第二節 準備という名の居場所①
目が覚めて、天井を見る。
昨夜の問いは、まだ持っていた。
答えは出ていない。でも、問いを消そうとも思っていない。
ひとつだけ、分かることがある。
行くなら——準備が必要だ。
地図がない。お金もない。道も知らない。
準備ができていないのだから、今すぐ行けないのは当然だ。
まず準備をしなければならない。
そう思ったとき、セレノスは少しだけ、息がしやすくなった気がした。
朝の仕事を終えて、午後の空き時間に古本屋へ行こうとする。
問題は「古本屋がどこにあるか知らない」こと。
聞けばいいが、聞けない。
女将に聞けばいい。
でも「地図を買いに行く」と言ったら、「なんで?」と聞かれる。「旅に出ようかと……」と言ったら、「え、辞めるの?」となるかもしれない。
そうしたら……
街を歩いて探すことにした。
街をぐるぐると歩く。これ自体が、セレノスにとって珍しい行動だ。届け物の使いで来たことはあっても、目的なく歩いたことはなかった。
近くで見れば、街は知らないことばかりだった。
精肉店の隣には、鼻を突くような香辛料の店。そのさらに奥まった暗がりに、古びた靴の修繕屋が潜んでいる。
路地を曲がれば、規則正しい石畳は唐突に途絶え、湿った土の地面が顔を出した。
何物かを蹴る、子どもの足音。
セレノスはそれらすべてから視線を逸らし、伏せ目がちに、ただ足早に通り過ぎた。
やがて、街の端に埋もれるような古本屋に行き当たった。
外から窓越しに中を覗き込む。古い紙の匂いまで透けてきそうな硝子の向こう側を、セレノスは慎重に、確かめるように見つめた。
古びた扉を前にして、セレノスの足は躊躇いに囚われていた。
地図が置いていない可能性、そして、到底払いきれない対価を要求される恐れ。
伸ばした手が、扉に触れる前に止まる。
セレノスは一度、背を向けた。
石床に落ちる自身の影を見つめ、逡巡すること数度。
立ち尽くす彼の前で、不意に扉が内側から押し開かれた。不意を突いて溢れ出した店内の明かりと、入れ替わりに出てきた客の気配に押されるようにして、セレノスは吸い込まれるように一歩を中へと踏み出した。
薄暗くて、本の匂いがする。棚がみっしりと並んでいる。
客は他にいない。奥のカウンターに店主がいて、帳簿を見ている。
セレノスは地図を探して棚を見て回る。地図の棚を見つけて、そっと引き出してみる。古い羊皮紙の地図が何枚か。値段が書いてある。手持ちで買えないこともない。
「何かお探しで?」
店主に声を掛けられ、セレノスは固まる。
地図を持っているのだから、「地図を探しています」と言うのは変だ。でも「これを買います」と言えばいいのか。でも値段を確認してから「やっぱりいいです」と言ったら変に思われないか。そもそも今自分が持っているこの地図が正しい棚にあったのかも確かめていない——
「……地図を……」
「見ての通りだが?」
「あ、はい、ありがとうございます」
セレノスは地図を持ったまま代金を出して、お釣りを受け取って、お辞儀をして、逃げるように店を出た。
路地の角で立ち止まって、手の中の古地図を見る。
買えた。
店主は怒っていなかった。
たぶん。
「見ての通りだが?」は、たぶん怒った声ではなかった。
……怒っていたかもしれない。
でも、出てくるときに「またどうぞ」と言っていた気がする。
あれは社交辞令かもしれないが、怒っている人間が言う言葉でもない気がする。
セレノスは地図を外套の内側に仕舞って、灰猫亭へ向かった。
夜、屋根裏部屋で地図を広げる。
灯りに翳して見る。街の名前、道の線、山の記号。
しかし読み方がよく分からない。縮尺の概念は知っているが、この地図の縮尺が書いていない。どこが現在地なのかも、おそらくこのあたりだろうという見当しかつかない。
地図を持っていても、地図の読み方を知らなければ意味がない。
では地図の読み方を、誰かに聞けばいい。
……誰かに。
セレノスは地図を畳んで、枕の下に仕舞った。
今日は買えた。それで十分だ。




