入っていない。
持っていくものが少ない。
前世でも、死んだとき手元に何もなかった。
でも今回は違う。
少ないのではなく、これだけを選んだ。
鞄を閉じる。
屋根裏部屋を見回す。
寝台。小さな卓。ランプ。それだけの部屋。一年以上いたのに、自分の痕跡がほとんどない。もともと何もなかったし、去っても何も残らない。
——それでいい、と以前は思っていた。
今も、少しそう思う。
でも「それでいい」の意味が、少し変わった気がする。
残さないのではなく、持っていく。
ランプを手に持って、梯子を降りた。
厨房の扉を開けると、明かりがついていた。
女将がいた。鍋の前に立って、火を入れている。まだ夜明け前だ。普段より一刻は早い。
セレノスは扉口で止まった。
女将は振り返らずに言った。
「起きたか」
「……はい」
「早いな」
「……はい」
沈黙。鍋の中で何かが温まり始める音。
女将は、知っていた。
いつから知っていたのかは分からない。
でも、知っていた。
だから今朝、早く起きていた。
セレノスはそれを、言葉にしなかった。女将も、言葉にしなかった。
女将が鍋から離れて、棚から包みを取り出した。布に包まれた、平たいもの。
「持っていき」
セレノスは受け取った。
包みの中には、乾燥させたパンと、小さな瓶がいくつかと、薬草の束が入っていた。いつ用意したのか、パンは昨日焼いたものではなく、もう少し前から乾燥させてあるものだった。
計画していた。
自分が出ると、女将は知っていて、準備していた。
何と言えばいいか分からなかった。
「ありがとうございます」と言った。声が、裏返らなかった。
女将は「ん」とだけ言って、また鍋に向き直った。
セレノスが厨房を出ようとしたとき、女将が言った。
振り返らないまま。鍋をかき回しながら。
「道中、馬鹿なことすんじゃないよ」
「……はい」
「腹が減ったら食べること。雨に濡れたら乾かすこと。無理だと思ったら戻ってくること」
「……はい」
「戻ってきたって、ここはあるから」
それだけ言って、女将は口を閉じた。
セレノスは厨房の入口で、少しのあいだ立っていた。
何かを言おうとした。「お世話になりました」でも「またいつか」でも「ありがとうございました」でも、何でもよかった。
でも言葉が出てこなかった。
出てこないまま、頭を下げた。深く。
女将は、鍋に向いたままだった。
セレノスは廊下に出た。
夜明け前の街は、人がほとんどいない。
石畳に足音が響く。自分の足音だけが聞こえる。
墓地は街の東側にある。門とは反対方向だ。遠回りになる。
それでも、足が向いた。
アルダンの墓は、墓地の端にある小さな石だ。
名前だけが刻まれている。飾りも、花も、何もない。
セレノスは石の前に立った。
夜明け前の空が、少しずつ白んでいる。東の端が、ほんのわずかに明るい。
何を言えばいいか分からなかった。
分からないまま、立っていた。
名前を知ったのは、葬儀の日だった。
でもその名前を呼んだのは、まだ一度もない。
心の中で呼んだだけで、声にしたことがない。
息を吸った。
「……アルダン」
声が、朝の空気に吸い込まれた。
返事はない。当然だ。
でも、呼んだ。声にして、呼んだ。
「今日という日に、この子と話せてよかった」
あの夜、老人はそう言った。
今日という日に。
自分は今日という日を使おうとしている。
うまく使えるかどうかは、分からない。
でも、今日を、行くことに使う。
何も言えなかった。言葉が足りなかった。
それでも、もう少し立っていた。
やがて、頭を下げた。
「……行ってきます」
声は小さかった。でも確かに出た。
セレノスは墓地を出た。
夜明けの光が街に差し始めている。
門に向かって歩く。足が、思ったより重くない。
重くない、と気づいて、少し驚いた。
門番は顔見知りだった。使いで何度も通った門番。
セレノスの姿を見て、鞄を見て、すぐに分かったようだった。
「旅か?」
「……はい」
「どこへ」
「……まだ、決めていません」
門番は一瞬だけ何か言いかけて、やめた。
「気をつけてな」
「……はい」
門をくぐった。
石畳が土に変わる瞬間を、今日は意識して感じた。
一度立ったこの場所。あのときは引き返した。
今日は引き返さない。
風が来た。街道の方から。
セレノスは立ち止まらなかった。
風の中を、そのまま歩いた。
しばらく歩いて、振り返ると、街の門が小さくなっていた。
もう少し歩くと、建物の屋根も見えなくなった。
灰猫亭の屋根も、見えなくなった。
セレノスは前を向いた。
街道が続いている。地図で指でなぞった、あの線が、今は足の下にある。
鞄から地図を出した。
広げる。風でめくれそうになるのを、両手で押さえる。
現在地に指を置く。そこから先の線をなぞる。最初の街まで、どのくらいか、おおよそ分かる。
地図の読み方を、旅人に聞いた。
その旅人の名前は知らない。
アルダンの名前を、墓石で知った。
女将の名前は、知っている。
自分はこれから、たくさんの名前を知らないまま通り過ぎて、たくさんの名前を知らないまま別れるのかもしれない。
それでも、通り過ぎた場所は、通り過ぎた事実として残る。
知らなかった名前も、呼んだ瞬間だけは、そこにある。
地図を折り畳んで、鞄に戻した。
歩き始める。
風が、また来た。今度は後ろから来た。
今日の空は、晴れていた。
雲が一枚だけ、西から東へゆっくり動いている。
誰かに聞かれたわけではない。
ただ、今日の空を、見た。
セレノスは歩き続けた。
街道の先に、まだ行ったことのない場所がある。




