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3話

   翌々日。


 雨の週末が明けても、街の湿り気は抜けきらなかった。


 月曜の放課後の校舎には、〈灯〉の裏路地で嗅いだあの“水底の匂い”が、薄く漂っていた。

 アスファルトの下を、見えない水脈に紛れて“黒い血管”が走っているような、じっとりとした重さ。


 灯紗希は、教室の隅でノートを閉じる。


 中身は授業の板書ではなく、〈灯〉に来る客から聞いた「ちょっと怖い話」の断片だった。


 “怖い”を聞いて、“怖い”をそのまま抱えていると、胸の中で増える。


 だから書く。文字にして、ページの上に「固定」しておく。


 紙の上に残った恐怖は、少しだけ“他人事”になる。

 自分の中に溜め込むのではなく、“外側に置き直す”――それが最近の紗希なりのやり方だった。


(……黒も、きっと似たようなものなんだろうな)


 誰かが吐き出した恐怖や痛みが、形を変えてにじみ出したもの――それを、あの黒い枝を知っている人たちは「ブラックベイン」と呼ぶ。

 そこから零れ落ちた小さな“かたまり”は「クロ」。


 紗希には、それが直接は見えない。

 けれど、近くにあると肺の奥がざわつく。点滴の夜から続く“異物感”が、胸の内側で膨らむ。


「灯さん、ちょっといい?」


 戸口から、養護教諭と並んでスクールカウンセラーの志藤が顔を出した。


 白衣の袖から、細い手首がのぞく。


「放課後、時間ある? この前、喫茶店で頼んでた件。覚えてるよね」


「“表情のサンプル撮影”ですよね」


 紗希は立ち上がりながら言う。


「まだ逃げてませんよ。……あれ、ほんとに研究なんですか?」


「ほんとに研究だよ」


 志藤は口角だけで笑った。


「それに、君は小説を書いてるだろう? 素材になると思うよ」


「……誰から聞いたんですか、それ」


「カウンセラーのところには、秘密が勝手に集まってくるものだよ。悪用しないから安心しなさい」


 悪用って言い方がすでに怪しい、と紗希は心の中でだけ突っ込む。


 案内されたのは演劇室だった。


 放課後の演劇室は、鏡と沈黙の箱だ。


 壁一面の姿見、吊り下がる黒幕、古い蛍光灯の唸り。


 床のワックスと汗と舞台メイクの匂いが重く沈んでいる。

 ここも、〈灯〉ほどではないにせよ、“黒がたまりやすい部屋”のひとつだと紗希は感じている。光の端が、いつも少しだけよれているからだ。


「紗希ちゃーん! ほんとに来てくれて助かる!」


 手を振ったのは放送部の先輩・佐久間美和。


 手にはICレコーダー、足元には音響ケーブルがとぐろを巻いている。


「放送部の企画なんですか?」


「半分ね。残り半分は演劇部と先生の“趣味”」


 美和は肩をすくめた。


「声と表情を一緒に撮るんだって。“恐怖の表情は、どれより真実に近い”らしいよ」


「……“真実”って便利な言葉なんですね」


「そう思う?」


 鏡の前にはビデオカメラとマイクスタンド。


 そして、その横で機材をいじる影がひとつ。


「……レンさん?」


 黒いパーカー、胸元の十字架、片耳だけのヘッドホン。


 相馬廉が、いつもの軽さで片手を上げた。


「おー、お疲れっす。奇遇っすね、灯さん」


「奇遇なわけないですよね。……何してるんですか」


「えーっとですねぇ……」


 廉はレコーダーを止め、気まずそうに笑う。


「“地域連携なんちゃら外部協力員”って肩書きで、音響のボランティアしてまして」


「そんな肩書き、うちの学校にありました?」


「最近できたのさ」


 志藤があっさり頷く。


「彼は“音の剪定”が得意だからね」


「……剪定?」


「ノイズを伐るって意味です」


「今、“木こり”って言いませんでした?」


「言ってないっす」


 誤魔化した。紗希はそこを記憶しておく。


 (“伐る”って言い方、あのときもしてた……。

 〈灯〉で、黒の話をするとき――)


 疑問は、あとで書けばいい。


「……では説明するね」


 志藤が手を叩く。鏡の列に乾いた音が跳ねた。


「今日は“恐怖”のサンプルを撮る。鏡の前に座って、『怖い』と声に出し、その表情をカメラとマイクで記録する」


「どうして“怖い”だけなんですか?」


「……喜びも怒りも作れる。でも恐怖だけは、脳の奥の古い部分が勝手に顔へ出す。だから“真実に近い”」


 “脳の奥の古い部分”。

 点滴の夜、黒が血管を這い上がってきた感覚が、うっすらと蘇る。


「……やっぱり便利ですね、その言葉」


「君の創作にもきっと役立つ。君は恐怖を“書く”ことで、自分を守っている。違うかな」


 図星だった。


 だが認めるのは悔しいので黙る。


 志藤は、続けて言葉を重ねた。


「“観測”って言葉を知っているかい?」


「……理科で聞いたことはあります。見ると変わる、みたいな」


「……そう。黒も同じだよ。

 “見られた恐怖”は、見られていないときとは違う動きをする。

 だから私は、その“観測された恐怖”を集めたい」


(観測……)


 紗希は小さく息を吐く。


(私がやってる“書く”ことと、似てる……でも、この人のは多分――)


 ――快楽が混ざっている。


「じゃ、始めよっか」


 美和がレコーダーを構える。赤いランプが点滅する。


 廉もレコーダーのスイッチを押した。


 ――カチリ。


 鏡は六面。反射が重なり、顔が幾重にも奥へ続く。


 一番手前が瞬きをすると、奥の方も紙芝居のように遅れて瞬く。

 “自分の像”が少しずつ時間をずらして並んでいる、その様が、紗希にはあまり好きではなかった。


「“怖い”、言ってみて」


「……こわい」


「もっと、“今”怖いみたいに」


 今。


 今も黒は蠢いている。排水口の奥で笑っている。


 それは、渦眼を持つ人には“線”として見えるらしい。

 恭介や廉のような、“見えてしまう目”――渦眼。


 紗希は、それを持っていない。

 ただ、黒が近くにあると、鼓動と呼吸だけが勝手に乱れる。


「――怖い」


 何をやっているんだろう、そんな呟きを漏らしそうになる。


 その瞬間、鏡の一番奥の“紗希”が、先に笑った。



 音もなく、唇の端だけが遅れて動く。


「見ましたよね?」


「何を?」


 美和はきょとんとする。


 廉だけが、表情を固くした。


 ヘッドホンの向こうで、ノイズが増えた。


「……まただ。昨日〈灯〉の録音と同じ帯域が、スパッと消えてる」


「“また”って?」


「えーと、それはですねぇ……」


 パチン、と蛍光灯が弾けた。


 光が落ち、部屋が一瞬で夜になる。


 夕方の薄光だけが、鏡の表面を鈍く舐めた。


 その鏡に、“黒”が這った。


 影ではない。


 反射でもない。


 油に濡れたような細い筋が、ガラスの内側から撫でている。


 一本、二本と増え、やがて枝の束に変わった。


 それはまさに、〈灯〉の裏路地で恭介が“ブラックベイン”と呼んでいたものと同じ“生理”だった。

 線は血管のように脈打ち、恐怖や痛みを吸い上げながら、より太く、暗く育っていく。


「ブレーカー見てくる!」


 美和がレコーダーを抱えて走り去る。


 残されたのは、紗希、廉、志藤。


 静寂の中で、笑い声がした。


 鏡の内側ではない。“部屋の内側”から。


(……前より、はっきり見える)


 喉が固くなる。


 床の隅からも、黒い筋が伸びてきている。


 隣室から短い悲鳴。


「美和先輩!」


 紗希は廊下へ飛び出し、準備室へ駆け込む。


 床に倒れた美和。


 袖口から“黒いもの”が這い出している。


 血ではない。


 液体でも煙でもない。


 油に濡れた枝が、皮膚の内側から生えてくるように脈打っている。


 ――クロ。


 ブラックベインの本流からちぎれた“小さな塊”が、人の体の中で根を張ったとき、その痛みはただの火傷とは別種のものになる。


「っ……熱い、熱い、熱い……!」


 皮膚の下で何かが這う――紗希には、あの夜の点滴を思い出させる。


 黒は床に落ち、枝分かれし、教室の方へ這っていく。


 枝の先に“見えない眼”がいくつも付いているようで、覗かれている感覚。


「触るな」


 志藤が駆け込み、美和の腕を押さえる。


 手袋をはめ、包帯を広げる。その手際は、医者とも除霊師ともつかない。


「廉くん、録音は続けて。波形が欲しい」


「続けるって、これガチで燃えてますけど!」


「……観測しなければ、対処できない」


「順番おかしくないですか?」


 紗希が噛みつく。


「対処はあとでもできる。今しか取れない“恐怖”がある」


 “恐怖が先、治療はあと”――その順番に、ぞっとする。


 廉がレコーダーを強く握る。


「……マジでそういうスタンスなんすね、先生」


 録音を止める。


 ――カチ。


 誤魔化すように再生ボタンを押した。


 スピーカーから“濡れた笑い声”だけが響く。


 音に反応し、黒い枝がいっせいにざわりと震えた。


 蛇が鎌首を上げるように、触手の群れは縦に伸びて硬直する。


(……来る)


 紗希が息を呑んだ瞬間――


 扉が蹴り飛ばされるように開いた。


「――あぁ? 見えるじゃねぇか、線」


 常盤恭介だった。


 裏路地で排水口を睨んでいた“野犬めいた男”が、学校に現れた。


 黒いパーカーの裾が揺れ、目が爛々と光る。


 その瞳の奥には、黒い枝の流れが“青白い線”となって入り組んで見えている――渦眼の視界。


「……なんだよ、やっとハッキリしてきやがったな」


 彼は、そう言って笑う。


 疲れからではなく、飢えから来る笑いだ。


「腹ぁ減ってたとこだ。いいタイミングだな、おい」



 床に走る黒い枝――恭介には、そのすべてが“線”として視えている。


 空腹で乱れていた視界が、獲物を前に一気に収束してくる。


 黒の線は、人の恐怖や痛みで太り、世界を喰いつぶそうとする“異物”だ。

 恭介の“喰う”行為は、その線ごと“噛み切って飲み込む”ための、本能じみた能力だった。


「出てこいよ」


 足を踏み出し、床板ごと黒を潰す。


「もっと這えよ。喰ってやるよ――全部だ」


 がはは、と獣のように笑い、飛び込んだ。


 美和の腕から伸びる枝を掴み上げ、骨ごと抜くみたいに“引き抜く”。


 黒が空気中で悲鳴のようにねじれた。


「往生際わりぃんだよ、クソが!」


 殴る。


 蹴り潰す。


 踏み抜く。


 握り潰す。


 鏡の面から新しく伸びる枝を靴底でまとめて踏み折り、噛み取った黒を喉へ押し込み、嚙み砕く。


 その噛み方が、明らかに“食事”ではない。


 ――捕食。


 噛むたび、血ではなく恐怖の味が弾け、恭介の呼吸が荒くなる。


 最初の一口だけは、静かに噛みしめる。

 味を確かめるように、じわりと黒を潰す。


 次の瞬間には、暴力だ。

 快楽と衝動が混ざった動きで、連続して“線”を食いちぎっていく。


 噛み千切るたび、首筋の血管が浮き、笑いがこぼれる。


「――ッは、ッは……ああ……来るなぁ……これだよ……!」


 嚙み砕くたび、視界の線がクリアになっていく。


「……あぁ、やっぱこれだ。喰わねぇと始まんねぇよな」


 声は、愉悦に濡れていた。


 紗希は動けなかった。


 黒が怖いのではなく――


 それを全力で壊す“誰か”を見てしまったから。


(ああ……やっぱりこの人だ)


 二年前、自分の中に入り込んだ黒を“喰って”くれた男。

 そのときから、紗希の中では

 「黒=怖いもの」

 「恭介=それを喰ってしまうもの」

 という単純で、しかし強烈な図式が出来上がってしまっている。


 鏡の奥から、最後の一本が逃げようとした。


 床の排水口から伸びてくる黒い枝。


 恭介が踏み込み、掴む。


「残りカスがよ」


 引き抜き、そのまま喉へ押し込み、飲み下す。


 黒が静かに消える。


 鏡はただの鏡に戻り、床には焦げ跡だけが残る。


 美和の腕には、黒が抜けた三本の火傷跡が残った。


 志藤が息を吐き、電話を取る。


「……はい。観測値は十分取れました。ええ、被験者は軽傷。処理班は不要です、今回は」


 “処理班”だけが耳に刺さる。


 廉はレコーダーを拾う。


 再生すると、ノイズの底で濡れた笑い声だけが響いた。


「先生」


 廉が声を落とす。


「誰に頼まれて、こんな実験してるんすか」


「さあね」


 志藤は笑わなかった。


「順番があってね、廉くん。今はまだ、君たちの番じゃない」


「順番とか言われると、余計に気になるんすけど」


「気にしておきなさい。そのほうが、生き延びやすい」


 意味は分からないが、妙に実感のある言い方だった。


 紗希は火傷の跡をそっと見る。


 痛々しいが黒はもういない。


「……また来ますよね。こういうの」


 紗希が言うと、恭介は面倒くさそうに頭をかく。


「呼べば来る。こっちが知らねぇ顔してても、向こうは勝手に出てくる」


「じゃあ、どうすれば――」


「そん時は喰う」


 その言い方は、説明でも理屈でもなく――


 “野生の法則”だった。


 肩をすくめる。


「腹ぁ減ってたら、向こうから勝手に飛び出してくるけどな。――線のほうから」


 “喰う/伐る/書く”。

 今この場には、そのうち二つ――喰う恭介と、音を伐る廉――が揃っている。


 自分はまだ、“書く”しかできない。


 夕焼けの光が準備室の窓を薄く照らす。


 鏡の面には誰もいない。


 だが紗希には、鏡のいちばん奥で“遅れて笑う自分”が、まだじっとこちらを見ている気がした。


 排水口の奥に置き忘れた夜が、またひとつ細く、細く延びる。


 それを切るのか、喰うのか、書くのか――まだ誰も知らない。

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