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5話

 〈灯〉の厨房で、紗希は小さなメモ帳を開いた。

 昨日の鏡のこと、影の揺れ、息のタイミング――

 指先が迷いなく文字を走らせる。


(……私は、ああいったものを全部怖がっていた、はず……なのに)


 胸は強く脈打った。

 背中は冷たく汗ばんでいた。

 けれど、手だけは震えなかった。


「……灯、震えてねぇのか」


 恭介が横目で呟く。


「震えてますよ?」


 そう言いながら、紗希は自分の胸ではなく

 “影の揺れ”をじっと見つめていた。


(怖いときほど、目を逸らしたくない……どうして?)


 メモ帳の端に、無意識の文字が残る。


 ――“怖いものほど、記録しなきゃ消えてしまうから”




 翌日。


 〈灯〉の空気は、いつもより少しだけ重かった。


 窓ガラスには昨夜の雨の跡が薄く残り、外の光をゆるく歪ませている。

 カウンターの上では古い掛け時計が一秒ごとに「コツ、コツ」と音を刻んだ。

 その音だけが、時間がちゃんと進んでいる証拠のようだった。


 灯紗希は、いつもの手順でコーヒーを淹れていた。

 湯の落ちる音。豆のふくらむ匂い。

 変わらないはずの朝の景色なのに、今日はなぜか一つひとつの音が耳に刺さってくる。


(……昨夜の、鏡)


 遅れて笑った自分。

 先に動いた鏡の奥の影。

 佐久間先輩の袖から生えた黒い枝。


 どれも夢みたいなのに、指先の震えだけが現実を主張する。


「……ニュースには、なってませんね。灯さん」


 低い声でそう言ったのは、カウンター席で新聞を畳む相馬廉だった。

 隣のスマホ画面にも、昨日の“鏡の騒ぎ”は一切存在していない。


「この街じゃ、こういうのは“最初から起きてない”ことにされるんすかね」


「そういうこと、たまにありますよ」


 紗希は慣れたように答えた。

 だが「慣れたくて慣れたわけじゃない」と心の中でだけ付け加える。


「誰も信じないことは、最初から無かったことにされるんです。

 昔から、そういう消え方はいっぱい見てきましたから」


「いやいや、慣れていい種類の経験じゃないっすよ、それ」


 冗談めかして笑うものの、廉の目は冷静で、紙面の裏側まで覗き込んでいるようだった。


 紗希の手が微かに震え、コーヒーの表面に小さな波紋が生まれる。


(……怖いのに、気になる)


 紗希はノートを開いた。

 そこには断片の言葉が点のように散らばっている。


 ――鏡

 ――遅れて笑う


 ――黒い枝


(書きたい……)


 恐怖を“書いて”外側に固定する。

 それが紗希の自衛手段で、二年前からの習慣だ。


 “柳の木の下で幽霊見たり”というようなもので。


 物語でした、ということで自分を騙せば、恐怖は薄れるのでは、と。

 きっかけはその程度のものだった。


 しかし昨夜の鏡は、ノートの上に形を保ってくれない。

 書こうとすると、ペン先がすべって止まる。


(あの“遅れ”が何だったのか、ちゃんと分からないと書けない)


 知りたい。

 その欲求が胸で膨らみ、恐怖を押しのけていく。


 そのとき、廉がポケットから使い込まれたレコーダーを取り出した。

 傷のついた銀色がカウンターの光を鈍く返した。


「昨日の音、整理してたんすよ」


「昨日の……音?」


「鏡の部屋の。

 蛍光灯が弾けた瞬間、美和さんが倒れた瞬間……

 “黒”が動き始めたはずの音も」


 再生すると、ノイズ混じりの音が流れる。

 蛍光灯の唸り、息遣い、遠い叫び。

 しかし――


 途中から音が、きれいに“抜け落ちていた”。


「……途切れてますね」


「そうなんすよ。

 これ編集じゃない。波形が“丸く抉れてる”んです。

 最初から無かったみたいに」


 廉は空中で円を描く。


「黒の帯域って、普通は“自然に消える”なんてこと無いんですよ。

 弱まることはあっても、“観測されてる限りは”残る。

 でも昨日のは、途中だけ綺麗に消えてる」


「誰かが……消した……?」


「“消した”か、

 あるいは“向こう側に持っていかれた”か、ですね」


 向こう側。

 鏡の奥。


 紗希は背筋がひやりとした。


「昨日、鏡を見たとき覚えてますか?」


「……鏡の中の私が、先に笑った気がしました。

 私が笑おうとする前に。

 私を真似してる“誰か”が先に――」


「それです」


 廉は波形の凹んだ部分を指差す。


「これ、“像の遅延”のパターンです。

 強い恐怖が発火するときにだけ起きる。

 昨日の鏡は、完全に“引き金”になってた」


「発火点……」


「ミステリ的に言えば――

 あの鏡は“誰かに狙われている”。

 黒の、ブラックベインという脈の流れを扱いたい奴がいる」


 誰か。

 その言葉に、白衣の袖の気配だけが胸に引っかかる。


 そのとき、階段が軋んだ。


「……起きましたね」


 廉が目線を向ける。

紗希は水を用意した。


 階段の影から常盤恭介が現れた。


 寝癖の黒髪。

 薄い絆創膏の覗く首筋。

 昨日黒に噛まれたはずの腕は、もう普通に動いている。


「……水」


「はい」


 紗希が渡すと、恭介は一息で飲み干した。

 喉が鳴り、その音が店の静けさに痛いほど響く。


「その傷、平気なんですか?」


「あ? これか」


 袖をまくった腕には、火傷みたいな痕だけ。裂けた部分はもうなかった。


「こんなもんは、ツバでもつけときゃ治っちまう」


「医療行為の否定っすよ、それ」


「細けぇな。動きゃいいだろ」


 その荒っぽさ。

 人間の域を越えた回復速度。

 紗希は怖いのに、目を逸らせなかった。


「で?」


 恭介がレコーダーを顎で示す。


「残ってんのか、“黒の音”」


「残ってるどころか、“消えてる”んです」


 廉は淡々と続ける。


「あの黒、“動き出す前”に一度、誰かに触られてる。

 音が“鏡の奥”を向いてやがるんですよ」


 紗希の呼吸が止まった。


(鏡の奥……あの遅れが……?)


 廉は三本の指を立てる。


「三つ、確認することがあります。


 一つ、美和さん。どこまで録って、どこで絶ったのか。

 二つ、鏡の部屋。昨日のままなのか、“片付けられてる”のか。

 三つ、帯域の消失。観測者がいたのか、向こう側に吸われたのか」


「まずどこ行く?」


 恭介が短く聞く。


「最初に、美和さんのところ。

 その次に鏡の部屋です」


「片付けられてたら?」


「逆に“怪しい”。

 “無かったことにしたい奴”がいるってことです」


 白衣の袖。

 あの乾いた笑い。

 名前は出ないが、胸の奥で何かがひっかかった。


「紗希ちゃんは?」


「行きます」


 迷いはなかった。


「知りたいし、書きたいし……

 それに、私が関わってしまったことですから」


「関わってしまった……ね」


 廉は小さく笑い、


「むしろ“狙われてる側”ですけどね、灯さん」


「……やめてください、そういう言い方」


 苦笑しながらも、否定できない自分がいる。


「俺は?」


 恭介が顎をかく。


「どうせ必要なんだろ?」


「当然。黒が出たら喰ってもらわないと困るんで」


「利用する気満々じゃねぇか」


「持ちつ持たれつ。

 俺は“ノイズを刈る”。

 灯さんは“記録する”。

 常盤さんは“喰う”。

 役割分担完璧っす」


「勝手に決めんな……まあ、いーけどよ」


 恭介が立ち、伸びをする。

 ついさっきまで寝ていたとは思えない動きだ。


「黒が残ってたら面倒だしな。

 腹ぁ減ってたら、向こうから勝手に寄ってくる」


「安心できるわけない台詞なんだけど……」


 廉の呟きに、紗希も小さく笑った。


(……やっぱり、私は“書きたい”。恐怖ごと)


 震えたままでも書ける。

 それが紗希の“記録者”としての強さだった。


「じゃ、行きますか」


 廉が〈CLOSED〉の札を裏返した。

 扉を開けると、湿った空気が路地から流れ込む。


 雨は止んでいる。

 だがアスファルトの匂いは“水底”に似ていた。


 三人の影が並び、夕方の光にひとつに溶けた。


 昨日、鏡の奥で遅れて笑った“誰か”は――

 きっとまだこちらを見ている。


(ちゃんと、見に行くから)


 紗希は胸の奥でそっと呟いた。


(見て、書いて、残すから。

 だから――)


 足取りは、昨日より少しだけ強かった。

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