1話
雨音が屋根を叩き続けている。
水滴が窓を伝い、喫茶店〈灯〉の明かりがぼやけて揺れた。
この店は雨の日がよく似合う。
理由は誰も知らないが、紗希は薄々分かっていた。
(……黒が集まりやすいから)
空気が重い日は、視界の隅がほんの少しだけ“揺れる”。
自分には見えない。でも――そこに“黒い線”が流れているのを、皮膚で感じる。
カウンターを拭いていると、扉のベルが鳴った。
「すみません……雨宿り……」
びしょ濡れの青年が立っていた。
このあと名乗る――相馬廉。
黒髪を後ろで束ね、肩に「斧を入れたような長い鞘」を背負っている。
紗希は最初、それを傘の袋か何かだと思った。
「タオルどうぞ。寒いですよね」
「助かります……。ああ、灯さんでいいんですよね?」
「えっ、私のこと……?」
「いや、名札があったもんで」
(……嘘。今、“声の揺れ”を見た)
その一瞬だけ、彼の視線が紗希の喉元をかすめた。
見る者だけが分かる“揺れ”。
それは黒を視認する者――渦眼の反応。
渦眼。
黒に触れた者の瞳に宿る、青白い渦の光。
ブラックベインやクロの流れを“線”として捉える特異体質。
(この人……黒が見えてる)
考えている間に、廉のポケットから小さな紙片が落ちた。
紗希が拾う。
「写真……?」
雨に滲んだ女性の写真。
大人びた瞳、やわらかな表情。
「……すみません。探している人がいて……」
廉はかすかに顔を伏せた。
「座ってください。温かいもの淹れます」
「お願いします」
ブレンドを淹れながら紗希は気づいた。
(……この人、怖がってない)
むしろ、“ここに来た理由を持っている顔”だった。
「灯さーん、客か?」
低い声が奥から響く。
階段を降りてきたのは――常盤恭介。
黒い犬のようなボサボサ髪。
眠たげな三白眼に、どこか薄い青光が混じって見える。
彼は火のついていない煙草を咥え、獣のように空気の匂いだけを嗅いだ。
「……黒い匂いすんな」
「常盤先輩。営業中です」
「分かってるっての」
廉は恭介を見ると、わずかに目を細めた。
「あなた……“黒”を喰ったこと、ありますよね?」
その言葉で恭介の動きが止まる。
「……テメェ、何者だ」
店内の空気が一段深く沈んだ。
「俺、相馬廉。黒を“伐る”側の人間っす。
さっきから灯さんから変な揺れ方がしてて……気になって」
紗希は条件反射で胸のあたりを押さえる。
(やっぱり……私の“体質”、気づかれてる)
廉の目は恐怖よりも“観察の光”を宿していた。
「灯さんの揺れは、本人のせいじゃないですよ」
「え?」
「この店そのものが“たまり場”なんです。
黒が流れ込みやすい地脈の上にある。
灯さんみたいに“観測線を揺らしやすい人”がいると、余計寄ってくる」
(……知ってはいたけど。誰かに言われると……)
胸の奥がひやりとした。
恭介は廉に一歩近寄る。
「勘違いすんなよ。灯は“喰われやすい”だけだ。悪くねぇ」
「いや悪いとかじゃなく……観測しやすいんですよ、灯さんは」
「観測……?」
紗希がつぶやく。
「“見てしまう”ってことです。
黒は、見られると揺れる。
灯さんは“揺らしやすい”。」
恭介が顔をしかめた。
「お前は難しく言いすぎ」
「これ以上簡単に言えないんすよ」
二人の会話はまったく噛み合っていなかった。
(でも分かる。私は“見てしまう側”だって)
恭介は紗希の方を見て、いつもの乱暴な口調で言った。
「灯。気にすんな。黒は俺が喰う」
「……はい。ありがとうございます」
廉がふと紗希を見つめる。
「灯さん、怖くないんですか?」
「怖いですよ」
即答してから、紗希は続けた。
「でも……観察するの、嫌いじゃないです」
「観察……?」
「はい。怖いものも、見ていると少しだけ形が分かるので」
廉は思わず感嘆の息を漏らした。
「……いいね。そういう子、好きだな」
その瞬間――
「は?」
「え?」
恭介と紗希の声が重なる。
「ち、違う違う!“観測者タイプ”って意味っす!」
「言い方考えた方がいいですよ」
「紗希に変なこと言うな」
左右から同時に突っ込まれ、廉は思わず肩をすくめた。
「なんで二人ともそんな連携いいんすか……」
気まずい沈黙が一拍。
そのとき――。
紗希の影が、かすかに“揺れた”。
(……黒が集まってる)
店の奥で、一瞬だけ光が吸い込まれたように消える。
「……きます」
紗希の声は自然に落ちた。
恭介は口の端だけで笑う。
「だろうな。灯の声、揺れてたし」
「……え、私、揺れてました?」
「渦眼には見える」
廉がレコーダーに手を伸ばす。
「外だ。黒の“音”が増えてる」
紗希は深く息を吸った。
(逃げたくない。見たままで終わらせたくない)
「常盤先輩……行きましょう」
「ああ」
三人は雨音の残る夜の街へ踏み出した。
路地裏の暗がりで、黒い線が静かに蠢いていた。




