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人の数だけあるトラウマ

 ————その日、それ以降のことはよく覚えていない。

 ただ一つ記憶に残ってるのは、翌朝になったら「ごめん」という一言が書かれた紙きれが、出しっぱなしのちゃぶ台の上に置かれていたということだけ。

「…………」

 そんな紙切れを床へ仰向けになって寝転がって、天井にかざして眺めていた。

「————俺って、クズ人間だったんだな……」

 天井にかざした紙切れに向かって、語りかけるようにそう呟く。一晩経って今更、後悔が波のように押し寄せてくるが、それと同じくらいの虚無感もある。

 太知に、俺が描いた絵を「好き」だと言われた時は。とても嬉しかったはずだ。

 なのに昨日、俺はそれを全部否定して、あろうことか太知を傷つけた。

「————どーすりゃよかったって、言うんだよ……っ」

 太知を傷つけるようなことを言った後悔と、それでも今の自分は全く描けない現実に。

 謝ることも、絵を描くことも出来ない俺はただ嘆くだけで。もう朝からずっと眺めている、太知の残して行った紙きれを空虚に眺め————。


 天井へと伸ばした手から力を抜き、床に叩きつけるように腕を倒した。


   ◇


「姉御、三千喜君どうでした?」

「————うん」

 お昼と呼ぶには少し遅い感じのする、午後三時。三千喜君の家に行ってたはずの姉御に呼び出されたウチは、近所のファミレスに来ていた。

「……姉御? ウチの話、聞いてます?」

「————聞いてるよ」

 姉御はそう返してくるものの、多分まともにウチの話を聞いてはいない。ドリンクバーから持ってきた、メロンソーダに差したストローをくるくる回しては「カランカラン」と小気味のいい音を出している。

「……どーしたんですか、姉御。そんな浮かない顔しちゃって。らしくないですよー?」

「————————」

 ついに相槌すら返ってこなくなり、依然として氷をストローでつつく姉御。

 話したいことがあると言ってきたのは姉御の方なのに、一言も喋ってくれない。こうなるともう、ウチが姉御の喋りたいことを察してあげるしかないのだけど、流石にしんどい。

 今回はまぁ、前日に三千喜君の家に行ってたことを知ってるから、そこで何かあったんだろうなと想像することは難しくないけど。

「はあぁぁぁ……。————昨日、三千喜君の家で何かあったんですね?」

「————! 何で知ってんの……」

「昨日、姉御が自分から教えてくれたんじゃないですか。そのことも忘れてたんですか? 全くもー……」

「————ごめん」

「謝らなくていいですから。それで————? なにがあったんです?」

 三千喜君の家に行ったことは知っているけど、そこで何があったかまでは知らない。だけど、姉御の様子から察するに、嬉しいことじゃないのはなんとなく分かる。

 となると多分、喧嘩したとか言い争いになったとか、そんな感じのことだろう。最近三人で集まることも無かったし、お互いに少しすれ違ったくらいかな。

 ————と、そんな風に私は予想したのだけど。

「その————アタシ……。そーやのことを待たずに、企業Vチューバーになろうと思ってる」

「……え————ッ⁉」

 姉御の言ったことが予想外で、私は思わず聞き返した。

 ウチや三千喜君がどれだけ言っても「そーやの絵がいい!」としか言わなかった姉御が。今更になって企業Vチューバーになると言い出してきたのは、いったいどういう風の吹き回しなのだろう。

 しかも、しっかり「そーやのことを待たずに」と言ってるあたり、それを選ぶということがどういうことかも理解しているはず————。

「あ、姉御……本当にいいんですか? あんなに三千喜君の絵が好きだって言ってたのに————」

「————うん。もういいから」

 少し俯きがちに言った姉御の様子を見るに、今言っていることは本心じゃなさそうな気がする。だけど、姉御がVチューバーになるならあと一カ月しかないわけで。

 言いにくいけど、いつ描けるようになるのか分からない三千喜君を待つより、先に企業Vチューバーになっておいた方がウチはいいと思う。

 そう……思ってはいるんだけど。なんとなく投げやりになっている姉御の様子を見たら、このまま企業Vチューバーになっても後悔しそうな気がして。

「……自己紹介動画を作って、企業に送ったら書類選考が始まります。そうなったらもう、引き返せなくなりますけど————それでもいいんですか?」

 どっちを選べばいいのか、なんてウチが決められるはずもなく。そもそも、この問題は姉御が考えるべきでウチはアドバイスしか出来ないし……。

 念を押すように確認を取ると、姉御は声を発さず静かに頷いた。

「……分かりました。じゃあ早速、姉御の家で自己紹介動画を作りましょっか!」

 自己紹介動画を作るなら、少しでも相手によく思って貰った方がいい。そう思って、沈み切った姉御の気分を上げる為にあえて明るく言ってみたけど。

「————そうだな」

 明るいの「あ」の字も無い、聞いてるこっちまで気分が沈む暗い返事が返ってきただけだった。


   ◇


「ん~……おっかしいなぁー……?」

 姉御の家にお邪魔して、なぜかウチが上がっても何も言わなかった姉御のお母さんに疑問を抱いたのも束の間。

 出来上がった自己紹介の動画を見て、ウチは思わず首をかしげて唸ってしまった。

「————茜? なんか変だった?」

「あ、いえ。心配しないでください、取り直しが必要とかじゃないです」

「……じゃあなんで、そんな不思議そうに唸ってんの」

「え、いやぁ……その、ウチの想像と全然違ったので————」

 ウチの態度に疑問を感じた姉御に、ウチの考えが悟られないように。苦し紛れの笑いを顔に張り付けて、何とか誤魔化そうと試みる。

「————そっか。なら別にいい」

 それを聞いた姉御は、「別に最初から気にしてなんかいなかった」と言わんばかりにそう言って、ベットに仰向けになる。そんな姉御の様子に、ウチはほっと胸を撫で下ろす。

 自分でも言っていて「苦しいな」と思う誤魔化し方だったのに、それでも誤魔化せてしまうあたり姉御は単純な生き物なのかもしれない。

 ……まぁ、今回はウチより気になることが姉御の頭にあるせいだろうけど。

「————それにしても……」

 ウチの思惑を誤魔化せたことに安堵するのも程々に、出来たばかりの自己紹介動画を見返す。

 そこには、ファミレスでのやり取り含め苔の生えそうな雰囲気の姉御……ではなく、配信者として恥ずかしくない、明るく振舞う姉御の姿が映っている。

 そして、これが不思議なことに「無理している」感じが全くしない。

 普通、気分が落ち込んでいる人が無理に明るく振舞ったとしたら、どことなく「無理してそうだな」と相手に感じさせてしまうのに。動画の姉御をいくら見返してもそんな風には見えない。それがとても腑に落ちなくて、ウチの頭は混乱している。

 だって、動画から目線を上げて姉御の方を見れば、お気に入りのぬいぐるみを抱きかかえてベットに仰向けになっている姉御の姿が見えるんだもの。

そんな姉御の様子は明らかに「悩んでいる」しかない。それも、昨日のことで。

だというのに、動画の中の姉御はそれを全く感じさせない程の明るさで。いつの間に、こんな器用な芸当が出来るようになったんだろか。

いや、姉御にそんな器用な芸当が出来るはずも無い。それは間違いない。

……となると実は、昨日の出来事は悲しいものじゃなかった、とか?

何らかの話し合いの結果、姉御が三千喜君にお願いするのを諦めて、企業Vチューバーになると決めた。それはあってるはず。

で、ウチはファミレスの姉御の様子からして喧嘩したのだろうと思っていたけど……実は違ったとか。例えば、姉御の要求が別の形で満たされることになったから、なんて。

「————……はっ‼」

 ぐるぐると頭の中で考えながら、ベッドに横たわる姉御を眺めてふと思いついた。

 ————まさかまさかまさかまさか! 二人が付き合ったとか⁉

 昨日の話し合いで、なんやかんやあって「絵は描けないけど付き合うことならできる」的な流れになって、姉御がそれを認めちゃった、とか⁉

 ……でも、それなら辻褄は合う。

 ファミレスの時の悩ましい表情も、今の思い悩んでそうな様子も、「三千喜君と喧嘩した」からじゃなくて、「流れに任せて付き合うことにしてしまった自分への罪悪感」だとしたら⁉

 付き合えて嬉しいけど、弱みを握って言わせた感じで申し訳ないとか? でも、それはそれでやっぱり付き合えたことは嬉しい的な⁉

 そうだ……絶対そうだ! 言われてみればそうじゃん!

 それに気付いちゃった今、姉御の表情が嬉しくてニヤけるのを隠そうとしているようにしか見えない!

「…………」

 いや、いやいやちょっと待って。一旦落ち着きなさいよウチ。付き合ったんならうちに報告くらいしてくれてもよくないかい? 報告されないってことは、付き合ってないんでしょ。

 ……あれ? でも。姉御はVチューバーになりたいって思ってることをウチに教えてくれなかったような……。

 つまり、今回も「揶揄われるから」って言ってウチに秘密にしていることは……。

 ————ある、あるな。というかそれしか無いですわ。

 そういうことなら、三千喜君にお祝いの言葉を送ってあげようじゃないか!

 姉御はシャイだから、ウチに直接言われたら顔真っ赤にして逃げちゃいそうだし。

 そう思って、スマホのメッセージアプリを起動して三千喜君に電話を掛ける。

「…………あれ?」

 出ない。三千喜君が電話に出てくれない。もう十コールくらいは鳴らしてんのに出てくれない。

 まぁいいや。それはそれで、姉御と三千喜君が付き合ったっていうウチの考えを裏付けるのに十分だし。……けども。

「————————お前もシャイなんかいぃ‼」

 それだけは言ってやりたくて、ウチはスマホを床に投げつけながら大声を出した。

「————⁉ あ、あかね……?」

 そんなウチの奇行に、姉御が戸惑いを見せたのは言うまでもない。


   ◇


「…………んぁ」

 ふと、意識が覚醒して欠伸をする。

 いつの間にか寝ていたらしい。今の俺にはやるべきことがあるのに、だ。

いや、もう……やるべきことなんてないのかもしれない。

眠くないのに眠いと思う。何をするにもやる気が起きない。体が、指一本ですらも動かすのが億劫に感じる。

床に仰向けで寝そべり、ただ息を吸って吐いてを繰り返して、時が過ぎるのを眺めるだけ。体が動かないのをいいことに、俺の湿った心は深海に沈んでった。

動きたくない。考えたくもない。このまま目を閉じて、開いたらすべて過去のことになっていないだろうか。————そうだ、それがいい。全て投げ出して、楽になればいいじゃないか。

そう思って俺は、また寝るために意識を手放そうとしたその時。

嫌に甲高いメッセージアプリの通知音が、俺の机の上から聞こえてきた。


その音を聞いた途端、さっきまでわずかにも動かなかった俺の体は簡単に起き上がる。ほぼ反射的に、何かを期待するわけでもなく。

スマホが鳴ったら画面を見る、という行動をプログラミングされたロボットのように。

————ただほんの少し、そのメッセージに少しの希望を求めて。

「……なんだ。柊木かよ」

 無機質に画面に表示されている、俺にメッセージを送ってきた相手の名前を見てため息をつく。柊木には悪いと思うけど、俺が求めていたものじゃない……けれど。

「————————写真?」

 柊木が送ってきたのはメッセージではなく写真だった。残念なことに写真は、通知で送られてきたものを見ることが出来ない。

だからこそ無性に知りたくなる。俺の求めていたものが、意図的にそこへ隠されているような気がして。

「…………」

 柊木からのメッセージだと知った時、俺はアプリを起動するつもりはなかった。そのままUターンして、ベッドに潜り込もうと思っていた……。

 だけど、その一枚の写真にまんまとつられて俺はアプリを開いた。そして目に入ってくる、パソコンの画面をスマホで撮った写真。

「————なんだよ、これ」

 その写真を見て俺はそう吐き捨てた。

「嫌味のつもりか……」

 送られてきた写真は、パソコンの画面を撮った一枚だけ。しかし、そのパソコンの画像には、企業Vチューバーのオーディション応募画面が映っていた。

 そして、当然の如く「送信完了」という文字がでかでかと目に入ってくる。

「……ふざけんなよ」

 俺はまだ絵を描けるようになっていない。それなのに企業Vチューバーのオーディションに応募したということは、あの二人はもう俺に絵を描いて貰うつもりが無いのだろう。

 そしてどういうわけか、それを俺に送ってきたという訳だ。嫌がらせするかのように。

 要するに、「お前はもう用済みだ」と言われたのと変わらない。

「————————ふざけんなよ‼」

 それが無性にムカついて、柄にもなく大声を出してスマホを壁に投げつけた。

そして、電池が切れたかのようにベットに座り込み俯く。

……こうなることは分かっていた。というか、最初は俺だってこうなることを望んでいた。企業Vチューバーになった方がいいって、柊木と一緒に太知に勧めたのは俺だ。

「……俺の描いた絵じゃないと嫌なんじゃなかったのかよ————っ」

 そう言ってくれる太知に「俺はもう絵が描けない」と、散々言ってきたのも俺だ。おまけに、アイツが好きだと言ってくれた俺の描いた絵を「気持ち悪い絵」だと批判したのも俺自身。これについてはつい昨日の出来事で。

こんな態度を取り続けてきたんだから、太知がイラストを描いて貰うのを諦めることなんて想像に容易い。というか、俺が諦めさせたんじゃないか。

……それなのに、俺が太知に怒りの矛先を向けるのはお門違いも甚だしい。

だけど————、

「全部、嘘だったのかよ————!」

 目を輝かせて俺の絵を「好きだ」と言ってくれたのも、俺が描いた絵じゃないと嫌だと駄々をこねていたのも全部、嘘だったのかと思ってしまう。

 いや、嘘だったんだろう。きっと、今までの言葉全てが嘘だったんだ。


 あの日、あの時。俺に向かって「キモい」と言ってきたアイツと同じように————。


   ◇


「はぁ…………」

 お気に入りのぬいぐるみの「なめろー」を抱きしめながらため息をついた。

 だけど、ため息をついたところで鬱屈とした気分がまぎれることはなくて。むしろ、さらに沈んでいく気分に目を瞑りたくなってくる。

「姉御ー、そんなにため息つかないでくださいよー」

「あー、うん。……ごめん」

 だけど、目を瞑ろうにも、今のアタシの部屋には茜がいる。何かとやかましい茜がいたんじゃ、目を瞑っても落ち着けないし落ち着かせてくれない。

「いや、謝らなくてもいーんですけどね? ただ、今の姉御を見てるとウチも恋したくなってくるってゆーか? とにかく、惚気るのは程々にして欲しいです」

「…………はぁ?」

 なぜ、落ち込んでいる人間を見ると恋がしたくなってくるのだろうか。そもそも、アタシは惚気てなんかいないのだけども。アタシの友達は今、ふざけているのだろうか?

 そう思わずにはいられなくて、それにアタシの気分が沈んでいることも合わさって、少し嫌な感じに聞き返してしまった。

「……なんでウチがそんな嫌そうな顔されなきゃいけないんですか⁉ むしろウチがそんな顔したいくらいですよぉ! さっきから惚気てばっかで!」

「————いや、アタシは惚気てなんか無いけど」

「いーえ、惚気てますね! というか、惚気てる本人は自分が惚気てるかどうかなんて自覚できませんから! つまり、ウチが惚気てるっていったら惚気てるんです!」

「…………は、意味分からないんだけど」

 惚気ているっていうことはつまり、恋人の自慢話をしているということなんだろう。

 ……恋人のいないアタシが、どうやって恋人の自慢をするのだろうか?

「はぁぁぁ、もう! どーせ企業から返信来るまでは暇なんですから、三千喜君の所に行ったらどうですか! ウチのことなんて気にせず! さぁ!」

「————⁉ 行けるわけないじゃん!」

「なんですか! 恥ずかしいって言うんですか! 随分乙女な事言うんですね、ヤンキーのくせに! 堂々と会いに行けばいいでしょうに! 向こうだって会いたいと思ってんだから!」

 そーやがアタシに会いたいと思っている……? そんなことがあるわけない。

 だというのに、茜はアタシをベッドから起こすと部屋の外へと押し出そうとする。

「は……ちょっ————そーやがアタシに会いたいと思ってるわけないじゃん!」

「どーしてですか! 彼女に会いたくない彼氏なんているわけないでしょが!」

「————————は?」

「…………え?」

 彼氏? 彼女? いったい茜はなんの話をしてるんだろうか?

 話の内容がさっぱり分からなくなって、思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

 しかし、そんなアタシの様子を見た茜は何かに気付いたようで、顔が青ざめていく。

「え……いや、そんなまさか————。え? 嘘ですよね?」

「そう言われても、何がなんだかさっぱり分かってないんだけど? アタシ」

「え……姉御って、三千喜君と付き合ってるんですよ、ね……?」

「………………」

 ————え?

「な、ななな————バカじゃねぇの⁉ なんでそんな事になるんだよ⁉」

 意味が分からな過ぎて、驚きすぎて。思わず素の言葉遣いが出てくるほどに衝撃だった。

 今までのアタシの様子をどんなふうに見たら、アタシとそーやが付き合っているという結論になるのだろうか。

「だ、だだだって! 姉御すごく悩まし気にため息ついてたじゃないですか!」

「それがどうして付き合ってることになんの⁉ バカなんじゃないの⁉」

「そりゃアレですよ! 恋の悩みですよ! ぬいぐるみなんて抱えちゃってたら、もうそれにしか見えなくても仕方ないじゃないですか!」

「そ、そんなことないでしょうが! 別にぬいぐるみ抱えてたって恋の悩みになるわけじゃないから! 何でもかんでも恋愛に結びつけんな! バカ!」

 そうは言いつつも、茜がぬいぐるみを抱えて悩んでいたらたぶんアタシも「あー、恋で悩んでんだなー」と思っていただろう。

 そう思ってたかもしれないだけに、それを指摘されてすごく恥ずかしい。

「え、てゆーかどうするんですか⁉ ウチてっきり二人が付き合い始めたんだと思って、三千喜君に「おめでとう!」って送っちゃったんですけど⁉」

「————はい⁉」

 アタシが信じられないとばかりに聞き返すと、茜はこれが証拠だと言わんばかりに「ほら!」とメッセージアプリの画面を見せてくる。

「————な、何やってんだよ⁉ バカあぁ‼」

 既に茜が送ったメッセージには既読が付いていて、今から取り消しを押しても意味がない。それに、そーやとは言い合いになったばっかりで気まずい状況だったのに。茜がそれを余計に気まずくしてくれてしまった。もう、どんな顔をしてそーやに会えばいいのか分からない。

 

どんどん悪くなっていく状況にアタシが絶望していると、部屋の外から怒っているのが伝わってくる足音が聞こえてくる。

「————ちょっと‼ いい加減にしなさいよ、あなたたち。多少うるさくしてもいいとは言ったけどねぇ、下で流してる音楽が聞こえないくらいの声で騒ぐんじゃ……」

 部屋のドアを開けると同時に、小言を言いながら入ってきた母さんの姿を見て。

 アタシと茜は、無意識のうちに母さんに縋るような視線を送っていた。

「な、なによ……。なんでそんな泣きそうな目で私を見てくるわけ?」

 

そんな困惑している母さんに、アタシたち二人は泣きついた。


   ◇


「……えーと、つまり。姉御は昨日の夜に三千喜君と喧嘩したってことですか?」

「うん、そう。……多分、ものすごい嫌われた」

 お母さんを交えた三人で、昨日の出来事を振り返る。だけど、アタシたちの事情なんて全く知らない母さんは、腕を組んで小難しい顔をしていた。

「————ちょっと待ってちょうだい。その「三千喜君」って誰のことよ?」

「……なんで覚えてないの。この間、勝手に人の家に入るなって怒ってたのにさぁ」

「あぁ、あの子だったのね。……それで?」

「そ、それで……姉御は昨日の夜、その子の家に行ったんですけど、そこで言い争いの喧嘩をした————って事みたいです」

 そーやが家に来てから母さんはだいぶ変わった。以前よりアタシに話しかけてくることが多くなったし、少し優しくなった気がする。ため息をついてはいるけど、最後には許してくれることが多くなった。

 だけど、茜は母さんがまだ怖いのか、おっかなびっくり母さんに説明していた。

「————そう。悪いけど、私にはその子と喧嘩したことがそんなに不味いことには思えないのだけど? あなたたちは一体、何をそんなに危惧しているわけ?」

「え? えっと、それは……だって姉御が……」

「アタシがそーやに絵を描いて欲しいからだけど。母さん」

「なら描いて貰えばいいだけじゃない」

「「…………」」

 一も二もなく正論を母さんに言われ、アタシと茜は押し黙った。最近は少し優しくなった————とか思ってたけど、やっぱりそんなことはなかったらしい。

 こっちはお願いする立場なのに、喧嘩して気まずい関係になってしまったらお願いしにくくなるということが分からないんじゃないか。まぁ、母さんくらい図太すぎる神経を持ってれば、そんなことは気にならないんだろうけど。

「だいたいヒカリ、あなた分かってるの? 一カ月以内にVチューバーになれないなら、その夢は諦めなさいと言ったはずよ。どういう風に考えてもあなたの勝手だけど、創哉君に描いて貰うことに拘ってて、あなた本当に約束を守れるのかしら?」

「————っ! それは……」

 多分、守れないと思う。今のそーやは、まだ描ける状態にすらなっていないのだから。

「————ヒカリ。あなたがなりたいのはVチューバーなんでしょう? だったら、今どうするべきかは明確に見えているはずよ。創哉君に描いて貰うことに拘っていないで、Vチューバーになる為に必要なことをするべきなんじゃないかしら」

 分かってる。……そんなことは、母さんに言われなくても分かってる。

 だから茜に企業Vチューバーのオーディションを受けるって伝えたんだし、その為に自己紹介動画を撮って書類を送ったんだから。

 母さんに言われるまでもなく、Vチューバーになる為に必要なことをしてる。

 

…………だけど。


だけどなんか違う。上手く言葉にできないけど、なんとなく「これじゃない」と思ってしまう。アタシがなりたいと思ったVチューバーは、こんなものじゃないと。

「————姉御…………」

 黙って俯いたまま動かないアタシを見て、茜が心配してくれたのか声を掛けてくれる。だけど、茜だって本当は母さんと同じことを言いたいのかもしれない。

「……はぁ。ヒカリ、私だってあなたの気持ちが分からないわけじゃないのよ」

「————————え?」

 いつもの母さんなら、アタシの気持ちなんて知ったことじゃないと言わんばかりに「こうしなさい」としか言わないのに。

「気持ちが分からないわけじゃない」という母さんの言葉が意外で、アタシは思わず頭を上げた。

「今、私が働いている会社も、最初は私のしたい仕事だから入社したの。自分の思ったようにWEBページのデザインをするのが好きだったから。……でも、楽しく仕事が出来てたのは最初の内だけよ」

 昔を懐かしむように目を細めた母さんは、柄にもなく優しい声で話し続けた。

「仕事に慣れ始めてくるとね、途端に嫌なことばかり目につくのよ。仕事をしないくせに、私の作ったものに文句をたれる上司。自分の思ってたものと少し違うからって、キレ散らかすクライアント。頼んでおいたことを、悪びれもせずに「忘れました」って言ってくる部下……。今まで楽しかったWEBページを作ることも、ただの苦行でしかなくなったわ」

「そう————なんだ……」

 今まで、母さんの仕事の話なんて聞いたことがなかったアタシにとって、その話は新鮮だった。ただの口うるさい親程度にしか思っていなかったのに、母さんも苦労してるんだってことを聞かされると急に親近感がわいてくる。

「でもね、それでもやらなきゃいけないのがプロなのよ。楽しくなかろうが、苦しかろうが、やり続けなきゃいけないの。————あなたのなりたいVチューバーだって、動画配信のプロなんでしょう?」

「……うん」

「だったら、あなたの望んだ形でなかったとしても我慢するべきよ。きっと、Vチューバーになったとして、今後も我慢しないといけないことはたくさん出てくるもの」

「…………」

 母さんの言う通り、Vチューバーになった後も我慢しなきゃいけないことが出てくるのは分かってる。

 だけど、Vチューバーになりたいと言ったのはアタシ。母さんが何を言おうと、アタシがやりたいようにやる。

 ————そう思っているのに、自分のやりたいことが分からなくなってしまった。

 Vチューバーになりたいのか、それともそーやにイラストを描いて欲しいだけなのか。

「————今、私が言えるのはこれだけよ。あとはあなたが決めなさい」

 黙り込んだアタシに母さんはそう言って、部屋から出て行った。

 そうして茜とアタシの二人だけに戻った部屋の中で、アタシは膝を抱えて蹲る。

 アタシはこれからどうすればいいのだろう。そもそも、なんでアタシはVチューバーになりたいと思ったんだっけ……。

 

それは、まともに人と会話できない自分を変えたかったからで。自分の好きなものの話を他の人ともしたかったからで————。

「————姉御。今ならまだ……オーディションを辞退することは出来ますよ……?」

 ……そうだった。アタシがVチューバーになりたいと思った理由なんて、最初から決まってる。いまさら悩むことなんて何もない。

 ————のに。

「……もう決めたから、オーディションは受ける。そーやにイラストを描いて貰うことは————諦めた」

 それを聞いた茜はホッと息をついて顔を綻ばせた。

 だけどアタシは、自分で口にしたはずなのに「もやもや」とした何かが消えなくて。

 

 少し触れただけで崩れてしまいそうな心をそっと抱えるみたいに、その迷いに結論を出すことが出来なかった。


   ◇


 静かな空間の中で、一枚の絵画をただ眺めていた。

「企業Vチューバーのオーディションに応募した」という写真が柊木から送られてきた後。俺は何を思ったのか、東京にある美術館に来ていた。

 それをわざわざ俺に送ってくるということは、太知にはもう俺にイラストを描いて貰うつもりはないということだろう。

 つまり、俺がいまさらイラストを描けるようになったって無駄だ。だから美術館なんていう、何も面白くない場所に来る必要だってない。

 

————それでも俺は、足の赴くままにこの場所に来ていた。もしかしたら「色」が見えるようになるかもしれないと期待して。

ただ、結果は単純だった。イラストじゃなくて絵画なら、「色」が見えるかもしれないと思ったけど、実際は何も変わらない。

むしろイラスト以上に訳の分からない、見てて何も感じない「線画」が見えるだけだ。

「…………帰るか」

 そう呟き、出口へと足を進める。

そうして歩く中で、自分が何をしたいのか分からなくなった。

決して安くない交通費を払い、美術館の入場チケットまで買って、二時間も見たのに何も変わらない。何も得られなかった。

むしろ悩みが増えただけじゃないか。色が見えないことだけだったものが、自分がこれからどうしようかというものまで追加された。

「柄にもないことするもんじゃねーなー……」

 本当にその通りだ。時間と金をかけて気分転換しようとした結果が、悩みが一つ増えただけという成果なのだから。

「……これからどうするんだよ」

 自分に言い聞かせるように呟いて、少し考えてみる。

 ————が、考えれば考えるほど、どうにでもなる。というか、思い返してみれば俺の生活は何も変わってない。

 色が見えなくなったことも、別に今に始まったことではない。それに俺は元々、美術館で絵画を見て「面白い」と思うような人間でもなかった。

 特にやりたいことも、やらなきゃいけないこともなく、学校にだけはとりあえず通って、あとは自分の好きなようにだらだらとした生活を送る。

そんな俺の生活が、変わることはない……。

「………………」

 いや、違う。変わらないんじゃない、変えたいんだ。

 ふとした時に記憶に流れる、太知が俺の描いた絵を「好きだ」と言ってくれた時のこと。

 あの時の太知の笑顔がもう一度見たくて、期待に応えたくて、俺はもう一度イラストを描くことを決めたんじゃないか。

 昨日、太知と言い合いになったのだって、イラストを描きたくなくなったわけじゃない。描きたいと思ってて、太知からも期待されてるのに、いつになっても描けない自分に嫌気が差したんだ。変わりたいのに変われないまま。そんな自分に嫌気が差したんだろ。

 それでもまだ、イラスとを書きたいと思ってんなら……。

 太知の為に、Vチューバーのモデルを描きたいと思ってんなら————。

色が見えないことも、自分にとって嫌な思い出のある絵も関係ない。

 太知が好きだと言ってくれた絵を描いた日のように、がむしゃらに、ただひたすら自分の思う「最高」を形にすればいいだけだ。

 そもそも俺は、自分で太知に言ったんじゃないか。一年以上描いてないから、描けるようになったとしてもクオリティは落ちるって。初心者とたいして変わらないかも知れないって。

 だったら初心者と同じように、目の前にある描きたいイラストに集中するべきだろう。

 言い訳なんか必要ない。

「————————よし」

 自分の感情に区切りをつけて。家に帰ったらまず、途中で投げ出したイラストに向き合おうと決めた。

 いままで空っぽになっていた俺のやる気は、そう決めた途端ふつふつと湧き上がる。

「……そうと決まれば、早く帰らないとな」

 この胸に湧き上がる、やる気の炎が消えてしまう前に。今の自分にとって最高のイラストを描こう。


 そう思って、駅に向かう足をさらに速くしようとした時だった————。

「————え。アンタもしかして、「そーやー」じゃないの?」

美術館を出て、俺はいつの間にそんな歩いていたのか、駅の近くの交差点にまで来ていた。

駅がすぐ近くにあることも気付かないくらい、俺は自分の思考に夢中になりながら歩いていたのだろう。交差点を行きかう人たちの足音も、車が鳴らすクラクションの音も、信号の音でさえ俺の耳には留まらない。

なのに、その声はそんな俺をたった一言で引き留めた。

脳裏にこびりついて消えない嫌な記憶。その記憶を思い出すたびに聞こえてくる「気色悪い」という言葉。

その言葉と全く同じ声が今、俺の後ろから聞こえてきて足を止める。そして、辞めとけばいいのに俺は振り返った。

 そうして、ゆっくりと振り返った先にある、俺に声を掛けた人物の姿を見て。

「あー、やっぱりそうだったぁ! なんでこんなところにいんのぉ?」

 

————再び聞こえたその声に、俺は全身が粟立つのを感じながら立ちすくんだ。


   ◇


「なんで……って。それはこっちのセリフだろ」

 人通りが決して少なくはない東京の交差点。そんな場所で俺に声を掛けてきた人物に、平静を装ってそう返した。

 だが、そんな態度とは裏腹に頭は混乱している。なぜ、よりにもよってコイツがここにいるのか、と。

「はぁ? 別に私は引きこもりとかじゃないし。どっかの誰かさんと違ってねぇ?」

「————そう、だな。……なら俺に話しかけてくんなよ」

 俺にとってのトラウマであり、出来ることならもう二度と会いたくなかった人間が今、目の前で不敵な笑みを浮かべている。


 ゆるくウェーブのかかった黒髪。細身でありながら、出るところはしっかりと出ている体型。そして、黒い髪に似合う透き通った肌。

 一目見ただけでは、目の前にいる女子が清楚であることなど疑いようがない出で立ち。

 ただ、そんなものは目の前にいる存在が作りあげた嘘に過ぎない。そのことを、俺は他でもないコイツから身をもって思い知らされた。

 白と黒のモノトーンを基調とした、真面目で大人しそうな雰囲気の服装も。後ろで手を組んで、少し上目遣いになりながら俺の様子を観察するその仕草も。

 傍から見れば、スタイルのいい美少女が、俺を少し揶揄って遊んでいるようにしか見えないだろう。だがそれら全て、コイツは「演じている」んだ。

 自分の魅力という武器を、最大限生かす方法をこの女は知っている。

「————あれぇ? もしかしてそーやーさぁ、私にビビってんの?」

「…………別に」

 嘲笑の交じった声でそう言われ、俺はいまさらながら足を止めたことを激しく後悔した。

「へぇ? ビビってないんだ? ————じゃあなんで目を合わせようとしないのかなぁ?」

「————あんたのその、気持ち悪い顔を見たくねぇからだよ」

 相も変わらず、俺を嘲笑って端正な顔を歪めているその女に、精一杯の強がりを言った。だけど、その程度の言葉でコイツが傷つくわけもなく。むしろ余計に調子に乗らせるだけだった。

「あっはははは! なにその理由! ウケるんですけど。————つーか、隠しても無駄だから。アンタさ、私にまた「気色悪い」って言われるのが怖いんでしょ」

「————————っ‼」

 平静を装っていたのに、たったその一言で俺の体は竦んでしまう。

「忘れてると思った? それとも、気付いてないとでも思った? ざーんねん、ちゃんと覚えてますー。……アンタのせいで、私はアイドルを辞めることになったんだもん。忘れられるわけがないよねぇ!」

「………………」

「で、そんな私のアイドル人生を台無しにしてくれたアンタが、なんでこんな所に遊びに来て人生楽しんでるわけ?」

 楽しんでる……? ふざけんなよ。

 お前のせいで、俺は色も見えなくなってイラストを描けなくなったってのに。他のアイドルより多少、愛想を振りまくのが上手かった程度のお前に、なんで俺の描いた絵の文句を言われないといけないんだよ。

 なんであの時、俺はお前なんかの為にイラストを描かなきゃいけなかったんだよ。

 そんな不満が、愚痴となって止めどなく溢れ続ける。

お前さえいなければ、お前と出会ってさえいなければ。考えてもしょうがないと頭で理解はしていても、そう思わずにはいられない。


だけど、俺はその愚痴を口には出さなかった。……いや、出せなかった。

二度と会いたくなかった人間に出会い、好き放題言われた時点で。俺の心はとっくに崩壊していて、言い返す気力すらわかなかった。

「………………」

「————チッ。陰キャが外に出てくんじゃねぇよ。気色悪い絵を描くことしか取り柄がない陰キャ風情が」

 何も言い返せず、ただ黙って立ち竦んでいただけ。

そんな俺の様子を見て何を言っても無駄だと判断したのか、そいつは本性を現して捨て台詞を吐いた後、人混みの中へと消えていく————。

そうしてやっと一人になれたというのに、俺はその場に立ち竦んだままだった。


————歩道のど真ん中に突っ立ったまま俯く俺を、通行人たちは迷惑そうに避けて歩いていく。

異物を見るような視線を向けられ、たまに舌打ちすら聞こえてくるその中で。

俺はついさっき言われた「気色悪い」という言葉を、頭で繰り返していた。


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