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今日の空はどうだ  作者: 琴坂伊織
今日という日の使い方

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第四節 出発の条件①

 冬が、静かに幕を引こうとしている。窓を抜けてくる陽光が、床に落とす影の鋭さを、わずかに緩めた。


 セレノスは枕の下に手を差し入れ、三つの品を静かに引き出した。


 古地図。給金の小袋。旅のノート。


 旅に出るために必要なもの。


 ひとつ、地図。——ある。ただし読めない部分がまだある。


 ひとつ、お金。——少し貯まった。でも足りるかどうか分からない。


 ひとつ、道の知識。——ノートに書き溜めた。でも実際に歩いたことはない。


 ひとつ、……


 零れ落ちる「ひとつ」が、いつしか終わりなき列をなしている。けれど、その列を直視することは、今のセレノスには難しい。


 春になれば旅人が戻ってくる。情報が増える。地図の読み方も、聞けるかもしれない。


 今はまだ、冬だ。




 季節が緩やかにほどけるとともに、冬の間眠っていたこの場所へ、ぽつりぽつりと客の影が落ち始める。


 セレノスのノートに、新しい情報が増え始める。


 ある夜、給金の小袋を数えていて、気づいた。


 目標にしていた金額を、超えていた。


 数え直した。


 間違いではなかった。


 セレノスはしばらく、金貨と銀貨と銅貨が卓の上に並んでいるのを見た。


 達成した。条件のひとつが、消えた。


 次の瞬間、頭の中で声がした。


 でも、これで足りるかどうかは、実際に旅してみないと分からない。もう少し貯めれば安心だ。目標を——


 セレノスは金貨を一枚、手に取った。


 手の中で、少し温かかった。


 ——またか。


 前世でも、同じことをした。


 貯金が目標額に達するたびに、「でももう少し」と上乗せした。


 結局、死ぬまで「もう少し」と言い続けた。


 今世には永遠がある。


 永遠があれば、「もう少し」も永遠に続けられる。


 金貨を袋に戻した。袋の口を、きつく縛った。


 これ以上、増やさない。


 これで足りなかったら、そのときに考える。


「そのとき」は、行ってみないと来ない。


 袋を枕の下に仕舞う。


 今夜は、それだけだった。


 翌朝から、セレノスの給仕の仕方が少し変わった。


 変わった、というより——意識が少し外に向いた。旅人の顔を、以前より少し長く見るようになった。あの人はどこから来て、どこへ行くのだろう、という思考が、自然に浮かぶようになった。


 本人は気づいていない。女将は気づいている。何も言わない。




 ある昼、食堂に一人で昼食を取っている旅人がいた。


 地図を広げて、何かを確認している。


 セレノスは給仕をしながら、その地図をちらちらと見た。


 自分の古地図と、形が違う。新しい地図だ。縮尺の数字が書いてある。


 あれが読めれば、自分の地図も読めるようになるかもしれない。


 話しかけよう、と思った瞬間に足が止まった。


 でも、地図から目が離せなかった。


 旅人が顔を上げた。セレノスと目が合った。


「……なんか用?」


「……す、すみません、その地図の、縮尺の読み方を……」


 声が出た。自分でも驚いた。


 旅人は一瞬だけ意外そうな顔をして、それからあっさりと「ああ、これ?」と地図を傾けて見せてくれた。


 縮尺の読み方は、五分で分かった。


 旅人は「旅するの?」と聞いた。セレノスは「……はい、たぶん」と答えた。「たぶん?」と笑われた。笑われたが、怒った笑いではなかった。


 旅人は食事を終えて、出て行った。「良い旅を」と言った。


 セレノスは食堂に一人残って、しばらく動けなかった。


 話しかけた。


 話しかけて、怒られなかった。


 教えてもらった。


「また眠れない夜があったら、来ても良いか」


 あの夜、老人は自分から来た。


 自分は、ただ頷いただけだった。


 話しかけたのは、いつも老人の方だった。


 今日は、自分から話しかけた。


 それがどれくらいのことか、うまく測れなかった。でも何かが、少し変わった気がした。




 その夜、枕の下から古地図を出して、教わった縮尺の読み方で見直す。


 今まで分からなかった部分が、少し分かるようになった。現在地の街から、次の街までの距離が、おおよそ掴めた。


 地図の上に指を置いて、線をなぞる。


 指の先が、街の外に出た。


 地図の上では、ただの線だ。


 でも線の先には、自分が行ったことのない場所がある。


 指を止めずに、線をなぞり続けた。

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