苦いコーヒー
子供の頃『コーヒー』というのは大人が飲む物、というイメージだった。
大人になれば、いつか自分もコーヒーが飲めるようになる。そう思っていた。
けれど、二十歳を超えても、苦いものは苦いままだった。
ただ、いつからか、ほんのり芳ばしい、その香りが好きになった。
だから、コーヒー味のチョコだとか、飴だとか、そういった物なら好んで口にした。
砂糖と牛乳をたっっっぷり入れたコーヒー牛乳なら美味しく飲めていたが、それでも小さなパック一つ分も飲めば、胃が痛んだ。
おそらく、自分には向いていないのだろう。
若い頃は「子どもだ」などと揶揄われもしたが、四十歳にもなればそんな事を言うやつもいなくなった。
それでも俺は、コーヒーが、飲めるようになりたかった。
君は、コーヒーが大好きだったから。
二人で喫茶店に入れば、俺はジュースで、君は決まってコーヒーだった。
店員は大抵何も聞かずに、君にジュースを、俺の前にコーヒーを置いていった。
俺の前に置かれたコーヒーからは、ふわふわと湯気が立ち上り、良い香りが漂っていた。
こんな風に暑い夏の最中なら、こっくりと蕩ける色の中に、氷がたくさん積み上がっていて、ストローでちょっかいをかければカラカラと涼やかな音を立てるのだろう。
……そう、ちょうどこんな風に。
俺は、卓上の二つのコーヒーのうち、片方を手に取りストローをくるりと回してみた。
うん、やっぱり、間違いない。これはコーヒーだ。
アイスコーヒー以外の何者でもない。
「なんで、コーヒーが二つでジュースが二つ……?」
尋ねれば、君は子ども達が食べやすいように昼食を取り分けながら、向かいで苦笑する。
「うーん、聞き間違えられちゃったかな?」
休日の、大型ショッピングモールのフードコートは大変混雑していた。
「こういうこともあるよ」と君は笑うが、俺は喉が渇いていた。
「レシートある? 交換してもらってくるよ」
俺が席を立とうとすると、君は無邪気に言う。
「コーヒー飲んでみたら? 美味しいよ」
飲んだことがないわけではない。
これだってきっと、たっぷりシロップを入れれば飲めるのだろうが、その後胃が痛むのが分かっているのに、無理をするほどの状況ではないだろう。
俺が、むっとした顔をしてしまったのか、君はパタパタと手を振って前言撤回する。
「ごめんごめん、新しいの買っておいでよ。これは私が飲むからさ」
アイスコーヒーはプラスチックのケースに入って、蓋がついていて、これなら確かに、帰りに車で飲んでも良いだろう。
忙しい昼時の店では、交換を頼むより、新しく買う方が早く済むかも知れない。
「二つも飲んだら、胃が痛くならないか?」
俺の心配に、君はケラケラと笑って「大丈夫よー」と答えた。
そうか。大丈夫なのか。
俺は、それをきっと、三分の一も飲めば胃が痛くなるというのに。
君はそれを、二杯飲んでも平気なんだな……。
苦い思いを噛み潰しつつ、俺は席を立つ。
その背に、ちょっとだけ焦った君の声がかかる。
「早くした方がいいよ、ちーが暴れるから」
言われて、俺は三秒ほど悩んでから、ジュースを諦めて水を汲みに行った。
上の子は待てるだろうが、下の子はイヤイヤ期真っ最中で、食事が完了次第フードコートからは離れた方がいい。
水を汲んで戻れば、上の子が「おとーさん、僕のジュース分けてあげようか?」と声をかけてくれた。
「いや、良いよ、それはお前が……」
顔を上げれば、そこには、平気な顔でコーヒーを飲む息子がいた。
「!?」
「ええと……、あなたが席を立ってすぐ、この子が『コーヒーって美味しいの?』って聞くから、ちょっと飲んでみる? って……」
何だか申し訳なさそうに言う君の、その『申し訳なさ』は何に対してなのか。
「……苦くないのか?」
俺の問いに、息子は笑って答えた。
「うん、コーヒーって美味しいね!」
そうか。……苦い思いをしてるのは、俺だけか。
ごくごくとコーヒーを飲む息子と、俺の手に回ってきた飲みかけのジュース。
おそらく息子は、君に似て胃が痛くなることもないんだろう。
俺はそう思った。