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1章・エピローグ

 翌朝の〈灯〉には、雨上がりの匂いと湯気が満ちていた。

 紗希はカウンターでコーヒーを淹れながら、自分の影が半拍遅れて揺れるのを黙って見つめる。


(……まだ、薄い)


 昨日の黒の残響が、店内の空気をわずかに歪ませていた。


 マグの横には、小さなメモ帳が開きっぱなしになっている。

 ページの端には昨夜の走り書きが残っていた。


 ――“鏡、少し遅れて動く?”

 ――“影の呼吸みたいなの、要確認”

 ――“見たものを書くと落ち着く。理由は不明”


 紗希はちらとそれを見て、そっとページを閉じた。

(……まだ、まとめるには早いかもなあ)

 そんなふうに自分へ言い聞かせる。


 レンが静かにレコーダーを置く。


「灯さん。昨日の“鏡”の件で、ひとつ整理しときましょうか」


 紗希が頷く。



「まず──『クロ』ってのは、生物じゃない。

 学術班の分類では〈負性の残響〉。

 “恐怖の記録”が漏れ出したもんだ」


「記録……?」


「そう。

 人は怖いことを忘れたがるけど、身体は全部覚えてんだ。

 それが抜け道を見つけると、黒い線になる。

 形は安定しねぇ。恐怖が借りてるだけの姿だからだ」


 レンは苦笑し、とろりとした声で続ける。


「普通は触るだけで気が削れる代物だ。

 それを“喰う”なんて、ありえねぇ。

 恭介ぐらいだ、あんな真似できるのは」


 紗希は静かにカップを置き、言葉を選ぶ。


「……レンさん。恭介先輩は、なんでも平気で食べる人じゃないんです」


「?」


「昔、一度だけ……助けられなかったことがあるって」


 空気が凪いだ。


「“ためらった。だから終わった”。

 そう言ってました。

 喰えば救えたかもしれない黒を、怖くて触れられなくて。

 結果、人が死んだって」


 レンの呼吸が止まる。


「それ以来、“恐怖に負ける”ってことだけはしないようにしてるんでしょうね。

 喰うのは、先輩にとって……たぶん“救いの形”なんです」


 影が、また半拍遅れて揺れた。



 レンの脳裏には、昨夜の声が焼き付いている。


『違ぇよ。“紗希に成りすましたクソ”を潰しただけだ』

『紗希を喰おうとするもんは全部まとめて殺す。義理とか関係ねぇ。俺の問題だ』

『……それともお前、ためらってる間に紗希が喰われてもいいってか?』


(……“ためらったら終わる”。

 あいつは……本気でそう思ってるんだ)


 レンはゆっくりと顔を上げた。


「……なぁ灯さん。

 あんたにとって、“恭介”ってのは……何なんだ?」



 紗希は一瞬だけ目を伏せ、

 次の瞬間、志藤の前で見せたものと同じ──

 張り付けたような、感情の読めない微笑を浮かべた。


「……………………兵器です」


 レンの喉がひくりと動く。


「私を苛み、喰おうとする“黒”を破壊してくれる。

 怒りも、恐怖も、全部まとめて終わらせてくれる。

 ……でも、“先輩がそうしたいから”じゃない。

 私が、そう望んでいるわけでもない。


 ただ、そういうふうに……世界が先輩を動かしているだけです」


 影が、半拍遅れて揺れた。


 レンは口を開きかけ──、しかし言葉を失ったまま。

 ただその笑顔を見つめるしかなかった。


 レンは口を開きかけ──

 逆に紗希のほうが先に問いを落とした。


「……レンさんは、レンさんで。一体何者なんですか?」


 レンの指が一瞬止まる。

 赤ランプだけが淡く明滅する。


「俺?」

 笑った声なのに、どこか“跳ね返りが遅い”。


「ただの……記録オタクっすよ。

 怪異に首突っ込みたがるタチの悪いほうのね」


「でも知りすぎてます」

 紗希は観測するように淡々と言う。


「黒の帯域も、恐怖の残響も、渦眼のことも……

 普通の人は知らない知識ばかり」


 レンは肩をすくめた。


「──事情の悪いところにいた。それだけですよ」


 それ以上は語らない“壁”が、彼の声音の奥で静かに閉じる。


(……やっぱりレンさんも、“普通じゃない”)


 紗希は内心でそっと書き記す。



 そして気づく。


 三人とも、一様に秘密を持っている。

 レンは隠す。

 恭介は多くを語らない。

 紗希は──互いに探り合う距離を、むしろ楽しんでいるのだった。


 奇妙な三角形。

 でもその歪さが、どこか心地よい。



 そんな静寂を破ったのは──


 ドガッ!! ガンッ! ガラガラガッシャーン!!!


「えっ……今の……?」

「階段から聞こえたぞ……!」


 2階への引き戸が バァンッ と開く。


「いでででで……ッ!!

 おいこの階段……昨日より段が増えてねぇか……!?」


 恭介が背中から店内へ盛大に滑り込んできた。


「先輩!?」

「恭介!!? お前何してんだよ!?」


「……紗希はともかく、レンにまで見られるとは思わなかったぜ……

 まだ視界の線が残ってんだよ……階段全部が“横向きの一本線”に見えててよ……」


 レンが吹き出す。


「いやいやいや、視界が変とか方向音痴とかは噂で聞いてたけどよ!

 灯さん! こんな足元おぼつかないヤンキーより俺を選んだ方がいいですよ!」


「うるっせぇぞレン!

 チョコみてぇな頭してるやつが人をヤンキー呼ばわりすんじゃねぇ!」


「形はチョコじゃねぇ!!」


 紗希は思わず笑ってしまう。


「ぷっ……ふ……

 二人とも朝から喧嘩しないでくださいよ……」



 壁時計が カチ、カチ と“二重の響き”で鳴った。

 紗希の影が、半拍遅れて呼吸する。


 レンのレコーダーがノイズを拾う。


「……帯域、まだ揺れてるな。完全には消えてねぇ」


「……先生の残滓、みたいなものですか?」


「いや……違う。もっと奥だ。

 向こう側の“誰か”が、まだ見てる」


 恭介は壁の奥を睨み、静かに言った。


「……見られてんなら、見返せばいいだろ」


 階段から落ちた男とは思えない低さ。


 紗希は小さく笑う。


「はい……記録します。ちゃんと」


「そうそう、前向きにいきましょう!

 灯さんは強い子なんすから、俺が保証しますよ!」


「お前は馴れ馴れしいんだよ!!」

「ちょっと馴れ馴れしくないですか!?」


 恭介と紗希の声が見事にハモる。


「えぇ!? なんで灯さんまで!?」


 三人の声が重なり、朝の〈灯〉に温度が戻る。


──だがカウンターの下で。


 紗希の影だけが、遅れて呼吸していた。


(……本当に……終わってない……)


 店の外の朝靄が静かに揺れた。


 まるで──

 〈灯〉へ近づく瞬間を、誰かが息を潜めて待っているかのように。

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