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11話


 階段の踊り場で見た“逆さの階段の影”は、もう形を保ってはいなかった。


 けれど気配だけは校舎全体に薄く滲み、


 建物そのものがその気配の呼吸に合わせて微かに揺れているようだった。


    ◇


 準備室前へ戻った瞬間、紗希は空気の“張り”に気づいた。


 いつもの校舎ではない。


 音が壁に散らず、一本の細い管を通って先へ延びていくような空間。


 乾いているのに、湿った残響だけが漂っている。


 その残響の奥へ、細い“音の線”が伸びていた。


「……帯域、ずれてますね」


 廉が言う。レコーダーのランプが低く震えた。


「さっき倉庫で“音だけ先に返った”じゃないですか。今は逆で……“向こうの耳”のほうが早いっす」


 紗希は喉を鳴らす。飲み込む音だけ、半拍先に廊下へ響いた。


(……聞かれてる)


 音の線は放送室の方角へ伸びている。


「……行きましょう」


 紗希が言うと、恭介は眉をひそめた。


「やる気満々じゃねぇか。さっき足引っ張られたばっかだぞ」


「だからです。“どう見られてるか”を、ちゃんと見ておきたいんです」


 廉も頷いた。


「観測線、まだ切れてませんからね。逃げても追ってきますよ」


 三人は、音の線に沿って廊下を進む。


    ◇


 放送室前では、空気がさらに変質していた。


 ここだけ、校舎の“喉奥”のようだった。


 呼吸はないのに、音だけが奥へ奥へと吸い込まれていく。


「……線、細いですね」


 廉は額の汗を拭った。


「校舎中の音が、全部ここ一点に集められてる。完全な“通り道”っす」


 窓ガラスに映る三人の影が揺れる。


 そのうち——紗希の影だけが、半拍遅れてついてきていた。


「……人の動きを、写してる」


 紗希は無意識に口を動かした。


「触れた跡や癖。“ログ”を拾って……影の形を組み直してます」


 廉が驚いたように瞬きをする。


「そこまで分かるんですか?」


「普通に“怖がる女子高生”をやってみたかったんですけど……どうも、整理のほうが先に来ちゃって」


 その笑みだけ、影と同期しなかった。


 紗希は胸元へ手を当てる。


 影の遅れが大きくなった瞬間、そこだけが“誰かの手”に押されたように熱を持った。


(……また、同じ場所)


 昼休み。志藤の簡単な診察を受けたときのことが蘇る。


『灯さん、その胸の影……どうして“子どもの手の形”なんですか?』


 志藤は影を見た途端に言葉を失い、震えていた。


『三週間前の〈表情サンプル撮影〉のときも思いましたが……


 灯さんの“怯え方”は妙に整っている。


 ……まるで、誰かの“癖”をそのまま写しているようで』


(癖……誰の?)


 影は、脈動しながら“子どもの手”の形で広がっていく。


 まるで、そこから誰かが覗こうとしているように。


    ◇


「灯さん……普通は逆なんすよ」


 廉の声に、紗希は我に返る。


「人は“分類できないから怖い”んです」


 その瞬間、放送室前の空気が一度だけ無音になった。


 紗希は静かに笑う。その笑みは影に写らない。


 恭介は背筋に粟が立つのを感じた。


(やっぱコイツはコイツで普通じゃねぇ)


 そう思ったとき——


 窓ガラスの奥、“三人の影よりさらに奥側”で、小柄な影が立ち上がった。


    ◇


 光にも壁にも映らないのに、視界の隅で“揺れる何か”がある。


「……紗希?」


 恭介が声を出す。


 返ってきた声は半拍遅れ、その“遅れ”の狭間で別の呼吸が紛れた。


 紗希の影の奥側に、小柄な影が立っている。


 輪郭は曖昧で、顔はない。ただ紗希の影を静かに踏んでいた。


 紗希が一歩踏み出すと、影は逃げず——


 同じ動きで“影だけ半歩ズラした”。


 光より先に動く影。


 本来ありえない“位相のズレ”。


「……あなた、さっきの“手”じゃない。昨日から私を見てますよね」


 影がひと呼吸止まる。


 手を伸ばすようにゆっくり動き——


 息だけの囁きが紗希の耳に触れた。


——み……


 ガラスがたわむ。


「馬鹿、調子乗んな、離れろ!」


 恭介が紗希を引き寄せる。


 影の気配は喉元の錯覚だけを残して、霧のように消えた。


「……呼んでますね。放送室のほうへ」


 廉が帯域を読むと、一本の“音の線”が奥へ伸びていた。


「おい灯。なんで“さっきの手じゃねぇ”なんて言い切れんだよ」


 恭介の声には、苛立ちよりも“確認”の色が混じっていた。


「……だって」


 紗希は自分の胸元を押さえる。


「さっき足を引っ張られたときは、ここ、燃えるみたいに熱かったです。皮膚の下を“何か”が這ってる感じで……黒のざらつきもありました」


「でも今のは、“見られてる”だけで……熱くも冷たくもなかった。触られた感覚も、黒のざらつきもなくて……」


「……ああ。なるほど」


 廉が小さく息を吐く。


「さっきの足ん時のは、“フィアー絡みの線”っすね。黒を道具みたいに握り直したやつの“手”。で、今ここで灯さんを踏んでたのは……黒そのものじゃない。“向こう側”にいる怪異の本体です」


「フィアー……?」


「黒って本来、ただの“現象”なんすよ。恐怖とか痛みの沈殿」


 廉は指先で空中に線をなぞる。


「それを、極端に見えすぎるやつとか、喰うやつとかが、自分の恐怖ごと掴みにいくと、黒が“名前の付いた力”に変わる。それがフィアー」


「使えるようになるまでにも条件いくつかあるんすけど……ここでしゃべると長くなるんで。続きは、ちゃんと生きて帰ってから、っすね」


「勝手に人を分類してんじゃねぇよ」


「いやいや。先輩は典型的な“喰うタイプ”なんで、別枠扱いっすよ」


 軽口めいたやりとりなのに、空気は冷えたままだった。


 紗希の胸には、「さっきの手」と「昨日から見てくる影」がやはり別物だという確信だけが、ひどく静かに残っていた。


    ◇


 放送室前の扉では、音の線が一度だけ結ばれていた。


「ここが“喉の奥”っすね。音が全部、《向こう側》に振り分けられてます」


 紗希の影に、再び“遅れ”が出る。


 今度は——影が半歩、“先に”動いた。


(……黒じゃない。黒なら匂いがある。ざらつきも出る。これは……“観測だけの線”)


 遅れた影に、細い指の影がそっと触れた。


「紗希!」


 恭介が声を張ると、影が本体へ追いつく。


 ただ指先だけが床に残り、ぴくりと震えた。


 扉の窓から覗く放送室は真っ暗。


 スピーカーだけがわずかに“呼吸”していた。


「中……いるな」


「“声”がいます」


 廉の声は震えていた。


——し……


 暗闇の奥から、息の声が返る。


 影は“小さな輪郭”で揺れ、紗希にはそれが一瞬だけ“影の反転”に見えた。


(……影の位相がズレてる)


    ◇


 恭介の視界には線が割れていた。


 一本一本が多重化し、距離感が壊れていく。


(……ちっ、渦眼が持たねぇ)


 段差すら曖昧になり、


 踏み込めば味方を殴りかねない乱視のような歪み。


(このままじゃ、“喰う前に事故る”)


 暴走ではない。


 “見る側”が負けているのだ。


 影は恭介の踏み込みを妨げる“最適距離”を保ち続けていた。


「……今日は、ここまでですね」


 紗希が静かに言う。


「すんません、実は俺も。帯域、限界っす……」


 廉のレコーダーは、何も鳴っていないのに“観測された音”だけで満杯だった。


 恭介は舌打ちし、影の主へ言い放つ。


「……逃がすわけじゃねぇからな、テメェ」


 校舎の喉奥がかすかに鳴る。


「明日、喰ってやるよ」


 それは宣言でも威嚇でもない。


 獲物を見定めた野犬の、ただの事実。


 影は——応えた。


 風もないのに、音もないのに、


 “みてるよ”という意味だけが三人の背中を撫でていく。


(……見てればいい)


 紗希は胸の奥で呟いた。


(明日、ちゃんと“見返して”、書くから)


 遅れていた影が本体に追いつく。


 三人は廊下を引き返した。


 背後で、校舎の喉がまた一度だけ鳴った。


——みてるよ。

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