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9話

 恭介が鉄扉を押し開いた瞬間——

 そこだけ、校舎の時間が止まっていた。


 棚が積まれ、段ボールが三つ。

 照明は正常に灯っているのに、空気だけが沈黙している。


 恭介が一歩踏み込む。


 ——静寂。


 ——そして、一拍遅れて“足音だけ”が返ってきた。


「……今の、俺じゃねぇ」


 恭介は床を睨む。

 黒も、枝も、線もない。

 ただ“世界が返してきた音”だけが、遅れて響いた。


(昨日は“遅れて笑った”。

 今日は“音だけ先に奪われてる”……逆方向……)


「帯域、完全に壊れてますね」


 廉はレコーダーを耳元へ寄せる。

 鼓膜に触れる音の“跳ね返り”が、明らかに正常ではなかった。


「跳ね返り方が異常っす。

 ここ、《向こう側に“聞かれていた場所”》ですよ」


 その瞬間、紗希がそっと息を吸う。

 吸気が先に響き、後から空気が追いかけてくるように揺れた。


「……今、私の音だけ“先に”行きました」


「つまり——向こうの“耳”が、こっちより速いってことっす」


「気色悪ぃな」


 恭介の声は、遅れて返ってきた。


 倉庫の奥で、影が揺れる。

 光源とは一致しない、形だけの影。


(これは“誰か”じゃない……

 “耳を向けられていた痕跡”が、影になって残ってる……)


 ポン、と。

 廉のレコーダーが勝手に点灯した。


 昨日の録音に混ざっていた“濡れた笑い”が流れ始める。

 志藤の声ではない。

 《観測された音》だけが独立して再生されている。


「……続き、見せてぇのかよ」


 恭介が低く言う。


 倉庫は答えず、音だけが歪む。


 ——ピ……ピィ……ッ。


 最後に、小さな囁きが混ざった。


 『み……てる……よ』


 紗希の背筋が、透明な刃でなぞられたように震える。


(鏡と同じ……“観測の声”……

 ……こっちを“探してる”ような……)


「……昨日の《鏡の奥》と、帯域の条件が似てます。

 “誰かが聞きながら覗いてた”痕跡が、ここにも残ってる」


 廉は静かに続けた。


「一番自然にここへアクセスできるのは……

 “音を扱う立場にいた人間”っす。

 放送設備に触れてて、音の通り道も知っていて……

 昨日、あの場にいた人物……」


 紗希が小さく呟く。


「……志藤先生、なの……?」


 胸の奥に、図書室で拾った貸出カードの“黒塗りの名前”が沈む。

 細い指でページをめくるような小さな仕草。

 そして、あの“幼い分類シール”。


(……あれ……

 あの“丸み”……

 《子どもの気配》が、私のほうへ寄ってくるみたい……)


 思考が形になりかけ、その先で霧散した。


「まだ《可能性》っすけどね。

 でも、“音で覗く観測者”としては一番条件が揃ってる」


 倉庫の影が、かすかに揺れた。

 それは存在の揺らぎではなく、**“耳の残光”**だった。


「出るぞ」


 恭介が紗希の袖をつまむ。

 乱暴な動きなのに、不思議と優しい。


 倉庫から出ると——

 廊下の空気が急に乾いていた。


「……壁に吸われてない。

 音が“管”みたいにまっすぐ通ってる」


 廉は天井を見上げる。


「この階層の“音の流れ”、完全に——」


「職員室へ向かってますね」


 紗希の言葉に、廉はわずかに目を見開く。


(鏡の帯域、図書室の紙ログ……

 そして今は、音の“通り道”……

 全部、向こうの“観測の回路”に収束してる……)


「さっすが、《書く観測者》っすよ」


「私は観測者じゃ——」


「いや、そうっす。

 灯さんは、“書いて固定する観測者”。

 昨日も今日も、灯さんが見た“揺れ”は全部記録に残ってる。

 向こうの観測者とは、同期の仕方が違うだけで」


 廉の目が細くなる。


「渦眼って、本来“黒を見る眼”ですけど……

 本質は《観測同期器》なんすよ。


——見ることで“その現象と結んじゃう”眼。

——聞くことで“音と結び直す”耳。

——書くことで“出来事を固定する”、

 ……灯さんのは、なんだ? その、手にしとくか。


 向こうは《見る/聞く》を巧妙に組み合わせて、

 こっちに“思い出させてくる”。」


 廉の説明を聞きながら、紗希はそっと、自分の中で別の像に置き換えてみた。


(……つまり、“ピント合わせ”だ……)


 遠くのものがぼやけて見えるとき、

 カメラのピントをほんの少し回すだけで、

 輪郭が急に“そこにあるもの”へ変わる瞬間がある。


 曖昧な影が、影ではなく“線”として像を結ぶ。

 ぼやけた存在が、観測の一拍で固定される。


 ——渦眼は、その“強制ピント合わせ”をやってしまう眼。


 恐怖のぼやけた形を、

 現実の枝や黒い線として“確定”させる力。


(……なるほど……こわいのに……見えちゃうんじゃなくて……

 “見た瞬間に形が決まる”ってこと……)


 その理解が胸の奥で冷たく沈んだ。

 同時に、どこか少しだけ腑に落ちる感覚があった。


 昨日から感じていた“視線の揺れ”も、

 図書室の紙ログも、

 鏡の遅れも――


(全部、“ピントが強制的に合ってる”……

 向こうの“目”と、こっちの“観測”が……)


 思考がそこまで進んだとき、恭介がぽつりと呟いた。


「……つまりよ。

 それ操ってる“元”がいるってことだな」


 廉が瞬きした。


「……まあ、そうっす」


「で、その蛇口がそいつってわけだ」


 恭介が舌打ちし、犬歯を覗かせて笑う。

 三白眼がギラつく。


「私は、過去にも何度か言いましたけど。

 ……その顔じゃ、誰より先に拘束されますよ?」


「あぁ? なんだその顔って」


「あ、ほら。今も、“喰ってやるぜ、ぐへへ”の顔です」


「……チッ。うるせぇ」


 軽口が響いたのに、廊下は異様なほど静かだった。


 廊下の奥で、

 トン……トン……と一定の“点音”が跳ねた。


 恭介と廉には届かず、

 紗希だけがわずかに肩を揺らした。


(……このリズム……図書室で見たあの点……

 でも……さっきより“近い”……

 呼ばれてる……?)


 考えが形になる前に、消えた。


 そのとき——


 天井の隅で、“存在しないはずの逆さ階段”の影が揺れた。


「……今の、見たか」


「階段……ですよね」


「誘導してやがんな」


(紙は“行動のログ”。

 影は“視線のログ”……

 どっちも向こうの観測の残り香……

 ……じゃあ、この“点音”は……)


 三人はまだ知らない。


 その影が——

 塔の窓から差し込んでいることを。


 そして、その向こう側で

 別の“目”が静かに合図していることを。


(まだ……続きがある)


 三人は職員室の方向へ歩き出した。

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