表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/20

2話

 雨は上がっていた。


 雲の切れ間から淡く光が差し、濡れたアスファルトが白く霞んでいる。

 土曜の朝。


 喫茶店〈灯〉のガラス戸に「開店」の札を掛けたのは、灯紗希だった。


 まだ冷たい店内に、湯を落とす音が小さく響く。

 ミルクの膜がゆらぎ、カップの白がわずかに揺れる。


 ――この店の“静けさ”は、近所の喫茶店とは違う。


 外の音が薄くなる。

 光の届き方が均一にならない。

 空気そのものが、どこか“深い”。


 床の下を、目に見えない“何か”がゆっくりと流れているような感覚。


 〈灯〉は、黒が流れやすい土地だ。


 地下水の通り道みたいに、

 人の恐怖や、言葉にならなかったざらつきが溜まりやすい“黒の通路ブラックベイン”が、

 この店の真下をかすめている。


 渦眼を持つ者にとって、その流れは“線”に見える。

 見えない人間にとっては、ただの「なんとなく落ち着かない場所」でしかないけれど。


 紗希はもう気づいている。

 対策も、慣れも、諦めも、二年前からずっと続けている。


 ――カラン。


 湿った風と一緒に、ドアベルが鳴った。


「おはようございます。……また来ちゃいました」


 相馬廉。


 胸元の十字架を癖のように親指でなぞりながら、軽い笑みを浮かべる。

 肩のコートの裾はまだしっとり濡れていた。


「昨日ぶりですね」


「いやぁ、昨日のがちょっと……寝るより、ここ来たほうがマシかなって」


「また怖い話の取材ですか?」


「取材っていうか、現場検証っす。なんか……クセになるんすよね、ああいうの」


「……“クセになる”って言いました?」


「や、冗談。今の違いますって」


「はい、忘れました」


「ほんとに?」


「ほんとにですよ」


 軽いやり取り。


 紗希の笑顔はやわらかい。

 ただ、その笑顔の奥にある瞳は光を飲み込むような黒で――そこに、湿った皮膚感覚だけが生きていた。


「ところで、昨日の録音が変なんすよ」


「変……?」


「雨音が途中でスッと消える。ここだけ時間が切り抜かれたみたいな」


 廉はポケットから小さなレコーダーを取り出し、指で軽く叩く。


「音って、普通はどっかしら残響するんすよ。

 でも、こいつ……一定の帯域だけ、きれいに“抜けてる”」


「ありますよ。ここ、“そういう土地”なので」


 紗希はあっさりと言う。


「黒が通ると、音も一緒に持っていっちゃうんです。

 線みたいに。……ここ、そういう線がよく通るので」


「線、っすか」


「目には見えませんけどね。

 でも、たまに“見えちゃう人”がいるみたいです」


 自分で言いながら、

 二階にいるはずの“その住人”の顔が頭に浮かぶ。


 ――カチ。


 時計がひとつ鳴った。


 その音を合図にしたように、奥の階段が軋んだ。


 黒いパーカー。

 ぼさぼさの黒髪。

 眠たげな三白眼。


 常盤恭介が降りてきた。


 火のついていない煙草を咥え、獣のように空気の匂いだけを探る。

 その立ち姿は、悪役のそれに近い。


 無表情でも、ただそこに立つだけで“脅威”になるタイプの顔つき。

 渦眼が、ごく微かに青白く滲む。


 ――黒の線を、目が勝手に拾ってしまう。


 それは渦眼持ちだけが抱える、生理的な負担だった。


「……腹ぁ減った」


「おはようございます。まず顔洗ってください」


「食うのはお前の飯だろが」


「それでも、顔です」


 恭介は言葉を投げ捨てるように返す。

 その物言いは荒い。


 だが紗希は慣れたもので、表情ひとつ崩さない。


 廉が会釈した。


「おはようございます、“先輩”。昨日はどうも」


 恭介は顎だけ動かす。


 視線は刃のように鋭く、見た瞬間に背筋がざわつく。

 その渦の奥では、いつでも“黒を喰う準備”が整っている――そんな目だ。


「……裏の排水口、また鳴いてやがる」


「鳴く?」と廉が眉を上げる。


「昨日からずっとだ。泥ん中で誰かが笑ってるみてぇな音だ」


 言いながら、恭介はこめかみを指で押さえた。

 地下から上がってくる“線のざわつき”が、渦眼をじりじり刺激している。


「鳥、じゃないですよね」


「笑う鳥がいたら見せろ」


 湿度がひとつ、沈む。


 〈灯〉の空気は、こういうときだけ“底”を見せる。


「――やっぱり、こっちに流れてきてますね」


 紗希はカップを拭きながら言った。


 襟元から覗く首筋に、白い絆創膏。

 その下にある“痕”は、まだ薄く残っている。


 二年前の夜に喰われた、黒の残り香。

 喰われた側の身体にも、黒の通り道だけは薄く焼き付いたままだ。


 廉が気づきかけるが、

 紗希は自然に身体をずらし、視線を逸らさせた。


 恭介がカウンターの端に腰を預け、廉を横目で測る。


「取材は勝手にしろ。ただし覗きすぎんな。喰われるぞ」


「……了解っす」


 軽く返したが、廉の喉がひとつ鳴った。


 恭介の視線は、冗談にならない重さがある。

 そこには、黒を喰う側の“本能”が剥き出しのまま棲んでいた。


「――これ」


 紗希は気づく。


 カウンターに置かれた、小さなICレコーダー。


「忘れ物ですか?」


「あ、それ俺の。……正直、最後のとこ再生してなくて」


「じゃ、いきますね」


 再生ボタンを押す。


 雨音。

 湯の落ちる音。

 店の換気扇の低い唸り。


 それらが一瞬で、ふつりと途切れた。


 ……ザー……ッ……ザ……


 ノイズの隙間に、薄く、湿った声が落ちる。


『……みてる……』


 女とも子どもともつかない、濡れた囁き。


 紗希の指先がふるりと震えた。

 同時に、首の“傷跡”がチリ、と熱を帯びた気がした。


 渦眼はない。

 だが“黒に触れられた場所”だけは、別の感覚を持ってしまっている。


 紗希はすぐ停止ボタンを押す。


「たぶん混線です。ありますよ、ここ」


「ま、マジっすか。

 俺、女の人に『見てる』って言われるの、嫌いじゃ……いや、忘れてください今の」


「忘れました」


 紗希は微笑む。


 しかしその笑顔より先に、皮膚の奥がざわついていた。


 さっき、耳の後ろで確かに――


『――あかり……と……み……?』


 “あかり”の字を、別の形になぞるように。


 ガラスの外で、街灯の根元に黒い枝が走る。


 風では揺れない角度で。

 誰かの指のように、こちらを示して。


 恭介が目だけで窓をなぞる。


「……聞いただろ。排水口じゃねぇ。黒が流れてんだ」


 黒は、水や電気と同じように“流れやすい場所”を選ぶ。

 排水口、路地の隙間、ひび割れたアスファルト――。


 溜まった恐怖や、言葉にならない怨嗟がそこに染みこむと、

 やがて“クロ”が生まれる。


 それを視界で線として拾えるのが、渦眼。

 それを直接“喰って”無害化するのが、恭介だった。


 廉は胸ポケットの十字架に触れた。


「なあ紗希」

 恭介は低く言う。

「昼前に買い出し行く。腹減ると線が歪む」


「じゃ、今すぐ行きましょう。

 先輩は曲がり角で必ず逆に行くので、GPSチップ埋め込み案、真剣に検討します」


「犬扱いすんな」


「頻度は犬以上です」


 軽口が一往復する。

 それだけで、不穏さが一度だけ霧散する。


 ――カチ。


 時計の音が戻る。


「じゃ、出ますよ。お父さんには置き手紙して」


 二階から「がんばれー……」と力のない声。


 恭介は鼻で笑い、玄関へ向かう。


「買い出し、っすか?

 俺、取材がてら歩こうと思ってたので、途中までご一緒していいすか?」


「好きにしろ。ただ、迷っても知らねぇ」


「いや先輩、それ野犬の言い方っすよ」


「吠える犬よりマシだ」


「ほら、もう犬前提になってる!」


 紗希が吹き出す。


「……ほんとに賑やかですね、うち」


 その横顔を、恭介が一瞬だけ横目で見た。

 何も言わないが、どこか安心したような、そんな揺れがあった。


 ガラス戸が開く。


 湿った光。

 まだ乾かない街。


 三人の足音が並ぶ。


 そのすぐ足もとで――

 排水口の奥に溜まった夜が、細く、細く、後を引いていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ