初めまして、私、勇者になることになったようです。
雨上がり特有の匂いが、玄関のドアを開けた瞬間ふわりと鼻をくすぐった。
昨日、この地域はどうやら梅雨明けしたらしい。
「アキナ、お弁当は持った?昨日みたいに購買でパンまみれになったらダメよ?」
「持ったってば!ほら、ここ!」
「はいはい、行ってらっしゃい」
「いってきまーす!」
私は家を飛び出し、湿気の残る朝の空気を切り裂くように走る。
今日は珍しく家を出るのが早かった。これなら急行にギリギリ間に合うかも。
アスファルトに反射した光が眩しく、汗ばんだ手でスクールバッグを押さえつつ、駅の階段を駆け下りる。
「よし、今日はやっぱツイてる!間に合いそう!」
誰に聞かせるでもない、いつもの独り言。
この日常が、たった数十秒後に崩れ去るなんて思っていなかった。
黄色い何かが、私の足元に突然浮かび上がったまでは。
「なにこれ?魔法陣……?」
足を止めたかったが、運動神経は平均。なんなら平均より少し下。
むしろ止まれたら褒めてほしい。
結果、私のつま先はその魔法陣にタッチし――
世界が、白に塗り潰された。
眩しすぎて思わず目をつむる。次に目を開けた時には――。
真紫のローブを着た五人の大人。黒い杖。
その後ろには、絵本かゲームに出てきそうな中世ヨーロッパ風のドレスとタキシードの集団。
「王よ!成功しました!」
……成功?なにが?ていうかここどこ?
「転移者アキナよ、急に呼び出してすまぬ。私はアーディン王国の王、ダレス・マクリーン=アーディンだ」
王様が喋った。
いやいやいやいや。
「転移!? 嘘でしょ!? 今日、学食のA定食がサバの味噌煮の日なのに!? どうしてくれるのよ!!」
ざわつく大人たち。王の眉がピクリと動いた。
「サバの味噌煮とは何かは知らぬが……そんなことよりアキナよ、この世界を救ってくれ」
「サバの味噌煮を軽く扱うな。私の大好物なのよ!で、なにから救うのよ」
「魔族からだ」
魔族。響きだけで胃が痛くなりそう。でも、顔を上げると王様は本気の表情だった。
・・・・ああ。本当に日本じゃないんだ。
お母さんと交わしたあの会話が、最後になるなんて。
そして、サバの味噌煮とも……永遠のお別れ……。なんて悲劇...。ま、悲しんでる場合でもないか。
「わかった。何すればいい?」
「まずは説明をだな……」
そこから始まった王の長話は、学校の全校集会の校長先生を三倍濃くしたレベルに長かったが、まとめるとこうだ。
●世界は剣と魔法のファンタジー
●魔法の源は“他人への感情”
●魔族には“恋愛の感情”を源にした魔法が特に効く
●魔王復活の兆しあり
――そして私は、この世界に“呼ばれた特別な存在”らしい。
……最悪だ。非常に最悪だ。
「王様、私、恋愛感情ないよ?」
「ない?」
「ないのよ。家族とか友達は大好きだけど、恋愛だけは本当に無理。アロマンティックでアセクシャルなの」
「アロ……? アセ……? なんだねそれは」
「気になるなら各自調べて。とにかく“恋の魔法”なんて期待しないで」
王様はしばらく固まった後、
「……ないものは仕方ないな」
「そうよ、ないものはないの!」
「どのみち魔術学園に通ってもらうつもりでおった。仲間を集めるがよい」
「仲間……! それはちょっとワクワクする!冒険って感じがするわ!」
こうして私は、魔王復活の危機という激やば鬼ハードモードな環境に放り込まれつつも、魔術学園へ通うことになった。
学園の秋入学までの2か月間、私は王宮の貴賓館で基礎勉強を受けながら生活することになった。
最初は緊張でガチガチだったけれど、人間意外と慣れるもので、王宮の食事が美味しかったのもあって比較的すぐ順応した。
そして迎えた、とある朝。
「魔術学園ってどんなところなのかしら、ティア」
髪を結いながら話しかけると、世話役のティアは手を止めず微笑む。
「この世界一の学園ですわ。優秀な若人が集まっていますから、すぐにお仲間ができますよ」
「ティアも来てくれるよね?」
「もちろんです。アキナ様おひとりではまだ危なっかしいですもの」
「ありがとう。私、正直心細かったのよ……本当にひとりぼっちで」
そう言うと、ティアは鏡越しに優しく目を細めた。
「できましたわ、アキナ様。痛くありませんでしたか?」
「うん、ありがとう。すごく綺麗。流石ティアね。ほんと手先が器用だわ。」
「今日は制服の採寸や教科書、杖などの買い出しに街へ参りますよ」
「街に!? ようやく出られるのね!!」
私の目は一瞬で輝いた。
王都の街はとても広く、流行の服も揃っているらしい。
久しぶりのショッピングに胸が躍る。
「はいはい、では参りましょう」
ティアが笑い、私たちは馬車に乗り込む。
――そして、この日の“街での買い物”が、
後に私の運命を大きく変える出会いへとつながることを、
この時の私はまだ知らなかった。




