第一節 小さな荷物、大きな重さ
冬のはじまりの夕暮れ。
届け物は無事に終わった。老婆は「ありがとう、助かった」と言った。それだけだった。特に何も起きていない。
でも足が、思ったより軽い。
セレノスは自分の足元を見ながら歩く。石畳のひとつひとつが、来るときより少し馴染んで見える気がする——気のせいかもしれない。
灰猫亭の看板が見えたとき、「帰ってきた」と思う。それから、「……帰ってきた?」と思い直す。あそこは自分の家なのか? 宿屋の屋根裏は、帰る場所なのか? 答えが出ないまま、扉を押す。
女将には「お疲れ」とだけ言われた。それ以上でも以下でもない。
夕餉のまかないが、無言のままテーブルを滑る。湯気の向こうで、小さな肉の塊が五つ、薄いスープの海に漂っていた。スプーンが皿に当たる硬い音だけが、静かな部屋に響く。
空になった器に一礼し、心の中でだけ感謝を述べる。
軋む階段を踏みしめ、セレノスは屋根裏部屋へと引き上げる。
屋根裏部屋は天井が低くて、立つと梁に頭が当たる。荷物と呼べるものはほとんどない。着替えと、お守り代わりに持っている石ころひとつと、あとは何もない。
寝台に仰向けになって、天井の木目を見る。これもいつものことだ。
でも今夜は、少しだけ違う何かが胸の中にある。それが何なのかが、うまく掴めない。
むかし——前の世界で——「旅行したい」と思ったことがある。
旅番組を観るたびに思った。温泉に行きたい、海が見たい、外国に行ってみたい。
でも実際に行ったことはなかった。
お金がなかった。時間が取れなかった。一人で行くのは不安だった。
そのうち行けばいい、と思っているうちに、死んだ。
天井を見たまま、セレノスは思う。
——今世でも、同じことをするのだろうか。
すぐに反論が来る。
——でも今は不老だ。時間はいくらでもある。急がなくていい。
一拍おいて、気づく。
——それも前世で言っていたことと、構造が同じだ。
「時間がない」が「時間はいくらでもある」に変わっただけだ。
結局どちらも、同じ場所に立っている気がした。
前世では気づかないまま死んだ。今世では、少なくとも気づいた。しかしだからといって、すぐに動けるわけでもない。
夜。眠れなかった。
いつものように厨房へ皿を磨きに来る。
厨房の景色は、昨日と何ら変わりない。洗い桶、積み上げられた皿、曇った窓。その向こうには、ただ暗闇が張り付いている。
違うのは、向かい側の椅子が空いていることだけ。
テーブルの上には、もう何もない。碁盤の跡もない。ランプの光の輪の中に、ただ歳月を重ねた木目が浮かんでいる。
セレノスは皿を磨きながら、意識してその椅子を見ないようにしている。見ないようにしているということは、見てしまいそうになっているということだ。
石が盤面に触れる音がない。
咳の音がない。
「今日の空はどうだ」という声がない。
何もないことが、静かにそこにある。
皿を三枚磨いたところで、手が止まった。
なぜ止まったのか、自分でも分からなかった。
しばらく、水の中に手をひたしたままでいた。
やがてまた磨き始めた。
皿磨きを終えて屋根裏に戻る前、セレノスがふと足を止める。
冬の夜空がどこまでも澄み渡り、星々が痛いほど鋭い光を放っている。
「今日の空はどうだ」という声が、頭の中でだけ響く。誰もいないのに。
セレノスは少しのあいだ、それに答えようとする。
「今夜は……星が多い。よく晴れている」
返事は来ない。当然だ。
セレノスは屋根裏に戻って、また天井を見る。
今夜浮かんだことを、頭の中で整理しようとして、できない。
旅に出たい、と思っている。
たぶん、思っている。
でも、どこへ。
どうやって。
いつ。
「今日という日を、まだ使っておらんぞ」
老人の声が、また来た。
セレノスは目を閉じた。
答えは、まだない。
でも今夜は、問いだけが残った。
問いがあるということは——たぶん、前世の自分には、なかったことだ。




