12話
——翌日。
鏡の“写し”と向き合ったあの夜が明けた。
校門をくぐった瞬間、
恭介と廉はほぼ同時に足を止めた。
「……寒くねぇか?」
恭介が眉をひそめ、
廉はレコーダーをそっと耳へ当てる。
「気温じゃないっす。
校舎全体の“線”が揺れてる。昨日より、はっきり分かるくらいに」
その隣で——
紗希の影だけが、半拍早く歩いていた。
紗希自身は歩を止めているのに、
影はもう“次の一歩目”を踏み出していた。
「……あ」
紗希は足もとを見る。
影の胸の部分だけが、なぜか濃い。
淡い影の中に、そこだけ“脈の跡”のような黒がある。
(……触られたところ。昨日からずっと変な感じがする)
昨日、“写すやつ”に胸元へ触れられた瞬間——
心臓の拍が一度だけ、妙に跳ねた。
その余韻だけが、まだ残っている。
廉が小さく言った。
「……昨日の“写し”、やっぱり《写し子》で間違いないっすね。
本来は顔も形も“観測者”次第で変わるやつで……
灯さんを中心に“写し”始めてる」
“写し子”という名前は、
昨日の鏡に残った帯域データから廉が拾った語だ。
地元の怪談では「形を写す黒い子」と呼ばれる曖昧な存在。
紗希は影を見つめながら、静かに息を吸う。
「……行きましょう」
影の胸が、わずかに脈を打つ。
恭介がしゃがみ込み、影の黒へ手をかざした。
踏み潰す前の、距離を測るみたいな位置だ。
「……よくもまあ、俺の目ぇ盗んで触ってきやがったな」
低く笑う。
怒鳴り声ではない。
ただ、獲物を見つけた野犬みたいな笑い方。
廉の喉がひくりと震え、
レコーダーの波形が一瞬だけ“警戒値”を描いた。
「次にやったら——」
恭介は、影の黒い部分をじっと見たまま、淡々と告げる。
「どこから潰されたいかぐらいは、選ばせてやるよ。目か、耳か……鼻でも削ぎ落としてやるか?」
「人外相手に拷問でもするつもりかよ!?」
思わず廉がツッコむ。
声が裏返っていた。
けれど紗希は、少しだけ首を傾げるだけだった。
「……ありがとうございます。心強いです」
静かな声。
(恭介先輩は脅してるんじゃない。“やること”を言ってるだけ……)
怯えは一切ない。
むしろ、ほんの少しだけ安心したように息を吐いた。
(“ご褒美です”、みたいな顔してやがる……なんで怖くねぇんだよ……)
廉だけが、内心でたじろいでいた。
「——写し子の“侵食”ですね」
廉は、説明を添えることで自分の手の震えをごまかした。
紗希の影が、また半歩前へズレる。
「……行きましょう」
紗希は胸に手を当て、校舎へ向かった。
恭介は影の黒点を一瞥し、ぼそりと吐く。
「俺らのもんに触れた“残り香”は全部、俺が喰う」
本気で言っている声だった。
誰に聞かせるでもない、縄張り宣言。
紗希は振り返らず、微かに頷いた。
怯えではなく、観測の意志。
廉だけが、背中に冷汗を感じていた。
◆
校舎に入ると、昨日よりも静かだった。
音がしない。
誰もいない。
気配が“削られている”。
黒が通過した場所に残る、気配の空洞。
“観測が抜けた後の薄さ”が校舎全体を覆っていた。
昨日と違うのは——
“写し”が進んでいるのに、まだ“完成していない”こと。
黒は満ちているのに、
“誰か”が形になりきれていない。
図書室の前を通りかかったとき——
カサ……とページのめくれる音。
「誰かいますか?」
紗希が声をかける。
返事はない。
扉を開くと、机の上に一冊の本だけが開かれていた。
ページには、
——“空欄の顔”たち。
目鼻耳の輪郭が描かれていない。
ただ“顔の形”だけが並んでいる。
(……まだ“誰”とも決まっていない……)
観測されることで初めて顔になる——
なら、写し子は“決め手”を待っている。
紗希がページに触れようとした、その瞬間——
真後ろで、まったく同じ手つきで空をなぞる“影”。
(……“模写”されてる。触る前から“触る”という行為がコピーされてる)
振り向く。
廊下の奥。
光の落ちない地点に、小柄な影が立っていた。
それは体の影ではなく、
“紗希の手つき”をそのまま写した影だけ。
「……っ」
恭介が影へ踏み込む。
だが影は逃げず——
すっと紗希の背側へ回り込み、重なった。
「……灯さんが“中心”になった時点で、写し子はもう逃げる必要がないっす」
「でも“完成”には、まだ一歩足りない……ってことかよ!」
拳が空を裂くが、
影は紗希の呼吸に合わせて膨らみ縮む。
「……灯さんを優先して写してる……」
廉の声が震える。
「写し子の“本体”、灯さんを《中心の観測対象》として扱ってる……」
(中心……私が……?)
紗希の胸が跳ね、
影の黒点も同じリズムで揺れた。
階段へ向かう廊下に出たところで、
三人は自然と足をそろえる。
影の息が、背中を押すように揺れていた。
◆
階段の踊り場へ差しかかると、
レコーダーが断続的に点滅し始めた。
「帯域、きてる……!」
ノイズではない。
波形は——
“声にならない息の形”をしていた。
「……明日、もっと強くなるっす。
灯さんの影と心臓のズレが完全に重なったとき……
写し子は“ひとつ”になる」
廉は喉を押さえ、青ざめる。
「でも、まだ。ところどころズレてる……
写し子、完全に写せてない……
“観測が追いついてない”って感じだ」
「半端に写すぐらいなら来んなッつの」
恭介が舌打ちした。
階段の影が、その音に合わせてびくりと揺れた気がする。
紗希の影が、また前へ跳ねた。
何かに“呼ばれている”ように。
(……行けって言われてる……?
違う。
来るのを“待ってる”。
誰かが、私を観測しながら……待ってる)
(……裂け目の“続き”。誰かがこっちを覗いてる)
踊り場の空気がひとつ沈んだところで、
三人は自然と足を止めた。
紗希の影は、半拍遅れてようやく本体に追いつく。
「……今んところの“犯人”整理しとくか」
恭介の声は荒いが、
怒りよりも“殴る順番を決めるため”の色が強い。
「俺ら、昨日から《二層》追ってんだよな?」
「はい。人間側と……“向こう側”です」
紗希は息を整えながら答える。
影の胸の黒点が、会話に合わせてふるふる震えた。
廉が専門家の表情で続ける。
「まず《人間側》。
これは確実に“鏡を使って遊んでた側”っす。
演劇部の誰か、もしくは顧問。
帯域の抜け方と準備室のメモ……あれが証拠」
「鏡は《録音用の装置》に変えられてた。
志藤先生の“観測席”にされてたのがその前提……」
紗希も静かに言い継いだ。
「でも“遊んだ”のは別の生徒。
黒を理解してたわけじゃなくて……
《面白がっただけ》の痕跡でした」
「悪ノリが致命傷コースってのは、世の常だな」
恭介が苦く吐き捨てる。
「次、《向こう側》っす」
廉の声がわずかに低くなった。
「昨日から灯さんを写し始めた《写し子》。
でも写し子は“窓”じゃない。
あれを支配してる“観測者”がいる。
灯さんの影の心臓を触ってきたのは……
完全に《向こう》の意思っすね」
「……写し子は、“観測者の手”」
紗希が胸の黒点を押さえる。
影が答えるように、ぴくんと波打った。
「……裂け目の“続き”なんです」
紗希は、自分で言葉を選ぶようにゆっくり続ける。
「あのとき黒に触れられた場所は、“向こう”にとっての窓になる。
写し子は、その窓から私を中心に写そうとしてる……」
「つまり二層犯行」
廉が指を二本立てた。
「① 鏡で遊んだ人間。
② その騒ぎに乗っかって覗いてきた《向こう側》の“観測者”。」
「……ややこしすぎんだろ。混ぜんなよ、そういうもんをよ」
恭介の呟きは荒いが、
紗希には“状況を整理して噛み砕いている声”に聞こえた。
「でも、優先順位はもう決まってます」
紗希が言うと、廉が頷く。
「はい。“写し子”の線を切らなきゃ無限に追われます。
写し子は灯さんを中心に写し続ける。
心臓のズレが完全に重なる前に……
“写されてる側”を取り返さないと」
「じゃあ先に“向こう側”ぶっ潰す、って話か」
「ぶっ潰す……というか……」
廉が少し苦笑する。
「先輩くんの場合は“喰う”っすけどね」
「当たり前だろ。
向こうから先に手ぇ出してきたんだ。喰われるくらい覚悟してんだろが。
世の中、そうできてんだよ」
恭介の声がひどく低くなる。
階段の影がわずかに震えた。“向こう側”が怒気を聞いたように。
(……怒ってるんじゃない。
“境界を荒らされた”ことに腹立ててる……)
紗希は直感的にそう理解した。
「つまりまとめると……」
紗希が静かに言う。
「《人間の犯人》は後回し。
先に“向こう側の観測者”を止める。
写し子の線を切れば、写しは完成しない」
「その線の“根っこ”は放送室の奥……」
廉が闇を見る。
「……帯域の《喉奥》。
そこに向こう側の“目”があるはず」
「なら決まりだな」
恭介は短く言った。
「まずそっちからブッ叩いて、あとで人間のほうはまとめて片付けりゃいい」
その瞬間、影の胸が脈打ち、
紗希の影が半歩“前”へ滑った。
呼ばれているように。
だが紗希は揺れず、一言。
「……行きましょう」
三人の視線が同じ一点へ向かう。
放送室の奥。
写し子の線が絡まる“向こう側”の喉奥。
(来るのを待ってる……
でも、見返すのはこっちだ)
紗希は胸に手を当て、わずかに息を整えた。
◆
放課後の薄暗い廊下。
扉の周辺だけ影が二重に重なり、
“影の濃度”が異様に高い。
恭介が紗希の肩へ手を置く。
「ここから先は、俺が前だ。
お前、余計なとこ触られんなよ」
「……はい」
そのとき——
紗希の影が、勝手に前へ伸びた。
本体より半拍早く、
扉へ触れようとする指先の形。
「紗希!」
恭介が反射的に、その影の手を踏みつける。
影が“悲鳴の形”に揺れた。
声は出ない。
だが、確かに“痛がった”。
「……向こうにいる」
廉の声は小さい。
「扉の向こう……空間が重なってる。
“別の校舎”と、この校舎が……
帯域の穴を通して重なってる。
そこで写し子の本体か、“観測者”が……」
低い鼓動のような音が、
扉の内側から響いた。
コン……
コン……コン……
影の呼吸と完全に一致している。
紗希は一歩前へ出た。
(……怖い。でも“見たい”が勝つ)
恭介が止めるより早く——
紗希の声が落ちる。
「……行きましょう」
影が震える。
扉周囲の空気が、
“その言葉を聞いた”ように波打つ。
「……ああ」
恭介が短く応じた。
「行くか。写し子んとこ、まとめて喰いに」
その言葉を合図に——
三人は、扉の向こうの“喉奥”へと踏み込む準備を整えた。




