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6話

 校門をくぐった瞬間、空気が変わった。

 夕方の湿った風とは対照的に、校舎の前だけが妙に冷えている。


「……今日は、静かですね」


 紗希の囁きが、薄い廊下の気配に吸い込まれる。

 いつもなら部活の声が混じる時間帯だ。

 だが今日は、建物の軋む音ばかりが耳を裂いた。


 恭介は無言で校舎をジロリと睨む。

 その目つきは“ケンカ売られたと思ったら即買う”野犬のそれに近い。


(……昨日喰ったやつ、まだ尻尾残してやがんのか)


「よし、さっさと踏み潰すぞ」


 乱暴に扉へ手を伸ばした瞬間――

 廊下の奥で、“遅れてついてくる足音”がした気がした。


「……おい今の聞いた?」「気のせいじゃ……」


 恭介だけが、振り返ってニッと笑った。

 瞳の渦眼が、ぐるぐると。

 青白く、とぐろを巻いている。


「おい……ついて来てんなら顔出せよ。ビビってんのか?」


 悪役めいた笑みに、紗希と廉は同時に肩をすくめる。


(……この常盤とかいうやつ、急に元気になったな……)

(……あー、これハイになってきてますね。先輩は)


  ◇


 保健室は、放課後とは思えないほど静かだった。

 扉の向こうから、かすかなノイズが震えている。


「……ジ……ッ……ジ……」


「昨日の……あの音……」


 紗希が息を呑むより先に、恭介は扉の下の隙間を睨んでいた。

 ほそい黒い筋が、ぬめるように揺れている。


「軽くノックすんぞ。……変なもん壊して騒ぎにするんじゃねえぞ」


「そう言って壊すの、どうせアンタだけっすからね……」


 廉が突っ込みつつ、首を傾けた。


「……あれ? ここだけ、音が違う。“間”が抜けてるっす」


「間?」


「言葉で言うと……“呼吸止めた部屋”みたいな」


 恭介が小さく舌打ちし、ため息とともに扉を押し開ける。


 そこには、美和がベッドで起きていた。

 手にはレコーダー。親指だけが震えている。


 廉がレコーダーを覗き込んだ。


「……これ、“黒の帯域”だけ綺麗に抜けてる。手作業じゃ無理っすね」


「誰かが消した……?」


「“持ってった”感じ。跡ごと」


(黒の……声が? 誰が……)


 美和は視線を伏せたまま、ためらうように口を開いた。

 ――言わないでおこうとした秘密が、勝手に漏れるように。


「……ねぇ、灯さん。昨日……私、変なもの見たかもしれなくて……」


 言葉にした瞬間、怖さが蘇ったのか、声が震える。

 美和は続けた。


「灯さん……昨日、鏡の前にいたとき……背中が揺れてたんだよ。声は普通なのに……身体だけ鏡のほうに引っぱられてるみたいで……」


(背中が……揺れてた?

 私が“見られていた”……?)


 恭介が、床に残る黒い線を踏み潰しながら言った。


「美和とかいったな。最後に“誰か”見たか?」


「見えたのは……灯さんの背中だけ。“誰か”なんて……」


 紗希の胸の奥が、恐怖ではなく“知りたい”熱で軽く脈打つ。


「廉、行くぞ。さっさと犯人ひっ捕まえんだよ」


「了解っすけど……もうちょい静かにできません? ほら、足音とか」


「るっせえな。コソコソしたって無駄なんだよ、こういうのは」


 鼻息を荒くする恭介に、紗希と廉が同時にため息をついた。


  ◇


 演劇室の前は、不自然なほど静かだった。

 扉の向こうだけ、別の夜が沈んでいるように見える。


(昨日……ここで、“奥の私”が遅れて笑った)


 廉が耳を寄せる。


「……ノイズがない。“まるごと消した”感じ」


「隠れてんなら叩き出すだけだろ?」


 恭介が扉を押し開く。


 昨日の痕跡は、見事なほど消されていた。

 マイクは隅へ、焦げ跡は薄く、機材は袋へ……

 “手慣れた誰か”が意図的に消した跡だ。


「ほー、ご丁寧なやり方だな。跡ごと“残響”消しやがった」


「素人の片付けじゃないっすね」


(昨日……志藤先生は“順番”と――)


 紗希は鏡の前に歩み寄る。


「……再現、してみます」


「おい紗希。やるなら俺の後ろに――」「大丈夫です」


 恭介は肩を落とした。


「……俺も呆れるくらい、人の話を聞かねえ奴だな」


 廉がレコーダーを構える。


「昨日みたいに、“怖い”って言ってみてください」


  ◇


「……こわい」


 鏡の奥が揺れた。

 一番奥だけが、ワンテンポ遅れて。


「昨日と同じ……でも……違う」


「違う?」


「あれ……笑ってない。ただ……こっちを、見てる……」


 向こうの紗希が、微かに首を傾けていた。

 笑いではなく“観測”の角度。


「……遅延じゃねぇ、“二重位置”ってやつだ」

 廉が低く言う。

「黒が切れてない。“向こう側”に誰か残ってる」


(観測者……誰?)


 その瞬間――


 向こうの鏡像が、ゆらりと揺れた。

 紗希の背中ではなく、“向こうの紗希”が。


(……動かされた?)


「紗希、下がれ」


 恭介が腕を引いたと同時に、

 鏡の表面に黒い線が走った。


 一本。“まだ繋がってる”と主張するように震えながら。


「こりゃ残りカスじゃねぇ……昨日の黒、“誰かが引っぱって消した”な」


 線は震え、すっと消えた。


「犯人は昨日ここにいた。――“遅れた笑い”の瞬間にな」


  ◇


 蛍光灯が唸る。

 その音だけが響く。


 廉のレコーダーが突然点滅した。


「……再生じゃねぇ、これ……」


 ノイズが形を帯び、

 昨日と同じ“濡れた笑い”が流れる。


「は? 消えてたろこれ……。誰だよ勝手に戻すな……!」


(戻ってきた……昨日の“声”が……)


 鏡が震えた。


「紗希伏せろ!」


 恭介が押し倒す。その瞬間――

 鏡の中央に黒い裂け目が浮かぶ。


 音はない。反射だけが喰われていく。


「……音だけ先に来てやがる。黒じゃねぇ……!」


 裂け目の奥から、

 ひとつの“黒い目”が覗いた。


 ――観測する者の目。


「覗いてんじゃねぇよッ!!」


 恭介が拳で叩き割る。

 鏡は砕け散るが、裂け目だけは残り、ゆっくり閉じていく。


   ――――“みてるよ”。


「離れて!!」


 紗希の声とともに、裂け目は吸い込まれるように消えた。


  ◇


「……今の、なんだよマジで」


「黒じゃない“何か”が、黒を使って観測してる。昨日の続き、見せたかったんでしょうね」


(書かなきゃ……今の全部……)


「ケッ、脅しのつもりなら逆効果だっつの。次だ」


「放送室ですね」


「昨日、美和さんが録った部屋っす」


 三人が廊下へ出る。


 扉が閉まった直後、

 割れた鏡の奥で、


 “遅れて”目を開けた気配がした。

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