14話(中編)
三人は階段を下り、
進路指導室の前に立った。
ここだけ、空気が違う。
廊下は静かだ。
けれど進路指導室の扉の前だけ――
息が詰まるほど“重い”。
一歩近づくだけで、
靴底と床のあいだに見えない膜が貼りつく。
紗希は胸に手を当てた。
(……影の胸が、半拍遅れてる……
ここ、やっぱり“積もってる”)
廉がレコーダーを掲げる。
「波形……異常ですね。
帯域の厚みが桁違いっす。
時間の断面が溜まりすぎてる」
(“観測の席”……先生が、ずっと座ってきた場所)
恭介が鼻で笑う。
「窒息部屋ってやつか」
紗希は小さく息を整え、ノブに手をかけた。
「行きましょっか、お二人とも」
◆
扉が閉まると同時に、空気の密度が変わった。
進路指導室の壁は薄いのに、音だけが落ちていく。
部屋の真ん中、机に置かれた小さなレコーダー。
志藤はその前に腰かけ、指先で“とん、とん”と、規則正しい拍を刻んでいた。
(昨日の鏡と同じ……あれは心臓じゃない、“観測の拍”)
紗希は扉の後ろで小さく息を整え、笑顔のまま歩み出た。
「こんばんは、志藤先生」
志藤はゆるやかに顔を上げる。
だが、返事が来るまでの“間”が妙に長い。
「…………ああ、灯さん。来て、くれたんだね」
声の温度は普通なのに、応答が遅い。
返事をする前に、どこかへ“確認”しているような。
廉が小さく眉をひそめた。
「先生……今の“間”、なんか変すよ」
「返事が遅れるんです、先生」
紗希がすっと言葉を重ねる。
「“どこかに確認してから返している”みたいに。
……誰に、ですか?」
空気が凍った。
志藤の肩が、わずかに震える。
恭介は片眉を上げ、舌打ちしながら志藤を睨んだ。
「何隠してんだよ。昨日からずっと、返答がズレてんだよ」
その声音――怒鳴り声でも威圧でもないのに、
妙に“追い詰める側”の響きを持っていた。
志藤は一瞬、怯えたように目を伏せる。
(……あ、これか)
紗希は恭介へちらりと視線を向け、小さく笑む。
「恭介先輩、今の……ちょっと“悪役”っぽかったですよ」
「おい人聞き悪ぃな! 普通に質問しただけだろ!」
「あはは。“逃げる犯人を追い詰める悪役”みたいでした」
「それ悪役じゃなくて追っ手だろ……
……ってか、お前の方がよっぽど悪女じゃねえか」
(……ったく。女狐め……)
恭介は内心で悪態をつきながら、どこか楽しげでもあった。
紗希はくすりと笑い、そのまま志藤へ向き直る。
「昨日、先生がおっしゃってた“恐怖の揺れ”の話……覚えてます?」
「……もちろんだよ。観測の基本だ」
志藤は答える。だがまた、ワンテンポ遅れている。
「恐怖している人間は、息が揺れる。
揺れ方には個性があって、その瞬間を観測すれば“記録”になる……でしたよね」
「そうだ。だから私は――」
「じゃあ、昨日の私は?」
志藤は目を細めた。
笑みは形を保ったまま、温度だけが下がる。
「……揺れて、いなかった」
紗希の影が一瞬だけ沈んだ。
「……え?」
「君は“怖がっているふり”をしていた。
しかし息が揺れない。
あれは……恐怖に慣れた人間の呼吸だ」
指が空をなぞる。
まるで目に見えない波形をなぞるように。
「怒りが染みついた、焼けた息の匂いがした」
紗希の笑顔が、そのまま凍りつく。
沈黙。
部屋の圧力がひとつ上がる。
「子供の頃からだろう?」
志藤の声が乾いた。
「寝ていても、食事をしていても、学校でも……
黒いものが、君だけを覗き込んだ。
喉の奥を焼くような恐怖。
誰にも分かってもらえず、それが怒りになって、身体に染みついた」
紗希の瞳が細くなる。
笑顔は崩れていないのに、“色”だけが抜け落ちた。
「……そんなこと、言われなくても分かってますよ」
志藤の目が揺れる。
「気味が悪くて……眠れない日もあって。
でも誰も気づかなくて。
だから、怒る“癖”がついただけです」
声は穏やか。
なのに、心の奥で燻る火種のような静かな怒り。
「私は、“あれら”が嫌いなんですよ。
クロも、ブラックベインの線も。
それを覗き込んで喜ぶ“観測者”も」
最後の一言に、わずかな棘が混ざる。
志藤は、はっきりと後ずさった。
「……灯さん……君は……」
紗希が一歩詰める。影が床に濃く滲む。
「先生、“好きなんですよね”」
「な、にを……」
「“怖がっている声”が。
“もう助からないって悟った瞬間”の息の揺れが」
志藤の喉がひくりと動き、
視線が胸ポケットへ引き寄せられる。
そこに、いつも入れている小さなスマホがある。
(……やっぱり)
紗希は、影を踏みしめた。
◆
次の瞬間――
志藤の胸ポケットのスマホが、勝手に再生を始めた。
画面は暗い。
再生ボタンは押されていない。
それでも、かすれた“子供の息”だけが部屋に溢れた。
『……おとう、さん……っ』
「なっ……!?」
部屋中に浮遊していた黒い息が、
まるで波形に引き寄せられるように紗希の足元へ集まり始める。
黒が影へと落ち、
じわり、と喉元まで滲み上がっていく。
(……来た)
紗希は笑顔を崩さず、そっと目を閉じる。
黒は首筋の奥、
あの夜に噛みつかれた歯型の痕をなぞるように這い上がり――
喉の裏側へ、沈んだ。
『……おとう、さん……』
紗希の口が、他人の声を零した。
幼い女の子の声。
この学校のどこにもいないはずの、失われた呼吸。
廉の背筋が粟立つ。
「……こ、これ……ほんとに……」
志藤の瞳孔が開く。
「……あ……灯さん、じゃ……ない……
ひな……なのか……?」
(“ひな”……志藤雛。
やっぱり、“娘さんの最期の息”を、この人は手放せなかった)
紗希の意識は、静かだった。
声帯を一瞬乗っ取られても、飲み込まれはしない。
(ごめんね。
ちょっとだけ“借ります”から)
黒い残響を、観測の方へ上書きしていく。
『こわいよ……またしんじゃう……』
『おとうさん、たすけて……』
紗希の喉を震わせながら、
雛の“死に際の息”が繰り返される。
志藤の震える手が近づく。
しかし、その目は紗希ではなく――
胸ポケットのスマホに吸い寄せられていた。
紗希は、かすかに首を傾げる。
「先生。
本当に“娘さん”を見てますか?」
「ち、違う……違うんだ……!」
志藤の声は涙声だ。だが、視線はスマホから離れない。
◆
恭介が、床を蹴って歩き出した。
黒い気配が、彼の足元でざわつく。
「紗希、それもう十分だろ」
短く言う。
「その黒……喰っちまうぞ」
『やだ……こわい……おとうさん、たすけて……』
紗希の喉から零れる雛の声。
志藤の顔が歪む。
「やめろォ!! 娘に触るな!!!」
恭介は肩を竦めるように笑った。
「人の事情なんざ知らねぇよ。
“何か背負ってんの”なんざ誰でも同じだろ。
特別ぶったツラすんな、観測者」
そして、紗希の腕を乱暴に掴み、
白い犬歯を首筋へと寄せていく。
廉が叫んだ。
「待て、恭介!! 本気かよ、それ……子供だぞ!!」
飛び込む廉。
次の瞬間――
「邪魔だ、どけ」
乾いた音と共に、レンの身体が弾かれた。
肩を掴まれ、そのまま横へと投げ飛ばされる。
「ぐっ……!」
背中を壁に打ちつけ、床に崩れる。
レコーダーが手から滑り、カラン、と転がった。
「正気かよ……てめぇ……!」
「邪魔すんなっつってんだろうが」
恭介は振り返りもしない。
犬歯は紗希の首筋ぎりぎりで止まっている。
(……うん。
ちゃんと“止まってくれてる”)
紗希は、心の中でだけうなずいた。
外側では、雛の声を続ける。
『おとうさん……たすけて……
また、しんじゃう……食べられちゃう……』
志藤は泣き叫ぶ。
「やめろ……やめてくれ……!
雛を……私の娘を、これ以上……!」
震える手が伸びる。
だが、その目は――やはり紗希の顔を見ない。
視線は、胸ポケットと床に転がったレコーダーのあいだを泳いでいた。
(ああ、やっぱり)
紗希の胸の影が、静かに笑った。
◆
娘の声が、もう一度震える。
『おとうさん……たすけて……まだ、しにたくない……』
その瞬間だった。
志藤の指先が、反射的に動いた。
彼自身も気づいていない速度で――
床を這うように伸び、転がったレコーダーを掴む。
「やめろ! やめろ……!」
口ではそう叫びながら。
――カチリ。
録音ボタンを押す、小さな音。
赤いランプが灯る。
志藤の視線は、娘でも紗希でもなく、
その赤い点に釘付けになっていた。
“死にかけた娘の声”が、
今まさに喰われようとしている、その瞬間を――
彼は録音しようとしていた。
紗希は、そこでようやく笑った。
「……あは」
声が、雛のものから“いつもの紗希”へ滑らかに戻る。
首筋へ寄せられた恭介の犬歯の前で、
彼女は穏やかな笑みのまま、志藤を見た。
「やっぱり、そうだったんですね。先生」
志藤の手が震える。
録音ボタンを押し込んだまま、固まっている。
「あなたが本当に欲しかったのは――娘さんじゃない」
紗希の影が、床でぴたりと止まる。
「娘さんの“最期の呼吸”。
“助からないって悟った瞬間”の揺れだけを、
永遠に観測していられる“記録”。」
雛の残響が、喉の奥からすっと消えていく。
黒い息は、紗希の影の中へ沈みこみ、形を失った。
レンは壁にもたれながら、息を呑む。
(……こいつ……
“娘を助ける”より、“その声を残す”方を選んだ……)
志藤の表情から、残っていた感情が音もなく剥がれ落ちる。
「私は……私は、ただ……!」
「これはミステリの解答編ですよ、先生」
紗希はやわらかく微笑んだ。
「あなたは娘さんを愛していた。
でも同じくらい――“娘さんの死に際の声”を愛してしまった。
だから、今もこうして録音してしまう」
志藤は、握ったレコーダーを見下ろす。
赤いランプが、鼓動のように瞬いていた。
恭介が、紗希の首筋からそっと顔を離す。
犬歯は一度も触れていなかった。
紗希は肩越しに恭介を見上げ、目だけで合図する。
(はい、お芝居おしまいです)
恭介は鼻を鳴らした。
「……茶番はここまでかよ」
廉は、まだ床から起き上がれないでいた。
(こんな状況……どう説明しろってんだ……)
ぐしゃぐしゃになった頭でそう思った瞬間――
志藤の背中が、内側から膨れ上がった。




