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今日の空はどうだ  作者: 琴坂伊織
今日という日の使い方

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第四節 出発の条件②

 女将から、街外れの農家への届け物を頼まれた。いつもの使いだ。


 地図で確認すると、その農家は街の門を少し出たところにある。


 門の外。


 一瞬、足が止まりかけた。


 でも、女将に頼まれた使いだ。行かない理由がない。行けない理由もない。


 セレノスは荷物を持って、歩き始めた。


 街の門へと辿り着いた。そこには二人の門番が、静寂の中に佇んでいた。


「お使いか?」と聞かれた。


「……はい」と答えた。


 何事もなく通れた。


 門の外に出た瞬間、風が変わった。


 街の中の風と、外の風は、匂いが違った。


 土と、草と、遠くの山から来る何かが混ざった匂い。


 セレノスは思わず立ち止まった。


 門番が背後で別の話をしている。気にしていない。


 セレノスは前を見た。


 石畳が途切れて、土の街道になっている。街道の両側に、まだ枯れ草の残る野原。遠くに山の稜線。空が、街の中より広い。


 広い、と思った。


 当たり前だ。建物がないのだから、空が広いのは当然だ。


 でも、当然だと分かっていても、広かった。


 農家への道を歩く。思ったより近かった。届け物を渡して、礼を言われて、帰路につく。


 帰り道、来たときより少し足が遅かった。


 農家と街の中間あたりで、セレノスは立ち止まった。


 意図したわけではない。ただ、足が止まった。


 前を見ると、街道がまだ続いている。次の街まで続いている。地図で指でなぞった、あの線がここにある。


 振り返ると、街の門が見える。灰猫亭の屋根が、建物の隙間に見える。


 どちらも、同じくらいの距離に見えた。


 正確にはそんなはずがない。でも、そう見えた。


 風が来た。街道の方から来た。


 セレノスは風に向かって、少し顔を上げた。


 どのくらいそうしていたか分からない。


 門番の「おい、大丈夫か?」という声で我に返った。心配して見ていたらしい。


「……すみません、帰ります」


 セレノスは門に向かって歩いた。


 門をくぐりながら、一度だけ振り返った。


 街道は、まだそこにあった。




 夕餉の後片付けをしながら、女将が言った。


「最近、よく使いに出るな」


 セレノスは手を止めずに「……はい」と答えた。


「街の外まで行くこともあるじゃないか」


「……農家への届け物が」


「それだけじゃないだろ」


 セレノスは答えられなかった。


 女将は背中を向けたまま、鍋を拭きながら続けた。


「まあ、外の空気でも吸った方がいいよ。屋根裏にこもりすぎ」


 それだけだった。


 叱られなかった。引き止められなかった。


 セレノスは「……はい」とだけ言った。


 自分の声が、少し落ち着いていた。裏返らなかった。それだけのことだが、気づいた。


 女将は鍋を拭き終えて、棚に仕舞った。


 ちらりとセレノスを見た。


 何か言いかけて、やめた。


 また別の鍋を手に取った。




 夜、屋根裏で三つのものを並べる。地図、小袋、ノート。


 今夜はそこに四つ目が加わっている。碁盤。


 地図は、読めるようになった。完全ではないが、おおよそ。


 お金は、目標額に達した。上乗せしないと決めた。


 ノートは、厚くなった。旅人たちの声で。


 碁盤は——準備とは関係ない。でも持っていく。


 条件が、揃ってきている。


 セレノスはその事実を、正面から見た。


 春になったら動こうと思っていた。


 春になった。


 旅人が戻ってきたら情報を集めようと思っていた。


 旅人が戻ってきた。集めた。


 お金が貯まったら考えようと思っていた。


 貯まった。


 次の条件を、思いつこうとした。


 ——思いつかなかった。


 それが、少し怖かった。


 条件がなくなれば、行くしかない。行くしかなければ、行かない理由がなくなる。


 行かない理由がなくなることが、怖い。


 でも今日、街道に立った。


 門番に声をかけられるまで、引き返さなかった。


 風が顔に当たった。


 セレノスは四つのものを枕の下に仕舞った。碁盤だけは、少し出っ張った。構わずそのままにした。


 目を閉じる前に、天井に向かって小さく言った。


「……もうすぐ、行きます」


 誰に言ったのか分からなかった。


 でも、言葉にしたら、少しだけ本当のことになった気がした。

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