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16話

 世界の色が、ゆっくりと戻ってきた。


 白い閃光が弾け飛び、線だけだった視界の構造がほどける。

 音が戻り、重力が戻り、息の圧が胸を押し返す。


 最初に聞こえたのは――

 咳き込む紗希の声だった。


「……っ、は……っ……っ……!」


 紗希の身体が細かく震え、胸が上下している。

 喉を締め付けていた黒い線の束は完全に砕け散り、床に黒い粒として落ちていた。


 恭介は片膝をつきながら、荒い呼吸を繰り返す。

 まだ世界の一部が線に見える。

 視界の端がゆらゆらと軋んでいる。


 背中の“推進の名残”がじんじんと痺れ、肩甲骨の奥に残っていた。


(……やべぇな……

 使い方はわかった気がするけどよ。

 反動がデカすぎんだろ……)


 息を吸うたび、背骨の奥で冷たいものと熱いものが擦れ合う。

 さっきまで自分の身体だった輪郭が、まだ完全には戻ってきていない感覚だ。


 近くでレンが息を呑んだ気配がした。


「……おい、紗希ちゃん! 生きてるな!?」


 レンは紗希の肩に手を添え、呼吸のリズムを確認しながら顔を覗き込む。

 紗希はかろうじて頷いた。汗と涙で頬が濡れている。


「……だいじょうぶ……です……。

 さっき……先輩の……光が……見えました……」


 その言葉に、恭介の心が一瞬だけ静まる。


 紗希は、線の世界の“灯”を見ていたのか。


(……見えてんなら……もうちょい早く言えよ……)


 毒づきかけて、やめた。

 言葉にしたら、たぶん声が震れる。


 代わりに、喉の奥で乾いた笑いだけが小さく揺れた。


 だがその横で、レンは恭介とは違う方向で表情を険しくしていた。


「……おい。

 恭介。」


 怒りをあらわにした声。

 名前を呼び捨てにされ、恭介は片目だけで睨み返す。


「何だよ。」


「さっきの話、俺はまだ納得してねえんだよ」


 レンの掌が震えていた。

 握りしめた斧が、軋む。

 恐怖ではなく、怒りで。


「さっき紗希ちゃんの顔をした怪異、平然と殺したよな?

 ……理由の話なんかしてねえんだよ。

 迷わず、無表情で、機械みてぇにやらかしたのが気に入らねえっつってんだ、俺は」


 恭介は、無言のまま立ち上がる。

 足元がふらつく。

 世界の輪郭がまだ薄皮一枚ぶん、線に傾いている。


 その表情は読みづらい。

 渦眼の奥で、線の余韻がまだ微かに渦を巻いているように見えた。


 紗希が小さく首を振る。


「廉さん……違います……。

 恭介先輩は、私を守るために……」


「紗希ちゃんが庇うのはわかってる。俺より付き合いも長いんだろうよ。

 でもな」


 レンは一歩踏み込み、恭介の正面に立つ。

 視線をそらさせない距離だ。


「紗希ちゃんの顔を目の前で握り潰すような奴は……

 このままだと“人間”じゃいられなくなるぞ。

 俺が言いたいのは、それだけだ。」


 恭介は、ほんの一瞬だけ眉をひそめた。

 殴り返すでも、嘲笑うでもなく。


 代わりに、ひどく静かで乾いた言葉を落とした。


「……違ぇよ。」


「何が違うって言うんだ?」


「お前らの顔をした“何か”を壊すことと……

 お前ら自身に触ることは、別だって話だ。」


 その声音は、怒りでも冷淡でもなかった。

 ただ、事実を突き付けているように淡々としていた。


 紗希が、少し息を飲む。


 レンは、悔しそうに唇を噛み――

 だが、反論できなかった。


 恭介は言葉を続ける。


「俺が壊したのは“顔を使った怪異”だ。

 紗希の顔に似てた? あぁそうだよ、知るか。

 だけどな、あれは“紗希”じゃねぇ。」


 黒い飛沫で汚れた自分の手のひらを、ちらりと見やる。


「迷うべきものと、迷ってるようじゃ話にならねえもんってのが、世の中にはあんだよ」


 レンは、しばらく黙っていた。

 呼吸の乱れがわずかに落ち着く。


「……そうかよ。」


 その一言で、この場の空気が少しだけ弛んだ。


 紗希が恭介に弱々しく視線を向ける。


「先輩……ありがとうございます……。

 ほんと……死ぬかと思いました……」


「……お前が死ぬわけねぇだろ。

 俺が“止めた”んだしよ。」


 恭介は、軽口のように言ったが――足元はまだ重かった。


 線の視界の反動が抜けきっていない。


(くそ、強がっては見たものの……

 まだ世界がゆれてやがる……)


 床の線と壁の線が、ところどころだけ濃く見える。

 黒の溜まり場と、体温のある場所――その差だけが異様に鮮明だ。


 そのとき――


 壁の向こう側から、“軋むような音”がした。


 志藤が崩れ落ちたはずの方向だ。

 進路指導室の壁を隔てて、その奥で“何か”がまだ息をしている。


 黒い線ではなく、

 “影の脈動”だけが、壁の裏でゆっくりとうねっている。


 恭介は、そちらへ顔を向けた。


「……まだ残ってやがるのかよ」


 レンも紗希も、同時に気づく。


 だが、恭介はすぐには動かなかった。


 理由は一つ――

 紗希の呼吸がまだ安定していないからだ。


 紗希は胸元を押さえ、苦しげに俯いている。


「……先輩……ごめ……っ……」


「喋んな。

 落ち着くまで吸って吐け」


 恭介はゆっくり紗希の肩に手を添えた。

 線の視界の名残がまだ僅かに残っているのか、

 紗希だけは“橙色の灯”と“体温の揺れ”がはっきり見える。


(……こいつだけは……見失わねぇように……)


 自然と、そんな言葉が胸の内側に浮かんだ。


 壁の奥の影が、また脈打つ。


 壁の向こうにある“それ”は、呼吸していた。


 心臓でも肺でもない。

 “揺れた瞬間の息”だけを集めたような、歪な脈動。


 レンが壁際まで数歩近づき、眉をひそめる。


「……志藤か?

 いや、違ぇな。あいつ、もう形保ててねぇはずだろ……」


 恭介も目を細めた。


 線の視界はほとんど解除されているが、完全には戻っていない。

 世界の輪郭がゆっくり波打ち、黒の潜む場所だけが“濃い影”のように浮き上がって見える。


(……あそこだけ、妙に熱っぽい……

 人の息じゃねぇ……)


 紗希の腕がかすかに震えた。


「……あの揺れ……昨日の鏡の部屋と、同じ……

 “助けて”が止まった瞬間の……息……」


 その声で、影がびくりと反応したように見えた。


 恭介が短く舌打ちする。


「……感じ取っていやがる。

 “息の主”を……呼び返す気か?」


「いや……多分、違います」


 紗希が、壁に目を向けたまま言った。


「呼んでいるんじゃなくて……

 “呼ばれてる”んだと思います。あの中の残滓は……

 先生じゃなく、“先生の欲しかったもの”の方……」


「……残った欲望の核、ってことかよ」


 レンが低く唸る。


「最悪だな……心臓でも脳でもない、呼吸だけの怨念ってか」


 言葉を重ねた瞬間、影の脈動が一段と強くなった気がした。


 壁紙の模様が微かに歪む。

 そこだけ、世界の厚みが薄くなっていく。


 壁の中央が、ゆっくりと“窪んだ”。


 ひび割れではない。

 黒でもない。

 ただ、そこだけ世界の厚みが一枚だけ薄くなったように見える。


 恭介は反射的に紗希の前へ立った。


「……下がってろ」


 レンも構える。

 影の斧〈蜃〉が、低く唸るように形を取る。


 しかし紗希は、その腕をそっと引いた。


「待ってください。

 ……あれ、“入口”じゃないです」


「入口じゃなかったら何だよ」


 紗希は、まばたきを一度してから答える。


「“吐き出し口”です。

 ……たぶん、向こう側から“押し返されてる”。」


 恭介とレンが同時に黙る。


 世界の厚みが押し返されている。

 それはつまり――

 向こうに“何か”がいる。


 黒ではない。

 怪異でもない。

 もっと別の、圧の質。


(……誰だ……)


 恭介の背中が、また熱を帯びる。

 線視界の余韻が、心臓の鼓動と同期するようにちらついた。


(……この手の感覚……

 あの地下で裂け目を見た時と、似てやがる……)


 そして――

 “窪み”から、白い息が漏れた。


 黒ではない。

 白い。

 まるで冷たい風のように。


(……違う。これは――)


 紗希が呟く。


「……ずっと……前から……

 こっちを、見てた……気がします……」


 その瞬間、“窪み”がぱきりと音を立てて消えた。

 世界が元の厚みに戻る。


 だが――その刹那だけ確かに、**“誰かの視線”**がそこにあった。


 教室でも廊下でもない、

 もっと遠いどこかから伸びてきたような、静かな目。


 恭介は、奥歯を噛んだ。


(……気のせいじゃねぇ。

 あれは……“向こう”の誰かの気配だ。

 黒とは違う……もっと深い層の……)


 皮膚の裏側がざわつく。

 喰う対象としての黒ではなく、こちらを“観測する側”の何か。


 レンが息をつき、斧を下ろした。


「……ひとまず、“穴”にならなくてよかった……」


 紗希も胸に手を当て、呼吸を整える。


「……でも……

 今日のことが全部終わったわけじゃ、ないですよね」


 その小さな声の奥に、かすかな震えと、かすかな興奮が混ざっている。

 恭介はその温度を、線視界の名残で正確に感じ取った。


 紗希の体温だけは、橙色の灯のように明るい。


(……こいつだけは……絶対に……)


 彼女が大事だから、などという安っぽい文句ではなく。


 線だけで構成された自分の異常な視界の中で、

 彼女の“熱”は恭介のアンカーとして機能している。

 見失えば、恭介は何も知覚できなくなる可能性がある。


 自分の中では麻痺したはずだと思っていた、彼の根源的な感情。


 ――それは、“恐怖”と呼ばれるものだった。


 無意識に、拳が握られる。


 するとレンが肩を叩いてきた。


「おい恭介。

 さっきの“壁”……お前も、感じたよな?」


「……あぁ」


「黒じゃねぇよな。

 あれ、“異界”側からの呼吸だ。」


 紗希が目を見開く。


「……異界……側……?」


「ああ。

 “向こうから圧が来てる”ってことはよ……

 誰かが、あっちでこっちを覗いてるって話だ。

 もしくは――」


 レンは、一度言葉を区切り、

 恭介の顔を見る。


「お前を迎えに来てる。

 そんな感じもしねぇか?」


 廊下の空気が、ぴたりと静まる。


 蛍光灯の唸り声だけが、遠くでかすかに鳴っていた。


 恭介は眉をひそめ、目をそらさず答える。


「……知らねぇよ、そんなもん。

 けど……“呼ばれてる”気は、ちょっとすんだよな……」


 紗希が無意識に恭介の袖を掴む。

 その手は少し震えていた。


「……恭介先輩……、まさか、行かないですよね……?」


 恭介は、わざとそっぽを向いて言う。


「行くわけねぇだろ。

 まだ仕事残ってんだよ、ここで。」


 その声はぶっきらぼうなのに、

 紗希は小さく笑ってしまった。


 肺の奥に残っていた恐怖の冷たさが、少しだけ溶ける。


 影の脈動は完全に消えた。


 だが、この廊下に残った“薄さ”は、消えていない。


 床と壁のあいだ。

 窓枠とガラスの境目。

 そこかしこに、紙一枚ぶんだけ世界が薄くなったような違和感が残っている。


 ここがもう“安全地帯ではない”と、三人全員が理解していた。


 その静けさの中で、恭介の渦眼が細く揺れる。


(……次に開く時は……

 “隙間”じゃ済まねぇんだろうな……)


 それは確信ではなく、

 野犬が遠くの嵐の匂いを嗅ぎ取るみたいな、獣の勘だった。

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