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10話

 職員室へ向かう途中、廊下の突き当たりにある備品倉庫の前で、恭介が足を止めた。


「……おい。ここだろ、昨日の部屋」


 その扉の隙間から、ひび割れた鏡面が見えた。

 まるで誰かに呼吸されているかのように、ほんのわずか——内側へ“膨らむ”。


 次の瞬間、裂け目から“線の手”が三人へ向けて伸びた。


 最初に狙われたのは紗希。


 足元の影が泡立つように盛り上がり、輪郭だけの指が噴き出した。


「……!」


 実体はないのに、触覚だけが押しつけられる。

 冷たくも熱くもない。“温度という概念”が欠落した触れ方。

 ただ、“見られている粘度”だけが皮膚へ貼りついた。


(……気持ち悪……っ)


 悲鳴より先に、膝が折れた。

 音が半拍遅れて届き始める。

 鏡の奥で聞いた“遅れた世界”が再生されていた。


「灯さん!」

「紗希!」


 恭介と廉の声がずれて刺さる。


 線の手が紗希の影を、ぐい、と引きずった。


(——“中”に、引かれる)


 理解したその瞬間、横から激しい衝撃が走った。

 乾いた“殴打だけの音”が鏡の裏側へ響く。


 線がびくりと震えた。


     *


 フードの影は、伸ばしていた線を慌てて引っ込めた。


(……なんだ、今の……!)


 鏡の境界ごと、黒髪の青年の“影”に噛みつかれた。

 痛みはない。ただ、線の“味”が根こそぎ奪われるような喪失感。


(痛くねぇのに……“喰われた”みてぇなんだよ……)


 胸の奥で、『いい子ね』という声がふっと反響する。

 それが苛立ちを煽った。


(……どっちが“いい子”なんだよ)


 影は息をつき、再び裂け目を覗いた。


 やたら人相の悪い青年が鏡へ拳を振り上げている。

 隣の少女は、何故か“黒の気配を吸い寄せるような”目をしている。

 茶髪の少年は判断不能。


(恭介とか言うやつ、すげえ顔してんな……。

 てか、全員ちょっと怖ぇ顔だ……

 ……まあいい、もう少しだけ見るか)


 細い線が静かに鏡の裏へ降りていく。


     *


 準備室では、一瞬の空白のあと——音が戻った。


「離れろ!」


 恭介は嚙み千切った“線の破片”を吐き捨て、紗希の腕を引き寄せる。

 足首に絡みついた線が、ズルリと剥がれ落ちた。


 床には“影の指先”だけが残って痙攣していた。


 廉が即座にレコーダーを構える。


「今の……完全に“向こう側”の操作ですね。

 こっちの黒の生態じゃない……!」


 恭介は残った指先を靴裏で踏み潰した。


「……覗いてんのに、手ぇだけ突っ込んでくんなよ」


 音にならない悲鳴のような歪みが床から立ち上がり、鏡が震えた。


(……これ、“黒”じゃない)

(黒の扱い方を知ってる“誰か”の……真似)


 鏡の向こうで、誰かが息を吸う音。

 高い帯域のピィ……という音がひとつ立ち上がり、ぷつりと途切れた。


「……逃げやがったか」


 恭介が舌打ちする。


 床の線は、輪郭だけを崩して消えた。


「灯さん、立てます?」


「……はい。大丈夫です」


 紗希の声は震えていない。

 だが紗希の頭の奥には、先ほど裂け目の向こうから滲んだ

“誰かの判定するような声”——『どっちだよ』が薄く残響していた。


     *


 鏡は半分ほどヒビが入り、黒い裂け目だけが残っている。


「完全に“窓”が閉じた感じっすね」


 廉が覗き込む。

 レコーダーは微かなノイズを拾っていた。


「黒の臭いがねぇ。

 さっきの手、クロじゃねぇな」


 恭介が舌で味を探るように言う。


「じゃあ……何なんですか、あれ」


 紗希の問いに、廉は顎へ手を当てた。


「“観測者の釣り糸”ですよ、多分。

 こっちの現象を……“向こう側”からなぞって引き上げるための線」


「向こう、ってどこですか」


「それが分かれば俺も苦労しねぇんすけど」


 軽口でも声は低い。


「黒の帯域を使ってるけど、黒そのものじゃない。

 黒を餌か燃料にして“覗いてるだけ”です」


(吸われたんじゃなくて……触られた……)


 紗希は足首の“視線の跡”に触れた。


「でも、それだけじゃ学校の騒ぎは説明つかねぇよな」


 恭介が壁のメモをつまみ上げる。


〈鏡 遅延〉

〈帯域の抜け〉

〈被験者:佐久間〉

〈準備室→演劇室→放送〉


「……この準備室から、全部始まってる」


 紗希が言う。


「ここで一度、“見られたもの”が混ぜられて……

 それが鏡に流し込まれてる」


「志藤の字か?」


 恭介の問いに、廉が覗き込む。


「いや、これは生徒の字っすね」


 丸いクセのある字。

 演劇部の誰かのものだ。


 紗希の脳裏に、昨日の光景が浮かぶ。

 揺れる鏡を“面白そうに”眺めていた演劇顧問——志藤。


(志藤先生は“録る”人。

 ここを“観測席”にしたのは先生。

 でも……ここで“遊んでた”のは別の人)


 その手元。

 癖のように、指先で机をトン、と一定のリズムで叩いていた音。


(……あの“点”……図書室の床にもあった……

 でも、だからって、決めつけるのは早すぎる)


 胸の奥で、昨夜見た貸出カードの“黒塗りの名前”と結びつきそうになって——

 紗希は自分でその連想をいったん切った。


「犯人は二層ですね」


 廉が言う。


「学校側の“仕掛け人”と……」


「“向こう側の観測者”」


 紗希が続けた瞬間、背筋が冷えた。


(最初から……塔の窓から見てる誰かがいる)


「……で、どっちから片付ける?」


 恭介の声は飽きたようでいて、どこか楽しそうだ。


「向こう側は手が出せない。

 なら、こっちで糸を結んでる“人間”からです」


「鏡を用意した奴と、鏡で遊んだ奴っすね」


 廉の声は淡々としている。


 恭介は鏡へ歩み寄る。


「……聞いてんだろ、“向こう側”の誰か」


 返事はない。

 だが、“聞かれている空気”は確かに残っていた。


「お前の釣り糸、こっちで切らせてもらう」


 拳を振り下ろす。


 ガシャン、と破砕音。

 鏡の破片が床へ飛び散った。


 細切れになった三人の顔が映り込む。

 虹彩のない瞳。

 震えた唇。

 笑っているように見える口元。


 紗希は破片を拾い上げた。


(……“鏡の裏”は閉じた。

 でも——向こうの誰かは)


 破片の中の口元が「みてるよ」と動いた気がした。


 瞬きをすると、ただの反射に戻る。


「灯さん」


 廉の声。


「《鏡の通り道》は全部潰れました。

 でも、犯人探しはここからが本番です」


「はい」


(ここからは、“人間の話”だ)


 紗希は破片を棚に戻した。


(書かなきゃ……誰が、どこから、誰を見ていたのか)


 扉へ向かいかけて、ふと足を止める。


 準備室の隅。

 壁に画鋲で留められた古い行事写真――ぼんやり白飛びした集合写真の端に、小さな“親子の影”が写り込んでいた。


(……これ、何年も前の……? 体育祭……?)


 写真のすぐ下に、小さく貼られた付箋。

 丸い字で《貸出:S》とだけ書かれている。


(S……志藤先生?)


 紗希は眉を寄せた。

 “貸出”と書かれているのに、写真は戻されていない。

 そして、親子の影は――どちらも顔が判別できないほど白く飛んでいた。


(……親戚か、卒業生のお子さん……?

 違う……なんか、ここだけ“抜けてる”)


 脳裏に、図書室の貸出カードの“黒塗りの名前”が重なる。

 子ども向けのシールの跡。

 机を叩く一定のリズム。


(……もし、この“親子”が……先生の——)


 その先の言葉は浮かぶ前に、喉の奥でほどけた。

 証拠もなく決めつけるには、まだ材料が足りない。


「灯さん?」


「あ、はい。行きましょう」


 紗希は写真からそっと視線を外し、二人のもとへ戻った。

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