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例え貴方が違っていても

作者: 入多麗夜

 乾いた風が、午後の石畳を撫でていく。

 春のはずなのに、どこか寂しげな風だった。あちらこちらの路地では、露店の布が揺れ、鳴り物の音が遠くにかすかに響いている。


 城都から南へ三日の旅路を行ったこの町――エルヴァルト。小さく、穏やかで、人々は互いの名を知る。だがそれは、かつての彼女がいた世界とは、まるで違っていた。


 レティアーナは、通りの隅の果物店で、赤く熟した林檎に手を伸ばしていた。

 籠には既にいくつかの野菜が収まっている。夕餉の支度のため、今日もまた、ただ同じように日が暮れていく。

 そんなささやかな日常を、彼女は五年間、ひとりで保ち続けてきた。


 ――あれ以来、ずっと。


 手に取った林檎の冷たさが、ひどく鮮明に指先に伝わった。

 彼の名を最後に聞いたのは、もう五年前。


 婚約破棄の知らせは、公的な文書一通で済まされた。理由の記載も事務的で、容赦がなかった。


 だが、彼女は知らなかった。

 それが――彼なりの「別れ」だったことを。


 そしてその数か月後、戦場で王太子アレクシス戦死の報が届いた。

 戦果は上々と聞いていた。だが、彼の乗っていた騎馬が流れ矢を受け、谷底へ転落したという。


 遺体は発見されず、王族の記録にただ「戦死」と記された。それだけだった。


 ――どうして、あの時、彼は何も言わなかったのだろう。なぜ私でなければならなかったのか。なぜ私ではなかったのか。


 問いは、いつしか問いであることをやめた。

 時間は全てを曖昧にし、感情さえも風化させる。

 だから今、こうして小さな町で、名も伏せて、ひとりで生きている。


「お嬢さん、袋にお入れしますか?」


 店主の穏やかな声に、レティアーナは顔を上げ、ふと笑みを浮かべる。

 いつも通りのやりとり。言葉を交わし、代金を払い、紙袋を受け取る。


 そのときだった。


 視線の先、並ぶ屋台のひとつ――果物を並べる台の前に、一人の青年が立っていた。

 レティアーナが離れようとしたその刹那、彼は林檎の山に手を伸ばす。


 その手つきが、ふと、彼女の記憶を打った。

 林檎をひとつ取り、そっと重さを確かめるように掌の上で転がす――

 まるで昔の彼と同じ、あの癖。


 風が通り抜ける。

 そして、青年が何気なく顔を上げた。


 目が合った。


 灰銀の髪。まっすぐな輪郭。あの頃と変わらぬ、穏やかで、どこか憂いを帯びた瞳。

 瞬間、胸の奥が冷たくなった。


「……アレク……シス……?」


 あの声。あの姿。

 そう、死んだはずのアレクシスがそこに立っていたのだ。


 カゴが、手の中で音を立てた。林檎がひとつ、ころんと揺れて転がる。

 視線を逸らすことも、声を呑み込むこともできなかった。


 ――亡霊を見ているのだろうか。


 いや、彼は確かに、そこにいた。

 風に揺れる外套、日差しを受けた髪、ほんのわずかに傾いだ首の角度まで、アレクシスそのものだった。

 幻にしては生々しすぎる。けれど、本物だと信じるには、あまりに唐突で、理屈に合わない。


 目の前の青年が、ゆっくりと歩み寄ってきた。

 だがその瞳には、どこか見知らぬ様子があった。


「……どうかしましたか?」


 知らない声。けれど、知らないはずのない声。


 レティアーナは、すぐに言葉を返せなかった。

 視線を逸らそうとしたが、できなかった。


 目の前の青年は、不思議そうに首を傾げる。戸惑っているのは彼の方で、声をかけたのはこちらなのに、胸の奥がざわついて仕方なかった。


「……いえ。すみません、人違いを……」


 ようやく絞り出した言葉に、青年はほんの少し目を見開いた。

 

「よくある事ですよ。誰かを待っていたのですか?」


 林檎を紙袋に入れながら、彼は肩をすくめて笑った。

 その仕草がまた、胸を突く。


 レティアーナは、ためらいがちに口を開いた。


「……あなたのことを、少し、うかがっても?」


 青年――彼は一瞬だけ、戸惑うようにまばたきした。


「僕は……セイルって呼ばれています。旅の途中なんです。商人をやっていて」


 その言葉に、レティアーナの胸がきゅうと締めつけられた。


 ――やっぱり、そうなのだ。


 名も、過去も、何もかもを忘れて、それでもどこかで疲れた心を休めに来た人。そして、目の前にいるその人は、かつて自分の婚約者だった男――アレクシスその人に、あまりにもよく似ていた。 


 でも、確証はどこにもない。


 「……静かで、いいところですよね。この町は」


「そうですね。町の人たちも親切で私も……」


 話は途中で途切れてしまう。

 何と言えばいいのか分からなかった。


 レティアーナはわずかに顔を下げた。


 たとえ、彼が違っていても。

 その微笑みだけは、どうしても見過ごせなかった。




 ◇




 その日の夕刻。

 小さな酒場の片隅で、二人は向かい合っていた。


 昼間の出会いの後、別れる間際に何気なく交わした言葉が、思いのほか名残を残したのだろう。

「よかったら、またどこかで」――そんな曖昧な提案を、レティアーナは本気にはしなかった。


 けれど、その場を離れてしばらくして、ふとした拍子に再び顔を合わせた彼と、自然な流れで約束のようなものが生まれた。


 話が思いがけず盛り上がったこともあり、それなら、と街の傍にあるこの酒場で、もう一度だけ会うことになったのだ。


 天井は低く、灯りは控えめ。あまり綺麗とは言えないが、どこか安心できる空気があった。


 常連らしい客たちが、馴染みの調子で酌を交わし、奥の炉では簡単な焼き料理が香ばしい匂いを放っている。


「何か、すみませんね。本来なら男である自分が奢らなければいけないものを」


 セイルは、少し気まずそうに笑った。

 遠慮がちだが、それでもどこか率直で、気取らない物言いだった。


「そんなことないわよ。こう見えてちょっとはお金持っているから」


 レティアーナも冗談めかして返す。

 けれどその笑みの奥には、誰にも見せぬ過去があった。


 ――実はレティアーナは、婚約破棄を宣告された後、失意の内に王都を離れた。

 家に迷惑をかけぬよう、正式な手続きを経て、自らの持ち金の分だけを引き出し、それを手に一人、この町へと移ってきたのだった。


 誰にも知られず、誰の名も借りず、ただ自分の名も身分も伏せて、日々を積み重ねてきた。

  それが、赦される唯一の“逃げ道”だった。


 だからこそ、こうして誰かと他愛ないやりとりを交わせる時間が、どこまでも貴重に思えた。


 グラスに注がれた淡い色の酒を少し口に含み、彼女はちらりとセイルの方を見る。

 彼もまた、肩の力を抜くように息を吐き、背凭れに軽くもたれかかっていた。

「……ああ、こういうの、いいですね」


 彼がぽつりとつぶやく。


「こういうの?」


「なんていうか……名前も知らない誰かと、気楽に話ができる時間、というか」


「名前、知らなくても?」


 レティアーナの言葉に、セイルは笑った。


「ええ。それに旅には出会いと別れが必要なものです。この街に来たのも貴方に会えたのも何かの縁です」


 その声音に、軽やかな響きはあるのに、不思議と胸の奥に余韻が残った。

 何気ないはずの言葉。けれど、それはかつて誰かが、まったく同じように口にしていた言葉と、よく似ていた。


 ――王太子アレクシス。


 彼が、まだ王の責を課される前。

 ただ一人の青年として夢を語った夜があった。


 『本当は、旅商人になりたかったんだ。馬車ひとつでどこまでも行ける世界の方が、僕にはずっと近くて、ずっと憧れだった』


 星の下、静かな石畳の庭で、彼はそう言った。

 広い世界を渡り歩く人になりたい。どこかで、誰かに会って、誰かと別れて、また次の町へ。

 

 目の前の“セイル”を名乗る男がアレクシスだとしたら、彼の叶わなかった夢は皮肉にも今、姿形を変えて叶っていたのだ。


 レティアーナは、グラスを持ったまま視線を落とした。


「……きっと、縁なんでしょうね」


 それだけを、まるで答え合わせのように呟いた。

 この再会が偶然であろうと、あるいは運命であろうと――今は、まだ、確かめるべきではない気がした。







 それは、初夏の兆しを含んだ風が吹くある日のことだった。


 午後の陽が傾きかけた通りを、レティアーナが歩いていると、いつものように、あの人がいた。

 木陰に立ち止まり、小さな荷を背負った旅人たちに道を尋ねられていたセイルは、にこやかに応じながら、何か地図のようなものを手渡していた。


「……本格的に、この町に腰を落ち着けることにしました」


 挨拶のあと、そう告げられたとき、レティアーナは思わず足を止めた。


「滞在を、ということですか?」


「ええ。もともと、この町は交易路の分岐点に近いんです。ここを拠点にした方が、あちこちの品を動かしやすくて」


 そう言って、セイルは笑った。


「……どうしてか分かりませんが、こういう暮らしが自分には合ってる気がするんです」


 セイルは、窓の外に目をやりながら言った。


「馬車で町を移って、荷を運んで、人と交わって――そんな日々が、昔からそうだったような気さえして」


 レティアーナは返す言葉を探しながら、彼の横顔を見つめた。

 記憶を失ったままの“今の彼”が、少しずつ“彼自身の人生”を歩み始めている。

 それが、なぜか嬉しく、そしてほんの少しだけ寂しかった。


「……そう、良かったですね」


 それは心からの言葉だった。

 

 するとセイルは、ふっと笑った。

 それはレティアーナが知っている、かつての“彼”によく似た笑い方だった。


「なんだか、変ですね。自分が自分である理由なんて、考えたこともなかったのに……それでも前に進もうと思えるんです。今はただ、それが不思議なくらいで」


 それは、確かに“生きている人間”の言葉だった。

 過去に囚われず、ただ今を歩いている人の声。


 レティアーナは、グラスを軽く揺らした。

 沈黙が落ちたテーブルに、氷の音が控えめに響く。


「……それは、きっと素敵なことだと思います」


 その声はかすかに震えていたけれど、セイルは気づいたふうもなく、ゆったりと頷いた。

 やがて、灯りの揺れる窓の外で、風が通り過ぎていった。


  それからしばらくの間、セイルは町に留まった。

 日用品を扱う簡易な露店を借り、行商人としての仕事を本格的に始めたのだという。

 馬車ではなく背負い袋ひとつ。それでも、彼の扱う品は丁寧で、言葉には誠実さがあった。

 次第に町の人々の間にも彼の姿は馴染んでいき、誰もが「感じのいい商人」として受け入れていた。


 レティアーナもまた、必要があって通りを歩くたびに、どこかで彼の姿を見つけるようになった。

 最初は偶然だと思っていた。けれどある日、自分の足がその通りを選んでいたことに気づいて、静かに立ち止まった。


 ――また、今日も……。


 声をかけることはなかった。ただ、遠くから見つめるだけ。

 荷を並べる手つき、客に笑いかける声。

 どれも懐かしく、どれも今の彼そのものだった。

 けれど、そこに“私”の居場所がないことだけは、はっきりしていた。


 レティアーナは思った。

 過去を取り戻さずに、彼がこの町に“今の自分”として根を下ろすなら、それもひとつの生き方だと。

 そして、自分がその傍にいられることが、一時の夢だったとしても――

 それでも、きっと、意味はあったのだ。







 ある日の午後、風が少し冷たく感じられたその日。レティアーナが広場を通りかかると、ちょうど荷を片づけ終えたセイルが背を向けて馬車の前に立っていた。


「こんにちは」


 声をかけると、彼はゆっくり振り返り、少しだけ顔をほころばせた。


「お疲れさまです。……今日は、早仕舞いなんですか?」


「ええ。実は、少し遠出の準備をしなければならなくて」


「遠出?」


 その言葉に、レティアーナの心が一瞬だけ波立つ。


「次の市場が開く町があるんです。数日かかりますけど、出るなら今しかないかなと。……そろそろ潮時ですしね、この町も」


 淡々とした口調だった。

 ただの商人が、ただの理由で町を発つ。

 それだけのことなのに、レティアーナの胸に冷たい風が吹いたようだった。


「いつ、行かれるんですか?」


「……明日の朝です。夜明け前には、出ようかと」


「そう……ですか」


 それ以上、言葉は出なかった。

 言おうと思えば、いくらでも言えた。

 「行かないで」と、ただその一言を。

 けれど、その一言が口からこぼれてしまえば、何かが崩れてしまうような気がして――レティアーナは、そっと視線を伏せた。


 彼女はアレクシス――いや、セイルの今の夢を壊したくなかった。


 かつてすべてを捨てて姿を消した彼が、今こうして自分の足で歩き、知らない土地で人と出会い、笑っている。そんな充実した毎日を引き留めるのはあまりにも酷だろうと。


 沈黙の間に、通りを走る子どもたちの声が遠ざかる。

 レティアーナは小さく笑みを浮かべた。


「……明日、気をつけてくださいね」


 それだけが、彼女の選んだ最後の言葉だった。

 セイルは、まるでそれで十分だとでも言うように、小さく微笑んで頷いた。


 





 朝靄の立ちこめる町のはずれ。

 太陽はまだ顔を出しておらず、空はうっすらと淡い藍に染まっていた。


 馬車の車輪が静かに軋む音が、誰もいない道に低く響いている。

 セイルは、町の門の前で最後の確認をしていた。荷の紐を締め直し、馬のたてがみをそっと撫でる。

 町に溶け込んでいた彼の姿が、今はどこか遠くへ行こうとする人間のものに変わっていた。


 その背中を、少し離れた石畳の角から、レティアーナは静かに見つめていた。


 声は、かけなかった。

 ただ見送ると決めていたから。

 あの夜、何も告げずにいなくなった彼を、今度は、自分の手で見送ってあげたかった。


 風が吹く。

 セイルが、ふと気配に気づいたように振り返った。


 だが、そこに誰かがいることには気づかなかったのか、それとも気づいていたのか――

 彼は小さく目を細め、それから、何かに応えるように微笑んだ。


 その笑顔は、まるで「ありがとう」と言っているようだった。


 レティアーナは手を胸に当てる。

 涙は出なかった。ただ、どこか胸の奥が温かくて、痛かった。


 彼が記憶を取り戻すことはなかった。

 でも、もうそれでよかった。


 “アレクシス”としてではなく、“セイル”として歩んでいく彼の人生が、どうか幸せであってほしい。

 彼の夢が、今度こそ、どこまでも続いていきますように。


 馬車が動き出す。

 ゆっくりと、石畳を軋ませながら、町の外へと向かっていく。


 レティアーナは、目を閉じた。

 そして心の中で、誰にも届かぬように、かすかに呟いた。


 ――たとえ、貴方が違っていても。私は、あなたを愛していたと。

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