14話(前編)
――振り返らない。
影が笑っても、もう迷う理由はない。
放送室をあとにした瞬間、
廊下の空気が一段、ひやりと沈んだ。
鏡を砕いてもなお、
“息だけ残った余韻”が薄い膜になって張りついている。
冷たいわけではない。
“見られた記憶の体温”だけが皮膚にまとわりついてくる。
廉はすぐレコーダーを掲げた。
液晶が淡く瞬き、波形が震える。
「……帯域、切れてません。
まだ“どこかから見られてる”」
恭介が鼻を鳴らした。
「鏡は砕いた。写し子も潰した。
残ってんのは――“覗いてた本体”だけだろ」
紗希は床の破片を拾い上げる。
そこにはもう“目”の残滓は映らず、
ただ三人の影と、奥へ伸びる細い線がひとつ。
(写し子は壊れた。
でも……“観測していた呼吸”は残ってる)
胸元の《影の心臓》が、また一拍遅れて落ちた。
現実と呼吸のテンポが微妙にずれていく。
その異常を、
紗希は――どこかうっとりと観測していた。
(……ズレる。
こういう時、世界の“縫い目”が見える)
「……ここは、もういいです」
破片を棚へ戻すと、恭介が短く言った。
「行くぞ。
帯域が太い方――“蛇の胴”だ」
◆
放課後の声はもう校舎にない。
だが、静寂ではない。
廊下は、細い管みたいに音を吸い込み、
三人の足音だけをじわりと奥へ運んでいく。
廉が立ち止まり、眉を寄せた。
「……人数がおかしい」
「人数?」
紗希が身を寄せる。
「呼吸の数っす。
本来は三人のはずなのに……帯域は五つある」
恭介の眼つきが鋭くなる。
「二つ、増えてんじゃねぇか」
「一つは写し子の“残り香”。
ただ、もう一つは……」
廉は言葉を濁した。
その沈黙の下で、紗希は影を見る。
影の心臓が、わずかに濃く揺れる。
(……誰かが“止まった瞬間の息”だけを残されてる……
消えてない……“断面”がここにある)
観測の角度が、自然と深くなる。
「……今日の客、多すぎだろ」
恭介が苛立ちを隠さず言う。
「弄ばれて捨てられた息なんざ、
まとめて喰う義理はねぇのにな」
(でも、食べるんだ……結局)
紗希は小さく笑う。
恭介は、そういう男だ。
廉は再び集中した。
「帯域の流れだけ見ます。
……こっち。職員室側が一番太い」
◆
職員室前は“音が通りすぎる場所”だった。
本来なら先生の声が多い時間帯。
だが今日は、紙のこすれる音ばかりが異様にクリアだ。
廉が窓越しに指をさす。
「……この奥だけ帯域が濃い」
紗希も覗いた。
机が並び、その奥。
進路指導室の窓辺――白衣の背中。
志藤だ。
耳を小機器へ寄せ、
指でトン、トン、と一定のリズム。
(昨日と同じ……
あの“観測する指”の音)
恭介の視界には、
志藤の周囲の線が“音の蛇”みたいに蠢いて見えた。
「……白衣。
昨日からずっと“聞きたがってやがる”」
廉が補足する。
「思い出しました。
レンさんが手伝ってた“学校の音響調整”。
相談してきたの、あの先生だったんですよ」
紗希の背筋がぞくりと冷える。
「……呼吸の帯域って、
最初から“聞こうとしてた”ってこと……?」
「普通そんなの聞きません」
廉は苦笑して波形を示す。
「鏡、放送室、準備室……
全部“音を扱う場所”が発端。
そこを“観測席”にしたのは、おそらく――」
言葉を切った。
(……言わなくても、わかる)
紗希は思う。
“観測者”は、もう場所を選んで呼吸している。
◆
三人は職員室を離れ、踊り場へ移動した。
上と下から音が集まり、
ここで“選別”されて流れていく。
廉は録音を重ね合わせ、
ひとつだけ、くっきり浮かぶ帯域を指差した。
「……この校舎で、ずっと同じ場所にある“息”がある」
「それは……?」
紗希の声が細く震えた。
「生徒でも教師でもない。
この校舎にとっての――《観測者の呼吸》っす」
廉はレコーダーを握り直す。
「一番濃く拾えるのが……
職員室の奥、進路指導室。
あそこが、《観測者の席》です」
紗希の影が震える。
影の心臓がまた一拍ずれる。
(……見つけた。
“目のある場所”)
恭介はゆっくり肩を回し、
野犬みたいに笑った。
「……蛇の頭んとこまで来たってわけだ」
階段を降りていく三人の背を、
遠い塔のような場所から、
もうひとつの影が黙って見送っていた。
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