長居する客
晩秋の夕暮れは、いつも少し早く来る。
灰猫亭の厨房は夕餉の支度で煙が立ちこめていた。セレノスは水の張った桶に両腕を突っ込んで、今日で何枚目になるかも数えていない皿を黙々と磨いていた。窓の外、街道の石畳が橙色に染まりはじめている。
この時間が好きだった。
誰も話しかけてこない。女将は厨房の奥でスープをかき回しているし、宿泊客はまだ部屋にいる。セレノスは水の冷たさに手をひたしながら、ぼんやりと窓外の空を眺めた。
吸血鬼は、外の明るさで時刻を測る必要がない。体の中にそういう感覚がある。けれどセレノスは、空の色が変わっていくのを見るのをやめられなかった。
前世でも、こうして窓から空を眺めていた気がする。
あのころの自分には何もなかった。友人も、誇れる仕事も、誰かに語るような出来事も。ただ毎日が過ぎていって、気づけば死んでいた。転生した今も大して変わらない。環境は変わった。身体も変わった。けれど自分の中身は何も変わっていないのだから、結果が変わるわけもない。
それでいい、とセレノスは思う。
目立たなければ怒られない。怒られなければ傷つかない。傷つかなければ、百年後も二百年後も、同じように皿を洗っていられる。
永遠があるのだから、急ぐことはない。
その考えが心の底に沈殿している。お守りのように。
宿に客が来たのは、そんな夕方のことだった。
セレノスは物音で気づいた。杖の先が石畳を叩く音と、ひどく重そうな咳の音。それから女将の声——「いらっしゃいませ」という、普段より少しだけ丁寧な声。
厨房の戸口から、こっそりと覗く。
老人だった。
背丈はセレノスより少し低いくらい。白い顎鬚が胸まで伸び、身に着けているのは旅塵に汚れた外套だが、仕立ての良さはそれでも隠しきれない。荷物は小さな革鞄ひとつだけで、片手に持った杖が体の重さを引き受けていた。もう片方の手で口元を覆い、咳を抑えようとしている。うまくいっていない。
女将が何か言った。老人は頭を下げた。
その所作が、なんとなく品があった。長逗留の交渉をしているらしい。女将はちらりとセレノスの方を見た——というより、厨房の方を見た——が、すぐに老人に向き直った。
まあいい、とセレノスは思って桶に向き直った。
自分には関係ない。
翌朝。
セレノスが廊下を掃いていると、老人の部屋の戸が開いた。
思わず体が固まる。廊下でばったり客と鉢合わせるのは苦手だ。どんな顔をすればいいか分からないし、もし話しかけられたらどう答えるか分からないし、なにより相手が不機嫌だったらと思うと胃が重くなる。
老人はゆっくりと廊下に出てきた。杖をつき、咳をひとつ。それからセレノスに目を向けた。
逃げるタイミングを逃した。
老人はしばらくセレノスを見てから、窓の方に顔を向けた。朝の光が廊下に斜めに差し込んでいる。それから、ぽつりと言った。
「今日の空はどうだ」
セレノスは固まった。
空。空、ということは。窓の外を見ろということか。それとも——何か比喩的な意味か。もしかして試されているのか。あるいは単なる挨拶の一種で、「おはようございます」のつもりで言ったのか。
三秒ほど、頭の中で可能性が爆発した。
結局セレノスはおそるおそる窓の外に目をやった。朝の空は白みがかった水色で、東の方に雲が幾枚か浮かんでいた。
「……す、すこし、雲が多いです」
声が裏返った。恥ずかしい。
老人は「ほう」とだけ言って、また部屋に戻っていった。
セレノスは廊下に取り残され、ほうきを握ったまま三分ほど動けなかった。
怒らせただろうか。
いや、「ほう」は怒った声ではなかった気がする。
でも、もっとちゃんと答えるべきだったかもしれない。
「雲が多いです」だけって、会話として成立しているのか。
やがて女将が厨房から「セレノス、水を汲んできて」と呼ぶ声がして、セレノスはようやく足を動かした。
次の朝も、老人は廊下に出てきて「今日の空はどうだ」と言った。
セレノスはまた固まった。でも昨日ほどは固まらなかった。
「……霧が、出ています。向こうの山が見えないです」
「そうか」
それだけで、老人は戻っていった。
三日目は「東の端が少し赤い」と言った。老人は「ほう」と言った。
四日目は「風が強くて、洗濯物が一枚飛んでいきました」と言ったら、老人は何も言わずにかすかに目を細めた。笑ったのかもしれない。笑ったのだと、セレノスはあとで思うことにした。
毎朝の問いかけは、それだけだった。
老人はそれ以上何も聞かないし、セレノスも何も聞かなかった。廊下での邂逅は毎回一分と続かない。けれどセレノスは気づけば、朝になると廊下の窓から空を確認するようになっていた。
今日は何と答えよう。
その思考が自分の中に生まれたことに、しばらく気づかなかった。
ある夜、老人が厨房に現れた。
セレノスは夜中に皿を磨く習慣がある。日中は人目があるから怖いが、夜中は誰も来ない。一人でせっせと皿を磨いていると、なんとなく心が落ち着く。
足音がして、戸口に老人が立っていた。
「眠れなくてね」と老人は言った。咳を一度、抑える。「邪魔をするつもりはない。少し、明かりを借りても良いか」
セレノスは頷いた。声が出なかった。
老人はゆっくりと椅子を引いて、テーブルの向こう側に座った。懐から小さなものを取り出す。碁盤だった。片手に収まるくらいの、携帯用の小さな碁盤。石も一緒に入った袋。
「できるか」
セレノスは首を横に振った。
「教えようか」
断れなかった。断る言葉が出てこなかった、という方が正確だ。
向かいに座る。老人は碁盤を間に置いて、石の置き方と基本の規則だけを、ごく短い言葉で説明した。説明が終わると、あとは打つだけだった。
ほとんど喋らなかった。
老人は石を置く。セレノスはしばらく考えて石を置く。老人はまた置く。深夜の厨房に、石が盤面に触れる音だけが響く。
沈黙が、苦ではなかった。
それがセレノスには少し、不思議だった。誰かと同じ空間にいるとき、普段はずっと頭の中が騒がしい。何か言うべきか、でも何を言えばいいか、相手は自分をどう思っているか、早く一人になりたい——そういう雑音でいっぱいになる。けれど今夜はそれがなかった。碁盤の上のことだけを考えていられた。
一刻ほどで老人が「今日はここまでにしよう」と言った。石を袋に戻し、立ち上がる。
「また眠れない夜があったら、来ても良いか」
セレノスは頷いた。
老人は軽く頭を下げて、足音を立てずに廊下へ消えた。
セレノスは一人、冷えた厨房に残って、しばらく碁盤の跡がない卓上を見つめていた。
それから、週に二度か三度、深夜の碁が習慣になった。
老人は一度として、セレノスのことを根掘り葉掘り聞かなかった。名前も、歳も、どこから来たのかも。セレノスもそれに倣い、老人のことを聞かなかった。互いに名前すら交わさないまま、ただ盤面に向き合った。
ある夜、老人がぽつりと言った。碁石を持ったまま、盤面を見たまま。
「私はかつて、王宮に仕えておった」
セレノスは石を置く手を止めた。
「術の腕を買われてな。若いころは鼻が高かった。王の命で各地を巡り、色々なことをした」
老人は石を一つ、静かに置く。
「でも途中で気がついたんだ」
「……何に、気がついたんですか」
自分から言葉を出したことに、セレノスは自分で少し驚いた。
老人は盤面から目を上げずに言った。
「私は王のために魔術を使っていたのではない。魔術を使い続けるための口実として、王に仕えていたのだ、と」
セレノスは何も言えなかった。
「人間というのは、なぜかそういう嘘をつく。何かのために別の何かをするのではなく——逃げるために、何かをしているふりをする」
老人の指が次の石を拾い上げる。
「そしてそのふりが上手くなればなるほど、自分でも気づかなくなる」
老人は石を置いた。話はそれで終わりだった。
セレノスはしばらく、自分の番が来ていることに気づかなかった。
逃げるために、何かをしているふり。
胃のあたりに、じわりと重いものが落ちた気がした。
冬の気配が近づくにつれ、老人の咳が増えた。
女将が医者を呼んだ。老人は「もう分かっとる」と笑って断ったらしい。女将がセレノスに愚痴るように言った——「頑固なお人だよ、まったく」——と言いながら、スープを一人前余分に作っていた。
セレノスは聞きながら、黙って皿を磨いた。
その夜から、老人は厨房に来なかった。
三日が経った。碁盤の音がしない夜が続くと、厨房がやけに広く感じた。セレノスは一人で皿を磨きながら、なぜか落ち着かなかった。
調子が悪いのかもしれない。
でも、聞きに行くべきなのか。
迷惑かもしれない。
でも。
足が、動かない。
五日目の夜、廊下を通ったとき、老人の部屋から苦しそうな呼吸の音が聞こえた。
セレノスは扉の前で立ち尽くした。
叩けばいい。ただそれだけのことだ。扉を叩いて、声をかければいい。でも何と言う。「大丈夫ですか」と言えばいいのか。でも万が一、眠っていたら起こしてしまう。もし「うるさい、あっちへ行け」と言われたら。もし——
廊下で、ひとり、考え続けた。
結局扉は叩けなかった。
明日にしよう。
明日なら、きっと言葉が出る。
翌朝、老人は自分で戸を開けて廊下に立っていた。
「今日の空はどうだ」
いつもと同じ声だった。
セレノスはほうきを持ったまま、なぜか喉が詰まった。泣きそうになっている理由が自分でも分からなかった。
「……今日は、晴れています」と絞り出した。「よく、晴れています」
老人は「そうか」と言って、また部屋に戻っていった。
老人が床に伏したのは、それから四日後のことだった。
女将が「もう長くないかもしれない」とセレノスに告げた。夕餉の仕込みをしながら、いつもより低い声で。「好きなものでも聞いてきてやりたいけど、あの人は何も言わなくてさ」
セレノスは頷いた。
夜になって、女将が床についたあと、セレノスは厨房の前で長いこと立っていた。老人の部屋は廊下の突き当たりだ。そこまで行って、扉を叩けばいい。それだけのことだ。
足を踏み出した。
廊下を歩いた。突き当たりまで来た。扉の前で止まった。
それから十数えて、叩いた。
返事はすぐには来なかった。セレノスは引き返しかけた。が、少し間があってから、「入れ」という声がした。
扉を開けた。
老人は寝台に横になっていた。薄い夜着の上に毛布をかけて、目だけを動かしてセレノスを見た。
「来たか」
怒っていない声だった。
セレノスは部屋に入った。どこに座ればいいか分からず、寝台のそばの床に、そっと腰を下ろした。
しばらく、何も言えなかった。老人も何も言わなかった。ランプの油が燃える音だけがある。
やがて老人が、天井を見たまま口を開いた。
「おまえは、長生きするつもりだろう」
セレノスは答えられなかった。
老人は続ける。
「長生きする者は、往々にして今日を安く見る。明日があるから、とな。百年後があるから、と」
枯れ枝のような指が、毛布の上でかすかに動いた。
「だが私は今日、死ぬ。そしてこう思っておる」
老人の目が、天井からセレノスへ動いた。
「今日という日に、この子と話せてよかった、と」
セレノスは息を呑んだ。
老人の目は穏やかだった。責めても、哀れんでもいない。ただ静かに、そこにある目だった。
「おまえは今日という日を、まだ使っておらんぞ」
それだけ言って、老人は目を閉じた。
セレノスは動けなかった。どのくらいの時間が経ったか分からない。老人の呼吸は浅く、でも続いていた。
いつの間にか、老人の手に自分の手が触れていた。
握ったのか、触れただけなのか、自分でも分からなかった。けれど手を離さなかった。
夜が、ゆっくりと深くなっていった。
老人が息を引き取ったのは、夜明けの少し前だった。
呼吸が止まる瞬間を、セレノスはちゃんと感じた。
泣き方が分からなかった。泣いた経験がなかった。
ただ、胸の中に重いものが落ちてきて、そのまま動かなかった。
窓の外が、白んでいく。
葬儀は簡素なものになった。
老人の身寄りは誰も来なかった。女将が手配して、街の墓地の端に小さな石が立った。名前だけが刻まれている——アルダン、とあった。それが老人の名前だと、セレノスはそこで初めて知った。
灰猫亭は何も変わらなかった。冬が来て、宿泊客は減って、セレノスは相変わらず皿を洗った。廊下を掃いた。スープのまかないを食べた。
ただ、老人がいた部屋の前を通るとき、足が少しだけ遅くなった。
ある朝、廊下を掃いていて、ふと窓の前で止まった。
誰かに聞かれたわけではない。ただ窓の外を見た。
今日の空は薄い水色で、雲が一枚だけ、西の方へゆっくり流れていた。
セレノスは窓を開けた。冷たい空気が頬に触れた。
誰もいない廊下に、小さな声で言ってみた。
「今日は、晴れています」
声が廊下に吸い込まれて、消えた。
返事はない。当然だ。もう、返事をする人はここにいない。
それでも、言ってみたかった。
その日の午後、街の薬屋から荷物が届いた。女将が受け取って、セレノスに持ってくるよう頼んだ。薬草の束と、小さな瓶がいくつか。
届け先は、街外れに住む老婆だった。足が悪くて、最近は外に出られないらしい。
女将はすでに夕餉の仕込みを始めていた。他に誰もいない。
セレノスは荷物を持ったまま、厨房の前で立っていた。
行けばいい。ただそれだけのことだ。
でも、知らない人の家に行くのは怖い。
でも。
胸の奥で、重いものがかすかに動いた。
——今日という日を、まだ使っておらんぞ。
セレノスは外套を手に取った。
扉を開けた。
冬の空気が、顔に触れた。
足が、動いた。




