4話
救急車のサイレンが遠ざかってから、まだ十分ほどしか経っていなかった。
雨の痕跡はもうなく、朱色の夕日だけが廊下の窓に細長い影を落としている。
さっきまでの喧騒が嘘のように、校舎はひどく静かだった。
焦げた匂いと鉄の味。
床に残る黒い焦げ跡だけが、“黒”がいた証として湿り気を残している。
美和は保健室へ運ばれた。
紗希は壁にもたれ、噛みしめるように沈黙する。
恭介は拳を握り、夕日の片目だけを細めた。
「……さっきの、あれ」
紗希は喉を鳴らし、言葉を選ぶ。
「“黒”って、言ってましたよね。……何なんですか、あれ」
「さあな。喰えば静かになる。以上だ。」
そのとき――
「おいおい。“黒”なんて単語、どこで知ったんだ? 軽く口にすんじゃねぇよ」
廊下の角から相馬廉が現れた。
「レンさん……どうして?」
「顧問に呼ばれた。“怪談研究のネタがある”ってな。
来てみたらこの有様だ。人生って案外忙しい。」
恭介が睨む。
廉は視線を受け流し、焦げ跡にしゃがみ込む。
「……まだ動いてる。」
焦げの奥で、黒い線が“筋肉のように”ぐにりと蠢いた。
廉は小瓶を指先で弾き、白い粉を静かに撒いた。
粉は薄く広がり、黒の揺れが――ほんのわずかに弱まった。
反応は三者三様だった。
紗希は、粉の散らばり方と黒の薄れ方を、無意識に見比べていた。
恭介は鼻を鳴らし、ぼそりと呟く。
「……食えねぇ粉、撒くな。」
廉は肩をすくめる。
「気にすんな。ただの“区切り”だ。
俺の流儀ってだけだよ。」
三人の温度差が、奇妙に廊下に馴染んだ。
「やっぱりだ。ブラックベイン。」
「ブラック……?」
紗希が眉を寄せる。
「黒の流れ。恐怖の沈殿した場所にだけできる“地脈”。
人の積み重ねた恐怖の“跡”が、黒い線になる。
感じる人間もいれば――視えちまうやつもいる。」
言いながら、廉は紗希を指さした。
「灯の嬢ちゃん。
断言はしねぇけど……黒が寄ってくる人間ってのは確かにいる。」
紗希は息をのむ。
「……なんでわかるんですか」
「匂いだ。渦眼のやつには分かる。」
廉は肩越しに恭介を見る。
真っ黒に見えるほどに影の落ち込んだ顔。
恭介の瞳の奥で、青白い渦が微かに震えた。
「俺も渦眼持ちだが……お前みてぇにギラついてはいねぇよ、先輩。」
「先輩じゃねぇ。」
――カツリ。
排水溝の奥。
暗闇で、複数の“目”が揺れた。
紗希の喉が固くなる。
黒い線が絡み合い、枝のように伸び、
“ひとつの塊”へと収束する。
廉は影を踏み、斧の影――〈蜃〉を具現させた。
「来るぞ。」
「斧……?」
紗希が呟く。
「〈蜃〉。俺のフィアー。
“幻”と、黒が残した“嘘の記録”だけを斬れる。
実体は影だが――切れるときは切れる。」
黒が溢れた。
――ジ……ジジジ……
電線が焼けるようなノイズ。
壁を走る黒い線は、生き物の跳躍そのもの。
「下がれ、灯の嬢ちゃん!」
廉が叫ぶ――が、その前に恭介が動いた。
「……腹、減ってんだよ。」
声音は獣じみた渇き。
恭介の視界では、黒は一本の線へと収束し、
“核”へ誘導する道筋のように揺れていた。
恭介が黒の塊へ飛び込み、噛み千切る。
濡れた煤を裂くような、湿った線維の砕ける音。
金属粉のような味が舌に貼りつき、
黒い熱が喉を焼きながら胃の底へ落ちていく。
“目”が悲鳴めいて収縮した。
「……食ってんのかよ。それ、“情報”だぜ?」
廉は呆れ半分、震え半分。
廉の耳には、黒のノイズが
“吐息”のような音として揺らいでいた。
「うるせぇ……うまいんだよ」
紗希の口元がわずかに揺れた。
廉が震え、恭介が飢え、
自分だけが微笑んでいることに気づかないまま。
(ああ……恭介先輩って、やっぱり。こういう人なんですね……)
黒が天井へ逃げる。
廉が斧を振る。
「“目”を潰せ! 核だ!」
「言われなくてもだッ!」
恭介は跳び、黒を掴み、噛み潰す。
ノイズが弾け、線が排水溝へ逃げ戻る。
恭介は腕を突っ込み――喰い尽くした。
――その瞬間。
視界に白いノイズが走る。
紙の壁が一枚揺れ、
向こう側で“誰か”が手を伸ばしたような感覚。
次の瞬間、遠い声が遮断した。
――『そこには触れるな』
恭介は奥歯を噛み、記憶が滑り落ちるのを待つ。
廉が駆け寄る。
「……お前、一人で全部喰ったのか?」
「喰うしかねぇだろ。腹ァ減ってんだよ。」
廉は裂けた腕を見て顔をしかめる。
裂け方は**“噛み跡”に見えなくもない**。
「腕、裂けてんぞ……」
「ケッ。あとで絆創膏でも貼っときゃいいだろ」
その雑さに、廉は言葉を失った。
廊下の奥から、
生徒たちの小さな囁きだけが届く。
「今の……噛んでたよな?」
「吸ってたよな……?」
紗希は黒の残り香、逃げた方向、目の配置――
恐怖の“構造”を、書くように整理していた。
(……書ける。今の恐怖、全部、形にできる……)
廉が排水溝を覗く。
「……おかしい。ここ、本来は黒が流れ込む場所じゃねぇ。
“誘導”されてる。黒を集めてる“誰か”がいる。」
恭介と紗希は顔を見合わせる。
しかし、それが誰だ、というような具体的な名前は浮かばない。
「まあ、決めつけは危ねぇ。
黒は“思い込み”に乗って増える。」
三人は焦げ跡を離れ、夕暮れの廊下を歩き出す。
――教室の窓の影に、ひとり佇む男がいた。
白衣の袖。志藤。
焦げ跡を見つめ、唇を引き結ぶ。
「……面倒な案件を拾っちまった。
専門外なんだがな……」
その声色は冷静だが、
袖口の内側では指先が微かに震えていた。
メモ帳を開き、淡々と記録を書く。
窓の鍵を静かに閉めながら、小さく呟いた。
「仕事ばっか増える……ほんと、運が悪い。」
夕日の影が伸び、
校舎の奥では黒の地脈が静かに脈動を始めていた。




