14話(後編)
レコーダーの赤いランプが、ただひとつ脈打っていた。
紗希の“憑依芝居”は終わり、雛の声も消えた。
しかし――志藤だけが、まだ終われていなかった。
彼の胸が、不自然に上下する。
“観測の拍”が狂い、呼吸が反転しはじめている。
「……ひ、な……ひな……っ……どこだ……」
志藤の声は、娘を呼ぶ音でありながら、
娘の“息”を探す捕食者の声だった。
部屋の空気が、濁った水みたいに重く沈む。
(来る……ここから“顔の海”だ)
紗希が直感し、恭介も拳を握りしめる。
その直後――
志藤の白衣の背中が、内側から“はじけた”。
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白衣の縫い目から黒い液体がにじむ。
汗の染みのように小さかった染みが、呼吸のたび膨らみ――形を持ち始めた。
肩甲骨が不自然に盛り上がる。
骨ではない。
堆積した“息”の塊が皮膚を押し破ろうとしている。
黒が背中から溢れ、空中で固まり――
凹んだ“顔”の形が生まれる。
泣き出す直前の吸気。
絶望の吐息。
助けを求める前の、震えた呼吸。
『――いやだいやだいやだいやだッ!!』
廉が〈蜃〉を構える。
「……これ、本当に斬っていいやつなのか……!」
迷いが腕を止める。
斧は振れる。
だが、“斬ったあとに残る声の空洞”が脳裏を刺す。
――そのとき。
横から拳が突き抜けた。
恭介だ。
迷いゼロで、“凹み”の中心を殴り砕く。
黒と白の液が噴き上がる。
『やめて、やめ――』
声は千切れた。
恭介はもう次の“顔”へ拳を叩き込んでいる。
返り血のような黒を浴びながら、口元だけが獣のように笑った。
「うるせぇ。
紗希に触れようとすんな」
「喰われて黙れ」
割れるたび、悲鳴が廊下にこだまする。
「常盤さん!! 本当にそれ――!」
廉が叫んだ瞬間――
黒の海が大きく盛り上がった。
他よりも“人間の温度”が残る凹みが顔をつくる。
――紗希の顔。
涙をこらえる直前の息の形。
廉の足が震えた。
「……やめろよ……そんなの……っ」
〈蜃〉が完全に止まる。
これは斬れない。斬った瞬間、“紗希の声”を失う錯覚すら走る。
その横を、恭介の手が無言で通り抜けた。
次の瞬間、紗希の顔を模した“それ”を、思い切り拳で貫いた。
文字通り目玉が飛び出るほどの衝撃で。
『――――ッ!!』
聞き覚えのある声が断末魔をあげる。
恭介は、無言のまま。
流れるように、作業的に。
ボロボロになった顔面を掴み、胸の前へ引き上げ、握り潰す。
形だけの偽物が、湿った音を立てながら砕け散った。
「テメェ……」
廉が震える声で怒鳴る。
「それ……紗希ちゃんの……顔だったんだぞ……!
そのまま化け物になりてぇのか……!」
恭介は怒りも笑いもせず、ただ静かに言う。
「違ぇよ。
“紗希に成りすましたクソ”を潰しただけだ」
黒に濡れた犬歯が白く光る。
「紗希を喰おうとするもんは全部まとめて殺す。
義理とか関係ねぇ。俺の問題だ」
廉は息を呑む。
「……それともお前、ためらってる間に紗希が喰われてもいいってか?」
◆
(うわあ。……こわ……)
なのに、
(……かっこいい……)
心臓ではなく、影の胸が大きく揺れた。
守られた、という感覚が、紗希のどこかを甘く痺れさせる。
(……書きたい……これ全部)
黒い海。
無数の“顔”。
音を喰う恭介。
震えるレン。
渦眼の光。
(……息の断面……全部、物語になる……)
◆
黒の海は止まらない。
天井、床、窓の影――凹みが次々と湧く。
廉は海そのものを斬ろうと〈蜃〉を振るが、刃は水底のように鈍い。
「……重すぎる! 本物の呼吸の塊すぎて……!」
「紗希!」
恭介が叫ぶ。
黒が腰まで迫る。
(……壁だ)
恭介の奥歯が軋む。
そのとき、紗希が振り返り――
挑発にも祈りにも聞こえる声で言った。
「ね、恭介先輩。
“超えられない壁”って、あるんですかね……」
恭介の渦眼がぐっと収縮する。
黒の津波が三人を呑み込もうとした。
照明が落ち、夕焼けが黒に塗りつぶされる。
世界は線だけを残して暗転する。
その中心で、
恭介の渦眼が青白く渦を巻いた。




