近くて遠い己の心
人間不信とは死に至る病だと、私は考える。
つまり人間は誰もかれもが自分に嘘をつき、自分を軽蔑しているという思い込みを自分自身に課して人生の終わりを迎える事を切望する生物なのだ。
信頼を実感する為には、信頼そのものを失う体験をしなければ本当の意味で他者から信頼されているという実感が得られないということなのだろう。
逆説的に考えると、現代人の多くは成功しかしない人生を送ろうとする。
この場合、失敗する事など論外であり、あらゆる選択肢における失敗は人生最大の禁忌ともいえよう。
実際に私自身、昔前のコンピューターゲームみたいな話だと思う。現実という物は白と黒で塗り分けできるほど単純なものではなく、多くの要素が複雑に絡み合って多くの場合は選択を鈍らせ、混沌とした状況を作り出している。
簡単に説明するとよく考えるよりも思い切って決断する方が時間の節約になるという話か。
とにかく人間という生き物は有史以来、この玉虫色の世相に決まりきった筋道を見出そうとして失敗しているように、私は感じていた。
順序立てて、常に周囲を整理しつつ物事に取り組めばおそらくはこのような煩雑な事態からは解放されるだろう。
それを憎悪、嫌悪、嫉妬だのと一時のつまらない劣情に惑わされて誤った道を辿るのは真っ当な人間として如何な物だろう。
多くの場合は暗愚な感情という物は単なる思い込みであり、最初からこれらを整理して考えて行けば自分から切り離して考える事も可能なはずだ。
まあ、それでもつまらない劣等感につき合って限りある時間を潰したいというならば止めはしないが。
そこは自己責任という事にしておこう。
失敗したくない、無様を演じたくないというならインターネットに溢れた知識を吸収して然るべき対応をすればいい。
また負の感情論に囚われたくなければ、前述の通りにインターネットに散らばっているストレスの解消方法を参考に、自分に合った方法を見つけ出して実践すればいいだけの話だ。
こうなると人生というものは如何にやる事が多く、思考停止している時間が如何に無駄で無価値な物かを思い知ることになるだろう。
今さらだが我々に与えられた時間は出生から始まってせいぜい百二十年程度。宇宙の成り立ちから見れば実に短い期間なのだ。
話を始めに戻すが、人間不信とはその多くが自分を取り巻く周囲の状況が把握できていないことに要因があり、これらをよく観察して、見分し、熟考した上で解決に乗り出すのがよりよく生きる為の骨なのだろう。
だが言うは易し、為すは難しという言葉のように実践するにはかなり苦難を強いられる。
精査すると普通は難解なのだ。
多くの人間が語る普通とはせいぜい普通未満で、本当の普通には達していない。
故に普通未満同士がぶつかり合い、状況を混沌とさせて未解決のまま人間不信だけが増大する。
多くの人間はこうして正気を失っていくのだろう。
私とて並以下の人間という自覚があり、人生の途上でこれらを解決できるとは思っていない。
おそらく釈尊や孔子、老子でも成しえない難題に違いあるまい。
また人を疑う事は精神の成長にも繋がるので、一概に人を疑うなとも言えない。
我々の出来る事は人を疑い、時には信じて寄り添う、或いは人間関係そのものを解消して行くことぐらいなものか。
薬も過ぎれば毒となるとはよく言ったものだと思う。
結びとしては、やはり人間不信を回避する方法は無く、あくまで通過儀礼として存在するという程度に考えるのが妥当なのだろう。
我々は全能ではないし、全能になってはいけないのだ。
全生物にとって死が不可避な事物であるように、また人間不信もまた決して避ける事が出来ない障害物なのか。
それを乗り越えるのか、立ち止まって無為の時を過ごすのかはその人の知性に判断を委ねることになるのだろう。
つまり人を許す、許さないの話をする前に何故そうなったのかを順序立てて考える方が得策なのだ。
くれぐれも注意しなければならないのは判断を早まらない事だ。
先にも言ったが人生とは一方ならぬ複雑怪奇な道のりなのだ。
どこで人生を左右する場面に出くわしているかなど、きっと神様にもわからないだろう。
そして私がさっきのMJという麻雀のゲームで三連敗した挙句、段位を一つ落としてしまったのはあくまで状況を整理して考えた上での高度な判断の産物であり、けっして私が麻雀弱いというわけではない。
そう誰だって三と一のマンズが捨てられていれば二は大丈夫と考えるはずだ。
まさかそこから純チャン、ドラ3などとは誰も考えはしない。
いや神にだってきっと考えつかねえだろ。
おい、セガの担当者っ‼そうだよな‼俺は負けちゃいねえっ‼
俺はいつだって最高なんだ‼
クソッ‼これも全部神が悪いっ‼