2話
雨は上がっていた。
雲の切れ間から淡く光が差し、濡れたアスファルトが白く霞んでいる。
土曜の朝。
喫茶店〈灯〉のガラス戸に「開店」の札を掛けたのは、灯紗希だった。
まだ冷たい店内に、湯を落とす音が小さく響く。
ミルクの膜がゆらぎ、カップの白がわずかに揺れる。
――この店の“静けさ”は、近所の喫茶店とは違う。
外の音が薄くなる。
光の届き方が均一にならない。
空気そのものが、どこか“深い”。
床の下を、目に見えない“何か”がゆっくりと流れているような感覚。
〈灯〉は、黒が流れやすい土地だ。
地下水の通り道みたいに、
人の恐怖や、言葉にならなかったざらつきが溜まりやすい“黒の通路”が、
この店の真下をかすめている。
渦眼を持つ者にとって、その流れは“線”に見える。
見えない人間にとっては、ただの「なんとなく落ち着かない場所」でしかないけれど。
紗希はもう気づいている。
対策も、慣れも、諦めも、二年前からずっと続けている。
――カラン。
湿った風と一緒に、ドアベルが鳴った。
「おはようございます。……また来ちゃいました」
相馬廉。
胸元の十字架を癖のように親指でなぞりながら、軽い笑みを浮かべる。
肩のコートの裾はまだしっとり濡れていた。
「昨日ぶりですね」
「いやぁ、昨日のがちょっと……寝るより、ここ来たほうがマシかなって」
「また怖い話の取材ですか?」
「取材っていうか、現場検証っす。なんか……クセになるんすよね、ああいうの」
「……“クセになる”って言いました?」
「や、冗談。今の違いますって」
「はい、忘れました」
「ほんとに?」
「ほんとにですよ」
軽いやり取り。
紗希の笑顔はやわらかい。
ただ、その笑顔の奥にある瞳は光を飲み込むような黒で――そこに、湿った皮膚感覚だけが生きていた。
「ところで、昨日の録音が変なんすよ」
「変……?」
「雨音が途中でスッと消える。ここだけ時間が切り抜かれたみたいな」
廉はポケットから小さなレコーダーを取り出し、指で軽く叩く。
「音って、普通はどっかしら残響するんすよ。
でも、こいつ……一定の帯域だけ、きれいに“抜けてる”」
「ありますよ。ここ、“そういう土地”なので」
紗希はあっさりと言う。
「黒が通ると、音も一緒に持っていっちゃうんです。
線みたいに。……ここ、そういう線がよく通るので」
「線、っすか」
「目には見えませんけどね。
でも、たまに“見えちゃう人”がいるみたいです」
自分で言いながら、
二階にいるはずの“その住人”の顔が頭に浮かぶ。
――カチ。
時計がひとつ鳴った。
その音を合図にしたように、奥の階段が軋んだ。
黒いパーカー。
ぼさぼさの黒髪。
眠たげな三白眼。
常盤恭介が降りてきた。
火のついていない煙草を咥え、獣のように空気の匂いだけを探る。
その立ち姿は、悪役のそれに近い。
無表情でも、ただそこに立つだけで“脅威”になるタイプの顔つき。
渦眼が、ごく微かに青白く滲む。
――黒の線を、目が勝手に拾ってしまう。
それは渦眼持ちだけが抱える、生理的な負担だった。
「……腹ぁ減った」
「おはようございます。まず顔洗ってください」
「食うのはお前の飯だろが」
「それでも、顔です」
恭介は言葉を投げ捨てるように返す。
その物言いは荒い。
だが紗希は慣れたもので、表情ひとつ崩さない。
廉が会釈した。
「おはようございます、“先輩”。昨日はどうも」
恭介は顎だけ動かす。
視線は刃のように鋭く、見た瞬間に背筋がざわつく。
その渦の奥では、いつでも“黒を喰う準備”が整っている――そんな目だ。
「……裏の排水口、また鳴いてやがる」
「鳴く?」と廉が眉を上げる。
「昨日からずっとだ。泥ん中で誰かが笑ってるみてぇな音だ」
言いながら、恭介はこめかみを指で押さえた。
地下から上がってくる“線のざわつき”が、渦眼をじりじり刺激している。
「鳥、じゃないですよね」
「笑う鳥がいたら見せろ」
湿度がひとつ、沈む。
〈灯〉の空気は、こういうときだけ“底”を見せる。
「――やっぱり、こっちに流れてきてますね」
紗希はカップを拭きながら言った。
襟元から覗く首筋に、白い絆創膏。
その下にある“痕”は、まだ薄く残っている。
二年前の夜に喰われた、黒の残り香。
喰われた側の身体にも、黒の通り道だけは薄く焼き付いたままだ。
廉が気づきかけるが、
紗希は自然に身体をずらし、視線を逸らさせた。
恭介がカウンターの端に腰を預け、廉を横目で測る。
「取材は勝手にしろ。ただし覗きすぎんな。喰われるぞ」
「……了解っす」
軽く返したが、廉の喉がひとつ鳴った。
恭介の視線は、冗談にならない重さがある。
そこには、黒を喰う側の“本能”が剥き出しのまま棲んでいた。
「――これ」
紗希は気づく。
カウンターに置かれた、小さなICレコーダー。
「忘れ物ですか?」
「あ、それ俺の。……正直、最後のとこ再生してなくて」
「じゃ、いきますね」
再生ボタンを押す。
雨音。
湯の落ちる音。
店の換気扇の低い唸り。
それらが一瞬で、ふつりと途切れた。
……ザー……ッ……ザ……
ノイズの隙間に、薄く、湿った声が落ちる。
『……みてる……』
女とも子どもともつかない、濡れた囁き。
紗希の指先がふるりと震えた。
同時に、首の“傷跡”がチリ、と熱を帯びた気がした。
渦眼はない。
だが“黒に触れられた場所”だけは、別の感覚を持ってしまっている。
紗希はすぐ停止ボタンを押す。
「たぶん混線です。ありますよ、ここ」
「ま、マジっすか。
俺、女の人に『見てる』って言われるの、嫌いじゃ……いや、忘れてください今の」
「忘れました」
紗希は微笑む。
しかしその笑顔より先に、皮膚の奥がざわついていた。
さっき、耳の後ろで確かに――
『――あかり……と……み……?』
“灯”の字を、別の形になぞるように。
ガラスの外で、街灯の根元に黒い枝が走る。
風では揺れない角度で。
誰かの指のように、こちらを示して。
恭介が目だけで窓をなぞる。
「……聞いただろ。排水口じゃねぇ。黒が流れてんだ」
黒は、水や電気と同じように“流れやすい場所”を選ぶ。
排水口、路地の隙間、ひび割れたアスファルト――。
溜まった恐怖や、言葉にならない怨嗟がそこに染みこむと、
やがて“クロ”が生まれる。
それを視界で線として拾えるのが、渦眼。
それを直接“喰って”無害化するのが、恭介だった。
廉は胸ポケットの十字架に触れた。
「なあ紗希」
恭介は低く言う。
「昼前に買い出し行く。腹減ると線が歪む」
「じゃ、今すぐ行きましょう。
先輩は曲がり角で必ず逆に行くので、GPSチップ埋め込み案、真剣に検討します」
「犬扱いすんな」
「頻度は犬以上です」
軽口が一往復する。
それだけで、不穏さが一度だけ霧散する。
――カチ。
時計の音が戻る。
「じゃ、出ますよ。お父さんには置き手紙して」
二階から「がんばれー……」と力のない声。
恭介は鼻で笑い、玄関へ向かう。
「買い出し、っすか?
俺、取材がてら歩こうと思ってたので、途中までご一緒していいすか?」
「好きにしろ。ただ、迷っても知らねぇ」
「いや先輩、それ野犬の言い方っすよ」
「吠える犬よりマシだ」
「ほら、もう犬前提になってる!」
紗希が吹き出す。
「……ほんとに賑やかですね、うち」
その横顔を、恭介が一瞬だけ横目で見た。
何も言わないが、どこか安心したような、そんな揺れがあった。
ガラス戸が開く。
湿った光。
まだ乾かない街。
三人の足音が並ぶ。
そのすぐ足もとで――
排水口の奥に溜まった夜が、細く、細く、後を引いていた。




