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ブラックベイン プロローグ

 雨上がりの夜。

 灯紗希は診療所のベッドで目を覚ました。


 腕には点滴。

 喉の奥には、まだ“黒いもの”の感触が残っている。


(……ああ、“また”倒れたのか。私)


 視界の端で、黒い枝のような影が揺れていた。

 目を合わせては駄目。

 やつらは、目を合わせると形を作り、影ではなくなる。形を持ち始めてしまう。

 紗希が寝返りを打つと、今度は視界に点滴の輸液バッグが映りこんできた。


 ――液体の中で何かが。

 なにかが、蠢いている。


 “黒”は、次第に色を濃くしていき、サイズを膨張させていく。

 触手を伸ばすように、先端を作り、それを伸ばして。


 ゆっくりと緩慢なスピードで、チューブに侵入していく。


 液体の中、黒い塊の中央で、ギロリと白い球体が発生する。

 それと、紗希は目を合わせてしまった。


 ――もうやめて。これ以上私を虐めないで。


 恐怖よりも先に、恨みが込み上げてくる。

 どうして私ばっかり、と。


 酷い、酷い。


 「やめて。やめてよ――!」


 その瞬間――、


 窓が開く音。

 冷たい風。

 そして。


「……腹ぁ、減ったな」


 黒い影の向こうから、

 少年――常盤恭介が現れた。


 獣のように乱れた前髪。

 青白い光を宿した瞳。

そして――“喰う”気配。


 恭介は紗希の震えた息のリズムを、一瞬だけ読み取るように目を細めた。


「お前、黒に好かれてんな。随分とよ……!」


 低く呟くと――


 恭介は黒の影へ飛び込み、

 その奥に潜んでいた“クロ”を掴み取った。


 ぐしゃり。

 骨も皮もないはずの黒いものが、潰れる音を立てる。


 恭介はそれを迷いなく噛み砕いた。


(……何……この人……?)


 黒が霧散し、紗希の胸の痛みが嘘のように消える。


 恭介は口元を拭い、紗希の顔を一瞥した。


「……助けたわけじゃねぇよ。

 喰わねぇと、俺が死ぬだけだ」


 その言葉の冷たさが、不思議と怖くなかった。


 窓から入り込んだ夜風が、白いカーテンを揺らす。

 恭介はその影に溶けるように、静かに去っていった。


 気づけば、病室には点滴の滴る音だけが残っている。


(……見られてた……)


 救われた、というよりも――

 あの青白い目に、自分の“中の黒”を覗きこまれていた。

そんな感覚だけが、皮膚の裏に焼きついていた。


 その夜――

 紗希は「救われた」のではなく、「観測されていた」のだと、後になって知る。



 それから――いくつかの季節が過ぎた。


 退院し、通学を再開してからも、あの夜の感触は消えなかった。

 校舎の廊下のどこかで、ふと背筋が冷えることがある。

 視界の端で黒い線が揺れたとき、必ずと言っていいほど――


(……見てる……)


 窓の外、非常階段、校舎の影。

 そこに、あのときの“喰う目”が紛れ込んでいる気がした。


 常盤恭介は、同じ高校の三年生だった。

 授業中に寝ていても、テストの点だけはやたら良いと噂される、

 素行の悪い“問題児の先輩”。


 教室も学年も違うから、直接話したことはほとんどない。

 それでも――


(あの人の声は、なぜか耳の奥に残っている)


 職員室前の廊下で、教師に怒鳴られている低い声。

 屋上に続く階段で、誰かと電話しているぼそぼそした声。

 そしてあの夜の「腹ぁ減った」という声。


 聞いた覚えは曖昧なのに、

 なぜか忘れられなかった。


 そう気づいたころには、

 彼は「退学するらしい」という噂とともに、学校から姿を消していた。


 雨の夜の点滴室も、

 青白い目も、

 喉の奥を這いずった黒も――


 全部まとめて、

 “見られていた”記憶だけが、紗希のなかで静かに沈殿していく。



 診療所での出来事から、数ヶ月後。

 灯紗希は、学校からの帰り道を歩いていた。


 雨の湿り気はまだ残っている。

 あの日の黒の気配も、薄く肌に張りついたままだ。


(……あの人、本当に何者なんだろ)


 もう学校の先輩ではない“先輩”。

 けれど、頭の中で呼ぶときは、つい「常盤先輩」となる。


 スマホが震えた。


 表示されたのは――見覚えのない番号。


「はい、灯です」


『……灯か?』


 低い声。

 耳の奥にこびりついていた、あの声。


「常盤先輩……? どうして番号……」


 ――そういえば。


 父が退院の挨拶のとき、

 紗希の番号を書いた紙を、勝手に恭介へ押しつけていた。


 あの夜、父は病室の外でずっと待っていた。

 廊下を歩く恭介を見ても、ただ

 「娘の様子を見に来たのか」としか思わなかったらしい。


 黒も渦眼も、父には何ひとつ見えていなかった。

 それでも紗希の容態が急に良くなったのを見て、

 父は雑に「この兄ちゃんは信用できる」と納得した……そんなことを言っていた。


(冗談にしか聞こえなかった……)



『いまそれどころじゃねぇ! ……道、わかんなくなった』


「……はい?」


『お前ん家の喫茶店の近くまで来てんのに……

 同じ電柱を三回見た』


(方向音痴……?

 でも、“線が歪む”って、どこかで聞いた気がする……)


そんなことをぶつぶつと呟きながら徘徊している怪しい人、としてクラスメイトの女子の間で話題になっていた。


「GPSは使いました?」


『使ってる! でも……地図がぐにゃってんだよ!

 黒の“線”のせいか……分岐が……うるせぇ……クッソ……』


(いや、方向音痴の言い訳では……)


 紗希はため息をついた。


「分かりました。迎えに行きます」


『すまねぇ……』


 言葉は荒いのに、どこか素直だった。

 電話越しでも、あの“喰う目”に見られている気がする。



 待ち合わせ場所に向かうと――


 恭介はコンビニの前で、明らかに不機嫌そうに突っ立っていた。


 紗希の姿を見つけると、なぜか“強気なポーズ”になる。


「……ちょうどいいとこに来たな」


「迷ってただけですよね?」


「迷ってねぇ!

 黒の線が……その……分岐してて……」


(言い訳、雑……)


 紗希は無言で見つめる。


 数ヶ月のあいだに、

 学校や診療所や〈灯〉の近くで何度か顔を合わせてきた。

 あの夜の怪異のことも、黒のことも――

 互いに、何となく“知っている”相手になっていた。


 だからこそ、彼の視線は、

 “知らない人”のものよりよほど落ち着かない。


 恭介は目を逸らし、ぼそっと言った。


「……案内しろよ」


「はいはい。こっちです」


 二人は並んで歩く。

 しかし、恭介はなぜか半歩後ろ。


「常盤先輩、もっと近く歩けば?」


「お前、歩くの速ぇんだよ」


(……犬……?)


 紗希は、ちらりと後ろを振り返る。

 半歩後ろからついてくる視線は、

 やっぱり“観測している目”のままだった。


 そんな掛け合いをしながら、

 二人は喫茶店〈灯〉へ向かった。



 〈灯〉は夕暮れの静かさを取り込むような店だった。


 アパートの一階。

 オレンジ色の照明。

 だけど――何かが“白くならない”。


 空気が妙に冷たく、

 カウンターの影だけが濃い。


 恭介は店内に足を踏み入れた瞬間、眉をひそめた。


「……ここ、“線”が溜まってんな」


「地脈、って言うんですか?

 父の店、昔から“怪談が集まる”って言われてました」


「そりゃそうだろ。

 黒が発生しやすい“たまり場”だ」


 紗希の胸が静かに脈打つ。


(……また、始まるのかな)


 カウンター越しに、あの夜と同じ青白い目がこちらを見る。

 病室とは違う、柔らかい照明の下でも、

 “観測されている”感覚は何一つ薄れていなかった。


 恭介はカウンターに腰を下ろし、ぼそっと言った。


「……お前、黒に触れやすい体質なんだろ」


「分かるんですか?」


「分かる。喰った黒が教えてくんだよ。

 ――お前の“味”を、な」


「味!?!?」


「比喩だよ。比喩」


(比喩に聞こえない……)


 二人の距離は妙に近く、

 妙に遠い。


 紗希の影が、半拍遅れて揺れた。

 次の瞬間――店の戸が鳴った。

 カラン、と雨を連れた音。

 〈灯〉に、夜がもう一度入り込んでくる。

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