1章・エピローグ
翌朝の〈灯〉には、雨上がりの匂いと湯気が満ちていた。
紗希はカウンターでコーヒーを淹れながら、自分の影が半拍遅れて揺れるのを黙って見つめる。
(……まだ、薄い)
昨日の黒の残響が、店内の空気をわずかに歪ませていた。
マグの横には、小さなメモ帳が開きっぱなしになっている。
ページの端には昨夜の走り書きが残っていた。
――“鏡、少し遅れて動く?”
――“影の呼吸みたいなの、要確認”
――“見たものを書くと落ち着く。理由は不明”
紗希はちらとそれを見て、そっとページを閉じた。
(……まだ、まとめるには早いかもなあ)
そんなふうに自分へ言い聞かせる。
レンが静かにレコーダーを置く。
「灯さん。昨日の“鏡”の件で、ひとつ整理しときましょうか」
紗希が頷く。
◆
「まず──『クロ』ってのは、生物じゃない。
学術班の分類では〈負性の残響〉。
“恐怖の記録”が漏れ出したもんだ」
「記録……?」
「そう。
人は怖いことを忘れたがるけど、身体は全部覚えてんだ。
それが抜け道を見つけると、黒い線になる。
形は安定しねぇ。恐怖が借りてるだけの姿だからだ」
レンは苦笑し、とろりとした声で続ける。
「普通は触るだけで気が削れる代物だ。
それを“喰う”なんて、ありえねぇ。
恭介ぐらいだ、あんな真似できるのは」
紗希は静かにカップを置き、言葉を選ぶ。
「……レンさん。恭介先輩は、なんでも平気で食べる人じゃないんです」
「?」
「昔、一度だけ……助けられなかったことがあるって」
空気が凪いだ。
「“ためらった。だから終わった”。
そう言ってました。
喰えば救えたかもしれない黒を、怖くて触れられなくて。
結果、人が死んだって」
レンの呼吸が止まる。
「それ以来、“恐怖に負ける”ってことだけはしないようにしてるんでしょうね。
喰うのは、先輩にとって……たぶん“救いの形”なんです」
影が、また半拍遅れて揺れた。
◆
レンの脳裏には、昨夜の声が焼き付いている。
『違ぇよ。“紗希に成りすましたクソ”を潰しただけだ』
『紗希を喰おうとするもんは全部まとめて殺す。義理とか関係ねぇ。俺の問題だ』
『……それともお前、ためらってる間に紗希が喰われてもいいってか?』
(……“ためらったら終わる”。
あいつは……本気でそう思ってるんだ)
レンはゆっくりと顔を上げた。
「……なぁ灯さん。
あんたにとって、“恭介”ってのは……何なんだ?」
◆
紗希は一瞬だけ目を伏せ、
次の瞬間、志藤の前で見せたものと同じ──
張り付けたような、感情の読めない微笑を浮かべた。
「……………………兵器です」
レンの喉がひくりと動く。
「私を苛み、喰おうとする“黒”を破壊してくれる。
怒りも、恐怖も、全部まとめて終わらせてくれる。
……でも、“先輩がそうしたいから”じゃない。
私が、そう望んでいるわけでもない。
ただ、そういうふうに……世界が先輩を動かしているだけです」
影が、半拍遅れて揺れた。
レンは口を開きかけ──、しかし言葉を失ったまま。
ただその笑顔を見つめるしかなかった。
レンは口を開きかけ──
逆に紗希のほうが先に問いを落とした。
「……レンさんは、レンさんで。一体何者なんですか?」
レンの指が一瞬止まる。
赤ランプだけが淡く明滅する。
「俺?」
笑った声なのに、どこか“跳ね返りが遅い”。
「ただの……記録オタクっすよ。
怪異に首突っ込みたがるタチの悪いほうのね」
「でも知りすぎてます」
紗希は観測するように淡々と言う。
「黒の帯域も、恐怖の残響も、渦眼のことも……
普通の人は知らない知識ばかり」
レンは肩をすくめた。
「──事情の悪いところにいた。それだけですよ」
それ以上は語らない“壁”が、彼の声音の奥で静かに閉じる。
(……やっぱりレンさんも、“普通じゃない”)
紗希は内心でそっと書き記す。
◆
そして気づく。
三人とも、一様に秘密を持っている。
レンは隠す。
恭介は多くを語らない。
紗希は──互いに探り合う距離を、むしろ楽しんでいるのだった。
奇妙な三角形。
でもその歪さが、どこか心地よい。
◆
そんな静寂を破ったのは──
ドガッ!! ガンッ! ガラガラガッシャーン!!!
「えっ……今の……?」
「階段から聞こえたぞ……!」
2階への引き戸が バァンッ と開く。
「いでででで……ッ!!
おいこの階段……昨日より段が増えてねぇか……!?」
恭介が背中から店内へ盛大に滑り込んできた。
「先輩!?」
「恭介!!? お前何してんだよ!?」
「……紗希はともかく、レンにまで見られるとは思わなかったぜ……
まだ視界の線が残ってんだよ……階段全部が“横向きの一本線”に見えててよ……」
レンが吹き出す。
「いやいやいや、視界が変とか方向音痴とかは噂で聞いてたけどよ!
灯さん! こんな足元おぼつかないヤンキーより俺を選んだ方がいいですよ!」
「うるっせぇぞレン!
チョコみてぇな頭してるやつが人をヤンキー呼ばわりすんじゃねぇ!」
「形はチョコじゃねぇ!!」
紗希は思わず笑ってしまう。
「ぷっ……ふ……
二人とも朝から喧嘩しないでくださいよ……」
◆
壁時計が カチ、カチ と“二重の響き”で鳴った。
紗希の影が、半拍遅れて呼吸する。
レンのレコーダーがノイズを拾う。
「……帯域、まだ揺れてるな。完全には消えてねぇ」
「……先生の残滓、みたいなものですか?」
「いや……違う。もっと奥だ。
向こう側の“誰か”が、まだ見てる」
恭介は壁の奥を睨み、静かに言った。
「……見られてんなら、見返せばいいだろ」
階段から落ちた男とは思えない低さ。
紗希は小さく笑う。
「はい……記録します。ちゃんと」
「そうそう、前向きにいきましょう!
灯さんは強い子なんすから、俺が保証しますよ!」
「お前は馴れ馴れしいんだよ!!」
「ちょっと馴れ馴れしくないですか!?」
恭介と紗希の声が見事にハモる。
「えぇ!? なんで灯さんまで!?」
三人の声が重なり、朝の〈灯〉に温度が戻る。
──だがカウンターの下で。
紗希の影だけが、遅れて呼吸していた。
(……本当に……終わってない……)
店の外の朝靄が静かに揺れた。
まるで──
〈灯〉へ近づく瞬間を、誰かが息を潜めて待っているかのように。




