13話
放送室の扉を潜った瞬間――
世界が息を潜めた。
静寂ではない。
“まだ死んでいない呼吸だけでできた空間”に踏み入ってしまったような沈黙。
レンがレコーダーを押さえた。
「……帯域、生きてます。
まだ“こっちを見てる息”がある」
紗希は、自分の影へ目を落とす。
胸の影が、一拍遅れて床に沈む。
(……ああ……)
(今日も、私の“ズレ”を真っ先に撫でてくる……)
影の心臓が、誰かの呼吸で揺れる。
トク、トク、トク――
そのたび、胸の奥に火が灯るみたいに熱が募った。
(こんなに分かりやすいのに……
どうして、みんな気づかないの……?)
部屋の中央が、破れた。
白い息の少女。
輪郭だけの、未完成の模写。
(来た……来た来た来た……)
紗希の頬がわずかに紅潮する。
理解が形になる瞬間が――たまらなく好きだった。
――み……てる、よ。
声ではない。
けれど、人間の声よりずっと“人間的な観測”が乗っていた。
「昨日より“粗い”っす……」
レンが震える。
「写し子……写し損ねた部分が、にじんでる……!」
(ううん、“探してる”んだよ。答えを。
自分の元の形を……
誰の呼吸から切り取ったのか……)
恭介が踏み込む。
「粗いんじゃねぇよ。“俺が次どう動くか”勝手に当てに来てるだけだ」
(そう。
あなたは“恭介先輩の未来”を写そうとして、失敗したんだよ……)
影の未来の拳が振り上がる。
恭介がそれを無造作に折る。
骨の折れる音を真似た黒い破片が散る。
(……綺麗……)
紗希は、本当にそう思った。
破壊ではなく、“観測の失敗が露呈する瞬間”が美しかった。
破片は溶け、床にへばりつく黒い残骸だけになる。
(……かえして……
さいしょの……いちまい……)
紗希は目を細めた。
(“最初の一枚”……)
(この写し子は、“誰かの最初の姿”を写せなくて苦しんでる)
紗希は、ふと恭介と初めて会った夜のことを思い出していた。
点滴を媒介して、クロが紗希の体内に侵入しようとしたあの時。
それだけではなく、何度も、何度もあった。
黒が、誰かの“息の切れ端”を連れてくることは珍しいことではない。
(志藤先生の手は、昨日震えてた。
演劇の子を褒めたときの“呼吸”と同じ震え……)
理解が、脳の奥で弾ける。
痛みと快感の境界に似た火花。
(――子ども。
この写し、子どもの呼吸の落書き……)
◆
「やけにあっけなく終わっちまったな。
こんなんじゃ腹の足しにもなりゃしねえ」
恭介が黒を啜る。
獣の咀嚼音が、世界で唯一の“生きている音”だった。
その瞬間、鏡が震えた。
カン……
カン……カン……
レンが顔色を失う。
「写し子じゃない……!
“向こうの観測者”の息だ……!」
(くる……くる……!)
紗希は喉に指を当て、圧迫された呼吸の“輪郭”を感じる。
(昨日の“あの目”……
役者を見るみたいに、皮膚の裏側まで覗く目……)
鏡の奥。
薄い白い指がガラスをなぞる。
幼児の指先。
(子ども……やっぱり……)
理解が深まりすぎて、呼吸が甘くなる。
(志藤先生……
あなたの“失った子ども”を写し子が写し損ねて、
その残滓だけがこの学校を漂ってる……)
恭介が鏡へ歩み寄る。
黒い線が空気を裂く。
「……次はてめぇだ。観測者」
鏡の裏で、白い指が笑った。
――みてるよ。
紗希は、息を飲みながら微笑う。
(はい。
私も“見て”ますよ。
あなたが何を見たくて、それを失ったのか……
ぜんぶ。)
◆
廊下に影が三つ落ちていた。
紗希の影。
恭介の影。
そして――教師の影の“線”だけ。
「……志藤先生の“最初の軌跡”っす」
「昨日、写された足跡……」
(最初の軌跡……最初の一枚……
子どもの呼吸の線……)
(志藤先生。
あなた、どこまで見ようとして……
どこで間違えたんですか……?)
胸の鼓動が早くなる。
怖いんじゃない。
“解ける”予感が甘いのだ。
恭介が影を踏み砕く。
「鏡も割れた。写し子も潰した。
残ってんのは“使ってた本体”だけだ」
(行きましょう。
ほら、もっと……
もっと“見せて”ください……)
「行くぞ。“観測者の息”を辿る」
廊下の奥の影が、ふっと笑った。
――みてる、よ。
(……ええ。
もちろん私も、あなたを見てます。
ほら早く――
気づいて。
“私だけが、あなたを正しく見られる”って。)
三人は進む。
紗希の影は、胸の奥の“影の心臓”を、
いつもより大きく、赤く、深く脈打たせながら――。
――影が笑った。
廊下の奥で、息の形だけが“こちらより先に”呼吸した。
紗希はその気配を、胸の影で受け取った。
心臓ではなく影の心臓が、半拍遅れて、しかし強く揺れる。
(……子どもの“最初の一枚”……
返して、って言ってた……
じゃあ“二枚目”や“本体”は、まだどこかにいる)
思考が、熱の代わりに冷気を孕んで滑っていく。
理解しながら、同時に酔うような感覚。
(この学校には……
“息の断面”が積み重なってる……
先生は、それを――聞いてる……)
恭介が歩き出す。
獣の足音。
その音だけが、この空間で“生きている”。
「行くぞ。蛇の巣はもうすぐだ」
レンが震える指で帯域をなぞり、
三つの影は、進路指導室のある階へ沈んでいく。
――息の膜を押し分けるように




