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15話

 世界から、色が落ちた。


 最初に消えたのは音だった。

 次に、空気の重さ。

 最後に――輪郭以外のすべてが、すうっと剝がれ落ちる。


 残ったのは、線だけだ。


 床も、壁も、天井も。

 進路指導室の机も、椅子も。

 志藤の白衣でさえ、細いペンで引いたような“図面”になっていた。


(……始まったか)


 黒い海が押し寄せた瞬間、世界が飽和した。

 その飽和が限界を超えると、逆に“単純化”し、

 線だけを残した世界に裏返る――恭介の渦眼が察した変化だった。


 黒い海の中心に立っていた志藤は、

 今はまるで、最初から図面の“欠陥”だったように見える。


(……なんだ、これ)


 恭介は、自分の息の音が聞こえないことに気づく。

 胸は上下しているはずなのに、その感覚がない。


 代わりに、視界の中で無数の線がかすかに震えていた。


 床と壁の境目。

 蛍光灯のフレーム。

 ドアの枠。


 それぞれの線が、誰かの“呼吸”に合わせるように、別々のリズムで揺れている。


 さっきまで海のように満ちていた黒は、塗りつぶしをやめ、

 細い黒線の束になって廊下一面を覆っていた。


 そのすき間――

 点が浮いている。


 白とも黒ともつかない、小さな“点”。

 線と線の交差する場所にだけ、びっしり貼りついていた。


(……“止まった呼吸”の残りかす、かよ)


 言語化した瞬間、自分で少し笑いそうになる。

 そんな理屈っぽい推測、普段の自分ならしねぇだろ、と。


 視界の端で、人の形をした線の束が動いた。


 レンだ。


 輪郭こそ人間だが、中身が空洞だ。

 服の線、髪の線、そしてレコーダーの輪郭線だけで成り立っている。


 口が何か叫んでいる。

 だが音はない。


 レコーダーからだけ、薄い光の線が天井へ向かって揺れながら伸びていた。


 祈りの線みたいに。


 ――そのすぐ先。


 紗希。


 恭介は息を呑んだかどうかすら分からなかった。

 息の音が消えているからだ。


 そこだけ、世界が“温度”を持っていた。


 線で描かれた紗希の輪郭。

 制服の線、髪の線、指先の線。


 その内側に、橙色の灯がふうっと灯っている。

 明確な形はないが、確かに“熱”が息づいているのが分かった。


 その橙光には、ほんのかすかに――

 さきほど紗希が観測し、引き寄せた“雛の恐怖”の残滓が混じっている気配があった。

 恐怖を取り込み、即座に観測で上書きして“排除”した痕跡。

 紗希の内面が、揺れずに燃えている。


(……いた)


 場所を認識した瞬間、恭介の“現在地”が書き換わる。


 黒い線の束が、紗希の腰から胸にかけて絡みついていた。

 橙色は締め付けのたび弱く揺れ、

 胸の中心――影の心臓だけ、濃い光粒が明滅を繰り返す。


 それが、一度だけ強く瞬いて――ふっと沈んだ。


(……やめろ)


 声は音にならない。

 代わりに、恭介の輪郭線が震え、床の線へ落ちて広がる。


 黒線がその震えに反応し、ざわついた。


 志藤の位置は、驚くほど明確だった。


 進路指導室の中央。

 椅子と机の線が交差する一点――


 そこに、異様に太い黒い線が一本、志藤の胸を貫いている。


 周囲がどれだけ揺れても、その線だけは揺るがない。

 世界の“背骨”みたいな、不気味な安定感。


 それは、志藤が一年間かけて“集めた声”の集積、

 悲鳴と恐怖の記録が束になって黒化した、“核線”だった。


(核……ってやつか)


 志藤の輪郭を見つめる。


 白衣の線。

 眼鏡の線。

 顔の輪郭。


 どれも色を失っているのに、胸だけが“焼け焦げたような黒”だ。


 そこから伸びる細線は校舎中へ散り、

 廊下、階段、教室、体育館――

 悲鳴や涙の落ちたすべての地点から“止まった呼吸”を吸い上げていた。


(あれまとめて折りゃ――)


 その瞬間、橙色の灯が弱った。


 紗希の胸の光点が、ほとんど見えない薄さで震え――

 消えかける。


(――おい)


 床が揺れた。

 線世界全体が震えた。


 レンが膝をつく。

 それでもレコーダーには、かすかな帯域の揺れが続いている。


 黒い線は紗希の息を奪い続けていた。


 そのとき――

 恭介の中で、何かが切れた。


(……あ?)


 怒りや焦りという単語では足りない。

 もっと原始的だ。

 “縄張りを荒らされた獣”の反応に近かった。


(喰わせねぇって言ってんだろォが……)


 世界が、さらに単純化する。


 線だらけの景色から、不要な線がそぎ落ちていく。


 残ったのは――

 橙色の灯。

 黒い核。

 そして、それらを結ぶ“最短距離の線”だけ。


 床も壁も関係ない。


 行くべき地点と、折るべき核だけがある。


 背骨の奥で、冷たい何かが裏返る。


 肩甲骨の内側から、白い衝撃が生まれ――

 滲み出る。


(……ああ、そうかよ)


 ずっと前から自分の中で蠢いていたものの正体が、ようやく形を持った。


 鏡の部屋で。

 点滴の夜で。

 〈灯〉の裏路地で。


 殴りつけ、喰い破り、それでもまだ足りなかった感覚。


 超えたい。

 壊したい。

 その先を見たい。


 殴るためじゃない。

 喰うためだけでもない。


(“突破するための線”なんだよ、これは)


 恭介の身体の輪郭線がほどけ、

 腕と肩の線が背中へ引き伸ばされ――

 黒い、細い羽根のような推進器官に変わる。


 羽ばたかない。

 ただ、後方へ“推進”だけを噴き出す翼。


 線が、核へ向かう。


 だが真っ直ぐには行けない。

 推進は短く、一度に進めるのは五メートルほど。


 しかし、点がある。

 線世界の“足場”が。


(点と点を……結ぶ)


 黒い点。

 止まった呼吸。

 恐怖の残滓。


 そこへ短い線を撃ち込めば――


 ドン、と背中を押される。


 恭介は一気に点まで“撃ち出される”。


 到達。

 また線を引く。

 撃ち出される。


 雷に似ていた。

 真っ直ぐではなく、空気中の“選んだ点”へ折れ曲がりながら進む稲妻。


 意識は足の感覚を失い、

 ただ“どの点を選ぶか”だけが世界を決めた。


 志藤の胸の太い黒線が近づく。


 悲鳴の点。

 諦めの点。

 笑おうとして潰れた点。


 全部踏み台にする。


 一つ、貫く。

 二つ、貫く。

 三つ、四つ。


 砕けた点が霧になり消える。


 それでも灯は薄い。

 紗希の胸の光点が弱々しい。


(……間に合う)


 根拠はないが、確信だった。


 恭介の線が、レンのそばをかすめる。


 レンは光を見て何かを叫び、

 レコーダーは祈りのような波形を放ち続けた。


(録っとけよ、レン……俺がどこまで行けるか、残しとけ)


 志藤の核が目前に迫る。


 世界の図面を綴じる“背表紙”のような、最大の線。


 背中の翼線が最大まで引き絞られる。


 世界が静まる。

 点も線も、一瞬だけ凍りつく。


(ようやく分かったぜ……)


 冷静な声が、頭に響く。


(何をすればいいか。どう使うか。

 今度こそ――)


 恭介は拳を突き出した。


 黒い翼が爆ぜ、推進が噴き出す。


 すべての点と線が後ろへ吹き飛び――

 志藤の核だけが、前へ引き寄せられる。


 ――世界を貫く直前で、視界が白く弾けた。

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