第三節 アルダンの荷物
遠くで、凍てついた街路樹が小さく鳴った。凍裂の音だろうか。
セレノスはただ、熱を失いかけた陶器のカップを両手で包み込み、窓の向こう側に広がる藍色の沈黙を見つめていた。
宿泊客が減る季節だ。旅人は寒さを嫌う。食堂が静かになる。セレノスの盗み聞きノートに新しい情報が入らなくなる。
厨房の仕事が減った分、時間が余った。
余った時間に何をすればいいか、セレノスにはあまり分からなかった。
屋根裏で地図を眺めてみる。読めない部分は相変わらず読めない。
ノートを開いてみる。新しく書くことがない。
準備が、止まっている。
部屋には冷えた沈黙だけが積もっていた。
セレノスは、動かなくなった己の指先を眺めながら思う。
冬が終われば、また賑わいは戻ってくる。春になれば、白く閉ざされた道も自然と開くはずだ。今は待つのが最善なのだ。
セレノスは自分に言い聞かせるような静寂を選んだ。
廊下を掃いていると、突き当たりの老人の部屋の前に来る。足が、少しだけ遅くなる。意識したわけではない。ただ遅くなる。
次の客が入っていないため、扉は閉まったままだ。
セレノスは止まらずに通り過ぎる。
ある昼下がり、女将が棚の整理をしながら独り言のように言う。
「アルダンじいさんの荷物、どうしようかねえ」
セレノスは皿を拭く手を止めない。止めないように気をつける。
「身寄りもいないし、連絡のつく人もいなくてさ。宿屋としてはいつまでも部屋を空けとくわけにもいかないんだけど」
女将は棚を拭きながら続ける。
「荷物って言っても、革鞄ひとつと……あとあの、碁盤みたいなの。それだけなんだけど」
女将がちらりとセレノスを見た。
「おまえ、要るものあるかい? 捨てるのも忍びないし」
セレノスは何も言えなかった。
「要らないなら要らないで、どこかに寄付でも——」
「……碁盤を、いただけますか」
自分の声が出たことに、少し驚いた。
女将は一瞬だけ何かを言いかけて、やめた。
「そうか。じゃあ持っていきな」
それだけ言って、また棚に向き直った。
女将に部屋の鍵を渡されて、セレノスひとりで入ることになった。
扉の前に立つ。鍵を持っている。開ければいい。ただそれだけのことだ。
十数えてから、鍵を差し込んだ。
冬の午後の光が、窓から斜めに入っている。
誰もいない部屋は、思ったより小さかった。寝台、椅子、小さな卓。
荷物は卓の上に置かれていた。女将が整理したのだろう。革鞄と、碁盤の入った袋。
セレノスは部屋の中に入って、卓の前に立つ。
革鞄を手に取る。軽い。中に何が入っているか分からないが、軽い。老人はあれだけの旅をして、これだけしか持っていなかった。
碁盤の袋を手に取る。石がわずかに音を立てた。
その音が、厨房の深夜に響いていた音と同じだと気づいた瞬間、胸の中で何かが動いた。
何が動いたのかは、分からなかった。
ただ、動いた。
セレノスは碁盤だけを持って、部屋を出た。
革鞄は卓の上に残した。自分が持つべきものではない気がした。
扉を閉めて、鍵をかける。廊下に戻る。
足が止まった。
扉を、もう一度見た。
何も言わなかった。何も言えなかった。でも少しだけ、立っていた。
その夜の深夜。セレノスは碁盤を持って厨房に来た。
いつもの場所に座る。向かいの椅子は空いている。
碁盤を間に置く。
石を出す。袋から石を取り出すとき、また音がした。
ランプの光の中で、黒石と白石が盤の隅に小さく積まれている。
セレノスは石を一つ、持った。
打つ相手がいない。
しばらく、ただ盤面を見ている。
「今日の空はどうだ」
初めて聞かれたとき、何を答えればいいか分からなかった。
三秒、頭の中で可能性が爆発した。
今なら分かる。
あの問いに、正解はなかった。
ただ、今日の空を見ればよかっただけだ。
石を一つ、盤面に置いた。音がした。
「私は魔術を使い続けるための口実として、王に仕えていた」
あのとき、胃のあたりに重いものが落ちた。
今も、落ちたままだ。
セレノスは石を置く手を止めて、盤面を見たまま考える。
自分は今、何をしているのか。
旅に出る準備をしている。
では、準備を「している」のか。
それとも、準備を「しているふり」をしているのか。
地図を買った。
給金をもらうことにした。
ノートを作った。
全部、本当のことだ。
でも——冬が来て旅人が減ったとき、セレノスは「春まで待てばいい」と思った。
その「待つ」は、準備の続きか。
それとも、準備という名前の、停止か。
答えは出ない。出ないまま、もう一つ石を置く。
「逃げるために、何かをしているふりをする」
老人は「人間というのは」と言っていた。
自分に言ったわけではなかった、かもしれない。
でもセレノスは今、思う。
あの人は、分かっていたのではないか。
自分のことを。
碁を教えたのも、毎朝空を聞いたのも——
何かを伝えようとしていたのか、それとも、ただそうしたかっただけなのか。
分からない。
聞けなかった。
名前すら、最後まで知らなかった。
アルダン、と墓石に刻まれていた。
それがあの人の名前だった。
自分は一度も、その名前を呼んだことがない。
石を持った手が、止まる。
呼べばよかった。
——と思っても、もう遅い。
「今日という日を、まだ使っておらんぞ」
使えていなかった。
あの夜も、その前の夜も、廊下で立ち尽くしていた夜も。
今日という日を、ずっと使えていなかった。
でも——あの夜、部屋に入った。
扉を叩いた。
手を、触れた。
あれは、使えたのか。
使えた、のかもしれない。
少しだけ。
石を袋に戻す。一つずつ。音が続く。
碁盤を閉じる。
準備が逃げ場になっているかもしれない、という疑いは、消えなかった。
でも、もうひとつのことも分かった。
逃げるために何かをしていたとしても——
その「何か」が、たしかに手元に積まれていくなら。
積まれたものは、本物だ。
アルダンも、そうだったのではないか。
口実として王に仕えていたと言ったけれど——
でも、あの人は本当に、各地を巡った。
色々なことをした。
その旅は、本物だったはずだ。
碁盤を脇に抱えて、立ち上がる。
ランプを消す前に、向かいの椅子を見た。
何も言わなかった。ただ見た。
それから、ランプを消した。
翌朝。セレノスが廊下を掃いている。
突き当たりのアルダンの部屋の前に来る。
今日は、遅くならなかった。
遅くならなかったことに気づいたのは、三歩ほど通り過ぎてからだった。
セレノスは一度だけ振り返った。閉まった扉を見た。
それから、また掃き始めた。




