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14話(中編)

 三人は階段を下り、

 進路指導室の前に立った。


 ここだけ、空気が違う。


 廊下は静かだ。

 けれど進路指導室の扉の前だけ――

 息が詰まるほど“重い”。


 一歩近づくだけで、

 靴底と床のあいだに見えない膜が貼りつく。


 紗希は胸に手を当てた。


(……影の胸が、半拍遅れてる……

 ここ、やっぱり“積もってる”)


 廉がレコーダーを掲げる。


「波形……異常ですね。

 帯域の厚みが桁違いっす。

 時間の断面が溜まりすぎてる」


(“観測の席”……先生が、ずっと座ってきた場所)


 恭介が鼻で笑う。


「窒息部屋ってやつか」


 紗希は小さく息を整え、ノブに手をかけた。


「行きましょっか、お二人とも」



 扉が閉まると同時に、空気の密度が変わった。


 進路指導室の壁は薄いのに、音だけが落ちていく。

 部屋の真ん中、机に置かれた小さなレコーダー。

 志藤はその前に腰かけ、指先で“とん、とん”と、規則正しい拍を刻んでいた。


(昨日の鏡と同じ……あれは心臓じゃない、“観測の拍”)


 紗希は扉の後ろで小さく息を整え、笑顔のまま歩み出た。


「こんばんは、志藤先生」


 志藤はゆるやかに顔を上げる。

 だが、返事が来るまでの“間”が妙に長い。


「…………ああ、灯さん。来て、くれたんだね」


 声の温度は普通なのに、応答が遅い。

 返事をする前に、どこかへ“確認”しているような。


 廉が小さく眉をひそめた。


「先生……今の“間”、なんか変すよ」


「返事が遅れるんです、先生」

 紗希がすっと言葉を重ねる。


「“どこかに確認してから返している”みたいに。

 ……誰に、ですか?」


 空気が凍った。


 志藤の肩が、わずかに震える。


 恭介は片眉を上げ、舌打ちしながら志藤を睨んだ。


「何隠してんだよ。昨日からずっと、返答がズレてんだよ」


 その声音――怒鳴り声でも威圧でもないのに、

 妙に“追い詰める側”の響きを持っていた。


 志藤は一瞬、怯えたように目を伏せる。


(……あ、これか)


 紗希は恭介へちらりと視線を向け、小さく笑む。


「恭介先輩、今の……ちょっと“悪役”っぽかったですよ」


「おい人聞き悪ぃな! 普通に質問しただけだろ!」


「あはは。“逃げる犯人を追い詰める悪役”みたいでした」


「それ悪役じゃなくて追っ手だろ……

 ……ってか、お前の方がよっぽど悪女じゃねえか」


(……ったく。女狐め……)


 恭介は内心で悪態をつきながら、どこか楽しげでもあった。


 紗希はくすりと笑い、そのまま志藤へ向き直る。


「昨日、先生がおっしゃってた“恐怖の揺れ”の話……覚えてます?」


「……もちろんだよ。観測の基本だ」

 志藤は答える。だがまた、ワンテンポ遅れている。


「恐怖している人間は、息が揺れる。

 揺れ方には個性があって、その瞬間を観測すれば“記録”になる……でしたよね」


「そうだ。だから私は――」


「じゃあ、昨日の私は?」


 志藤は目を細めた。

 笑みは形を保ったまま、温度だけが下がる。


「……揺れて、いなかった」


 紗希の影が一瞬だけ沈んだ。


「……え?」


「君は“怖がっているふり”をしていた。

 しかし息が揺れない。

 あれは……恐怖に慣れた人間の呼吸だ」


 指が空をなぞる。

 まるで目に見えない波形をなぞるように。


「怒りが染みついた、焼けた息の匂いがした」


 紗希の笑顔が、そのまま凍りつく。


 沈黙。

 部屋の圧力がひとつ上がる。


「子供の頃からだろう?」

 志藤の声が乾いた。


「寝ていても、食事をしていても、学校でも……

 黒いものが、君だけを覗き込んだ。

 喉の奥を焼くような恐怖。

 誰にも分かってもらえず、それが怒りになって、身体に染みついた」


 紗希の瞳が細くなる。

 笑顔は崩れていないのに、“色”だけが抜け落ちた。


「……そんなこと、言われなくても分かってますよ」


 志藤の目が揺れる。


「気味が悪くて……眠れない日もあって。

 でも誰も気づかなくて。

 だから、怒る“癖”がついただけです」


 声は穏やか。

 なのに、心の奥で燻る火種のような静かな怒り。


「私は、“あれら”が嫌いなんですよ。

 クロも、ブラックベインの線も。

 それを覗き込んで喜ぶ“観測者”も」


 最後の一言に、わずかな棘が混ざる。


 志藤は、はっきりと後ずさった。


「……灯さん……君は……」


 紗希が一歩詰める。影が床に濃く滲む。


「先生、“好きなんですよね”」

「な、にを……」


「“怖がっている声”が。

 “もう助からないって悟った瞬間”の息の揺れが」


 志藤の喉がひくりと動き、

 視線が胸ポケットへ引き寄せられる。


 そこに、いつも入れている小さなスマホがある。


(……やっぱり)


 紗希は、影を踏みしめた。



 次の瞬間――


 志藤の胸ポケットのスマホが、勝手に再生を始めた。


 画面は暗い。

 再生ボタンは押されていない。


 それでも、かすれた“子供の息”だけが部屋に溢れた。


『……おとう、さん……っ』


「なっ……!?」


 部屋中に浮遊していた黒い息が、

 まるで波形に引き寄せられるように紗希の足元へ集まり始める。


 黒が影へと落ち、

 じわり、と喉元まで滲み上がっていく。


(……来た)


 紗希は笑顔を崩さず、そっと目を閉じる。


 黒は首筋の奥、

 あの夜に噛みつかれた歯型の痕をなぞるように這い上がり――


 喉の裏側へ、沈んだ。


『……おとう、さん……』


 紗希の口が、他人の声を零した。


 幼い女の子の声。

 この学校のどこにもいないはずの、失われた呼吸。


 廉の背筋が粟立つ。


「……こ、これ……ほんとに……」


 志藤の瞳孔が開く。


「……あ……灯さん、じゃ……ない……

 ひな……なのか……?」


(“ひな”……志藤雛。

 やっぱり、“娘さんの最期の息”を、この人は手放せなかった)


 紗希の意識は、静かだった。

 声帯を一瞬乗っ取られても、飲み込まれはしない。


(ごめんね。

 ちょっとだけ“借ります”から)


 黒い残響を、観測の方へ上書きしていく。


『こわいよ……またしんじゃう……』

『おとうさん、たすけて……』


 紗希の喉を震わせながら、

 雛の“死に際の息”が繰り返される。


 志藤の震える手が近づく。

 しかし、その目は紗希ではなく――

 胸ポケットのスマホに吸い寄せられていた。


 紗希は、かすかに首を傾げる。


「先生。

 本当に“娘さん”を見てますか?」


「ち、違う……違うんだ……!」

 志藤の声は涙声だ。だが、視線はスマホから離れない。



 恭介が、床を蹴って歩き出した。


 黒い気配が、彼の足元でざわつく。


「紗希、それもう十分だろ」

 短く言う。


「その黒……喰っちまうぞ」


『やだ……こわい……おとうさん、たすけて……』


 紗希の喉から零れる雛の声。

 志藤の顔が歪む。


「やめろォ!! 娘に触るな!!!」


 恭介は肩を竦めるように笑った。


「人の事情なんざ知らねぇよ。

 “何か背負ってんの”なんざ誰でも同じだろ。

 特別ぶったツラすんな、観測者」


 そして、紗希の腕を乱暴に掴み、

 白い犬歯を首筋へと寄せていく。


 廉が叫んだ。


「待て、恭介!! 本気かよ、それ……子供だぞ!!」


 飛び込む廉。


 次の瞬間――


「邪魔だ、どけ」


 乾いた音と共に、レンの身体が弾かれた。

 肩を掴まれ、そのまま横へと投げ飛ばされる。


「ぐっ……!」


 背中を壁に打ちつけ、床に崩れる。

 レコーダーが手から滑り、カラン、と転がった。


「正気かよ……てめぇ……!」


「邪魔すんなっつってんだろうが」


 恭介は振り返りもしない。

 犬歯は紗希の首筋ぎりぎりで止まっている。


(……うん。

 ちゃんと“止まってくれてる”)


 紗希は、心の中でだけうなずいた。


 外側では、雛の声を続ける。


『おとうさん……たすけて……

 また、しんじゃう……食べられちゃう……』


 志藤は泣き叫ぶ。


「やめろ……やめてくれ……!

 雛を……私の娘を、これ以上……!」


 震える手が伸びる。

 だが、その目は――やはり紗希の顔を見ない。


 視線は、胸ポケットと床に転がったレコーダーのあいだを泳いでいた。


(ああ、やっぱり)


 紗希の胸の影が、静かに笑った。



 娘の声が、もう一度震える。


『おとうさん……たすけて……まだ、しにたくない……』


 その瞬間だった。


 志藤の指先が、反射的に動いた。


 彼自身も気づいていない速度で――

 床を這うように伸び、転がったレコーダーを掴む。


「やめろ! やめろ……!」

 口ではそう叫びながら。


 ――カチリ。


 録音ボタンを押す、小さな音。


 赤いランプが灯る。


 志藤の視線は、娘でも紗希でもなく、

 その赤い点に釘付けになっていた。


 “死にかけた娘の声”が、

 今まさに喰われようとしている、その瞬間を――

 彼は録音しようとしていた。


 紗希は、そこでようやく笑った。


「……あは」


 声が、雛のものから“いつもの紗希”へ滑らかに戻る。


 首筋へ寄せられた恭介の犬歯の前で、

 彼女は穏やかな笑みのまま、志藤を見た。


「やっぱり、そうだったんですね。先生」


 志藤の手が震える。

 録音ボタンを押し込んだまま、固まっている。


「あなたが本当に欲しかったのは――娘さんじゃない」


 紗希の影が、床でぴたりと止まる。


「娘さんの“最期の呼吸”。

 “助からないって悟った瞬間”の揺れだけを、

 永遠に観測していられる“記録”。」


 雛の残響が、喉の奥からすっと消えていく。

 黒い息は、紗希の影の中へ沈みこみ、形を失った。


 レンは壁にもたれながら、息を呑む。


(……こいつ……

 “娘を助ける”より、“その声を残す”方を選んだ……)


 志藤の表情から、残っていた感情が音もなく剥がれ落ちる。


「私は……私は、ただ……!」


「これはミステリの解答編ですよ、先生」

 紗希はやわらかく微笑んだ。


「あなたは娘さんを愛していた。

 でも同じくらい――“娘さんの死に際の声”を愛してしまった。

 だから、今もこうして録音してしまう」


 志藤は、握ったレコーダーを見下ろす。

 赤いランプが、鼓動のように瞬いていた。


 恭介が、紗希の首筋からそっと顔を離す。

 犬歯は一度も触れていなかった。


 紗希は肩越しに恭介を見上げ、目だけで合図する。


(はい、お芝居おしまいです)


 恭介は鼻を鳴らした。


「……茶番はここまでかよ」


 廉は、まだ床から起き上がれないでいた。


(こんな状況……どう説明しろってんだ……)


 ぐしゃぐしゃになった頭でそう思った瞬間――


 志藤の背中が、内側から膨れ上がった。

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