第二節 準備という名の居場所②
差し込む月明かりに、二枚の銀貨が冷たく冴える。一方で七枚の銅貨は、深い錆に沈み、ただ鈍く濁るばかりだ。
客たちが残した、それだけのチップ。
下働きとしての日々に、賃金という概念は介在しない。
まかないと屋根裏部屋が報酬代わり、という取り決めが最初からあった——あるいは、そういうものだと思っていた。実際のところ、転生してからの一年、お金のことを考える必要がなかったので考えてこなかった。
旅にはお金がいる。
地図を買ってみて、初めてお金の問題が現実になった。
屋根裏の薄暗がり。セレノスは膝を抱え、訪れるはずの対話を幾度も反芻する。
「給金を……いただけないでしょうか」
闇に向かって、声を漏らしてみる。女将の無理解な反応は、あまりに容易く想像できた。
「は? 何言ってんの。まかないと部屋があるでしょ」
「……はい」
その一言で、望みは夜の塵となって消えるだろう。もしくは、もっと踏み込んだ詮索を受けるかもしれない。
「給金を……」
「なんで急に? どこか行くの?」
「……旅に……」
「辞めるってこと? 困るんだけど」
想像の中の女将は次第に冷酷になり、最後には理由のない怒号となって彼を追い詰めた。
「お前みたいな役立たずに給金なんか出せるか」
セレノスは思考を止めるように目を閉じる。
申し出を先送りにして三日。屋根裏の埃っぽい静けさだけが、彼の味方だった。
冬の朝の厨房は、しん、と冷え切っていた。
まだ明かりの灯らぬ窓から、薄灰色の光が差し込み、立ちのぼる白い湯気を淡く照らしている。
女将とセレノス。二人きりの空間には、鍋の底を木べらが撫でる、単調で規則正しい音だけが響いていた。
凍てつく空気に、鼻先がツンと痛む。
「……あの」
女将は答えない。ただ、ゆっくりと鍋をかき回し続けている。
「……給金を、いただけないでしょうか」
その言葉は、冷たい空気に触れてすぐに消えた。
音だけが止まる。
セレノスは、自分の心臓の音がひどく騒がしくなったのを感じた。いたたまれなさに、このまま裏口から朝の闇へ逃げ出してしまおうか、そんな衝動が指先まで伝わったとき。
女将が振り返った。
「……なんで今まで言わなかったの」
怒っていない声だった。むしろ少し、呆れたような。
「え」とセレノスは言った。声が裏返った。
「こっちから言い出すのも変かと思って黙ってたんだよ。言ってくれればよかったのに」
セレノスは言葉を失った。
準備していた反論も、謝罪も、どこにも見当たらなかった。
「……あの」
「少ないけど、出せる分は出すよ。月にこれくらい」
女将が提示した金額は、セレノスが最低限と見積もっていた額より、少し多かった。
「……ありがとうございます」
「今まで黙って働いてくれてたんだから、こっちもありがたかったよ」
女将はまた鍋に向き直った。話は終わりらしかった。
セレノスはしばらく厨房の床を見つめたあと、いつもの仕事に戻った。
その夜のまかないのスープに、肉が入っていた。
湯気の向こうで、小さな肉の塊が七つ、薄いスープの海に漂っていた。
スープが、いつもより少し温かかった。




