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今日の空はどうだ  作者: 琴坂伊織
今日という日の使い方

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第二節 準備という名の居場所③

 灰猫亭を支える古い木柱の裏側が、セレノスの定位置だった。


 そこから客たちを盗み見る彼の瞳には、期待と、それ以上の臆病さが宿っている。


 ようやく給金を得て、旅の準備は整いつつある。だが、無知なまま旅立てば、それはすぐに底をつくだろう。地図の読み方、街道の治安、宿の相場、季節と旅の関係——知らないことが多すぎる。


 答えを持っているのは、そこに座る旅人たちだ。声をかけ、教えを請えばいい。それだけのことが、セレノスにはひどく高い壁のように思えた。


 今日で三日目になる。


 トレイを抱え、食堂を往復しながら、彼は幾度も喉の奥で言葉を形にした。けれど、その言葉が唇からこぼれ落ちることは、一度もなかった。


 四日目の夜。


 食堂の隅で、セレノスはひたすら皿を拭いていた。乾いた布が陶器を撫でる、微かな摩擦音。


 吸血鬼の聴覚は優れている。


 離れたテーブルの会話も、ざわめきの中でも、拾おうと思えば拾える。


「北の街道は春先までは雪が残ってるからな」


「宿の相場は?」


「街によるが……まあ銅貨五枚から十枚あれば一泊できる。食事込みかどうかで変わる」


「馬は?」


「馬を持てるなら持った方がいい。荷が多いなら特に。でも維持費を考えると……」


 セレノスは皿を拭く手を止めずに、耳だけを向ける。


 これだ。


 話しかけなくていい。聞いていればいい。




 翌日、古本屋でもっとも安い白紙の帳面を買う。


 一度訪れた場所だからか、入り口で立ち止まったのは、ほんの数秒のことだった。


「またどうぞ」


 店主のさりげない一言が、買ったばかりの真っさらな帳面より、ずっと軽く、温かく背中に触れた。


 灰猫亭の喧騒の中で、セレノスは秘密の地図を編み始める。


 皿洗いの水音に紛れ、あるいは配膳の合間の数秒を惜しんで、拾い上げた言葉を帳面へ閉じ込めていく。


・北の街道は春先まで雪が残る。三月を過ぎてから動く方が良い

・宿の一泊の相場:銅貨五〜十枚(食事別の場合あり)

・荷物は少ない方がいい(旅人・男性・三十代くらい、談)

・川沿いの道は見た目より時間がかかる


 針の先で刻んだような、細く、頼りない文字。


 けれど、それは間違いなく、セレノスが自らの力で手に入れた、世界の一部だった。




 ある夜、食堂の柱の影でノートを書いていたとき、近くのテーブルの旅人に見つかった。


「なあ、何を書いてるんだ?」


 セレノスは固まった。


「俺たちのこと書いてるのか? 気持ち悪いな」


 笑いながら言った言葉だったかもしれない。悪意はなかったかもしれない。でもセレノスにはそういう判断ができない。


 逃げるようにノートを閉じると、足早に厨房へと引き上げた。


 その夜は皿を磨いても落ち着かなかった。




 翌日。翌々日。ノートを開けなかった。


 三日目の夜、屋根裏で天井を見ながら考えた。


 あの旅人は、もうここにいない。


 チェックアウトした。もうどこかへ行った。


 だとしたら、あの人が自分のことをどう思っているかは、もう確認しようがない。


 確認しようがないことを、ずっと気にしていても仕方がない。


 ……仕方がない、と思えるかどうかは、別の話だが。




 四日目の夜、ノートを再び開いた。


 字が、以前より少しだけ大きくなっていた。




 セレノスは屋根裏部屋で枕の下の古地図を取り出す。


 隣に、給金の入った小袋。


 もう一方に、旅のノート。


 三つを並べて、眺める。


 劇的な感慨はない。ただ見ている。


 地図は、まだ読めない。


 お金は、まだ足りない。


 ノートは、まだ薄い。


 でも、少し前までの自分には、何もなかった。


 何もなかった、というより——何も持とうとしていなかった。


 不意に老人の言葉を思い出す。


「逃げるために、何かをしているふりをする」


 そうだろうか、とセレノスは思う。


 そうかもしれない、とも思う。


 でも、ふりをしているうちに、手元に何かが増えていくなら——


 それはふりのまま、終わるのだろうか。


 答えは出なかった。


 セレノスは三つを枕の下に仕舞って、目を閉じた。

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