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14話(前編)

 ――振り返らない。

 影が笑っても、もう迷う理由はない。


 放送室をあとにした瞬間、

 廊下の空気が一段、ひやりと沈んだ。


 鏡を砕いてもなお、

 “息だけ残った余韻”が薄い膜になって張りついている。


 冷たいわけではない。

 “見られた記憶の体温”だけが皮膚にまとわりついてくる。


 廉はすぐレコーダーを掲げた。

 液晶が淡く瞬き、波形が震える。


「……帯域、切れてません。

 まだ“どこかから見られてる”」


 恭介が鼻を鳴らした。


「鏡は砕いた。写し子も潰した。

 残ってんのは――“覗いてた本体”だけだろ」


 紗希は床の破片を拾い上げる。

 そこにはもう“目”の残滓は映らず、

 ただ三人の影と、奥へ伸びる細い線がひとつ。


(写し子は壊れた。

 でも……“観測していた呼吸”は残ってる)


 胸元の《影の心臓》が、また一拍遅れて落ちた。

 現実と呼吸のテンポが微妙にずれていく。


 その異常を、

 紗希は――どこかうっとりと観測していた。


(……ズレる。

 こういう時、世界の“縫い目”が見える)


「……ここは、もういいです」


 破片を棚へ戻すと、恭介が短く言った。


「行くぞ。

 帯域が太い方――“蛇の胴”だ」



 放課後の声はもう校舎にない。

 だが、静寂ではない。


 廊下は、細い管みたいに音を吸い込み、

 三人の足音だけをじわりと奥へ運んでいく。


 廉が立ち止まり、眉を寄せた。


「……人数がおかしい」


「人数?」

 紗希が身を寄せる。


「呼吸の数っす。

 本来は三人のはずなのに……帯域は五つある」


 恭介の眼つきが鋭くなる。


「二つ、増えてんじゃねぇか」


「一つは写し子の“残り香”。

 ただ、もう一つは……」


 廉は言葉を濁した。


 その沈黙の下で、紗希は影を見る。

 影の心臓が、わずかに濃く揺れる。


(……誰かが“止まった瞬間の息”だけを残されてる……

 消えてない……“断面”がここにある)


 観測の角度が、自然と深くなる。


「……今日の客、多すぎだろ」

 恭介が苛立ちを隠さず言う。


「弄ばれて捨てられた息なんざ、

 まとめて喰う義理はねぇのにな」


(でも、食べるんだ……結局)

 紗希は小さく笑う。

 恭介は、そういう男だ。


 廉は再び集中した。


「帯域の流れだけ見ます。

 ……こっち。職員室側が一番太い」



 職員室前は“音が通りすぎる場所”だった。


 本来なら先生の声が多い時間帯。

 だが今日は、紙のこすれる音ばかりが異様にクリアだ。


 廉が窓越しに指をさす。


「……この奥だけ帯域が濃い」


 紗希も覗いた。

 机が並び、その奥。

 進路指導室の窓辺――白衣の背中。


 志藤だ。


 耳を小機器へ寄せ、

 指でトン、トン、と一定のリズム。


(昨日と同じ……

 あの“観測する指”の音)


 恭介の視界には、

 志藤の周囲の線が“音の蛇”みたいに蠢いて見えた。


「……白衣。

 昨日からずっと“聞きたがってやがる”」


 廉が補足する。


「思い出しました。

 レンさんが手伝ってた“学校の音響調整”。

 相談してきたの、あの先生だったんですよ」


 紗希の背筋がぞくりと冷える。


「……呼吸の帯域って、

 最初から“聞こうとしてた”ってこと……?」


「普通そんなの聞きません」

 廉は苦笑して波形を示す。


「鏡、放送室、準備室……

 全部“音を扱う場所”が発端。

 そこを“観測席”にしたのは、おそらく――」


 言葉を切った。


(……言わなくても、わかる)

 紗希は思う。

 “観測者”は、もう場所を選んで呼吸している。



 三人は職員室を離れ、踊り場へ移動した。


 上と下から音が集まり、

 ここで“選別”されて流れていく。


 廉は録音を重ね合わせ、

 ひとつだけ、くっきり浮かぶ帯域を指差した。


「……この校舎で、ずっと同じ場所にある“息”がある」


「それは……?」

 紗希の声が細く震えた。


「生徒でも教師でもない。

 この校舎にとっての――《観測者の呼吸》っす」


 廉はレコーダーを握り直す。


「一番濃く拾えるのが……

 職員室の奥、進路指導室。

 あそこが、《観測者の席》です」


 紗希の影が震える。

 影の心臓がまた一拍ずれる。


(……見つけた。

 “目のある場所”)


 恭介はゆっくり肩を回し、

 野犬みたいに笑った。


「……蛇の頭んとこまで来たってわけだ」


 階段を降りていく三人の背を、

 遠い塔のような場所から、

 もうひとつの影が黙って見送っていた。


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